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戦国時代には移動手段は陸路と海路しかありませんでした。
荷物が多い場合は、当然、船を選ぶと思いますが、当時、地方の大名(今川義元や武田信玄)が1万を超える兵で上洛する時などは海ではなく、陸を移動しています。
これは大人数の兵を収容できる軍船を持っていなかったからなのでしょうか?
また、戦になったときに海で戦うよりも陸の方が有利であると考えたからなのでしょうか?
はたまた何か別な理由(金銭的?)があったのでしょうか?

A 回答 (6件)

いつの時代もそうですが、上陸戦は極めて難しいんです。


だから安全な上陸ポイントがなければ、非常にリスキーで、あまり使用されません。

それから北条、武田、今川あたりはあまり大きな水軍を持っていません。太平洋側の海運は主に江戸時代に開設されたもので、もともと太平洋側には船が少ないんです。

日頃から高い金かけて船をそろえるくらいなら、矢や鉄砲を集めた方が戦力として効果的です。

一方瀬戸内海では平安時代から海運が盛んに利用されています。
日本海側も越智の国各所と敦賀を結ぶ海運が発達していきます。
こちらは京都の裏玄関(敦賀・賤ヶ岳・琵琶湖・淀川・京というルート)として、京に米等を輸送するルートです。

よって瀬戸内海ではたまに海軍を大きくを活用した戦争が昔から散見されます。
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この回答へのお礼

有難うございました。
やはり、リスクが大きく、敵国への移動手段としては現実的ではないようですね。

お礼日時:2009/04/20 22:43

兵船による水上機動で奇襲をかけることは、戦国時代よりはるか前の源平合戦の際に、源義経が屋島の戦いで行っており、見事に勝利を収めています。

ただし、義経が伴った兵の数はごく僅かであったようです。

今川義元は、尾張を領する織田家(信秀・信長)との戦争で、伊勢湾の水軍を活用しております。織田家も同様に、伊勢湾で水上機動を行っております。

津本陽の「下天は夢か」の冒頭で紹介されていますが、織田信長が尾張統一戦争を戦う過程で、荒天を押して伊勢湾を兵船で移動し、敵の城を攻略した例があります。

今川義元が戦死した桶狭間の合戦の折にも、今川義元に組する伊勢長島周辺を根拠とする服部右京進という武士が、多数の軍船を率いて今川家が支配する大高城に接する港へ来る段取りになっており、今川軍の一部がその軍船に乗って織田軍の背後を攻撃する予定だったようです。

新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川 七〇年戦争の実相 (学研新書)
http://www.amazon.co.jp/dp/405403909X

で、史料を引用して詳しく論証されております。

駿河の例えば清水湊から、多数の兵船で直接伊勢湾を突くこと、あるいはその反対は、太平洋の波が荒いために戦国時代の日本の水軍の手に余ることだったようで、江戸時代に至るまで「太平洋での水軍による大規模な戦闘」は見られません。豊臣秀吉の北条氏攻撃の際に、太平洋の海路で大量の兵糧を輸送して兵站を万全にしたとのことですが、これは平穏な天候を選べる「兵站輸送」だから可能であったことです。

ご指摘のように今川家も駿河進出後の武田家も小田原北条家も水軍を持っていましたが、瀬戸内や伊勢の水軍と比べると小規模で、
「海が平穏な時期を狙い、ゲリラ的に敵の手薄な地点を襲撃する」
ことを目的としていたようです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
回答をとても興味深く読ませていただきました。
戦国時代に興味を持って20年以上経ちますが、まだまだ、知らないことがたくさんあるのだと実感いたしました。
たいへん勉強になりました。

お礼日時:2009/04/20 22:51

今川義元は上洛考えてませんでしたが、西から「武者舟千艘ばかり」(信長公記)を動かしてます。

東西から織田を攻撃したわけで、万全の態勢ですね。
大軍を動かす際、船は兵站に利用するのが効率いいんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

有難うございます。
やはり船は運送がメインなんですね。

お礼日時:2009/04/20 22:30

 毛利水軍とかだと数百隻の軍船と万単位の兵員を輸送できますけど…。



 秀吉の時代まで行くと、朝鮮半島に10万人以上の兵員を輸送していますし…。

 あと、太平洋側は結構波がきつくて長距離航行には適さなかったので発達が遅れていただけだと思います。(瀬戸内海や冬を除いた日本海側は海運が発達していたのですが…。)

 たしか上杉謙信は上洛時に海路で移動していますし、毛利水軍は直接海路で大坂本願寺救援に向かい、織田水軍と戦っています。
   http://tenkafubu.fc2web.com/honganji/html/kidu.htm
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この回答へのお礼

有難うございました。
私の勝手なイメージですが、太平洋の方が波が穏やかな感じがしていました。
それから、謙信の上洛については僅かな供だけ移動したと聞いていました。

お礼日時:2009/04/19 20:58

武田は海に接してい無いので海に出るには敵国を抜けないといけない、それに船持ってないし



今川は海に接しているけど上陸できる場所が敵国なんで結局は戦わないといけない

1万人規模の人員が乗れる複数の船は無いし、船に乗りなれていない者ばかりなので、全員船酔いしちゃって戦力とならない
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この回答へのお礼

有難うございました。
信玄が上洛しようとしたときにはすでに駿河を手に入れており、海に出ることはできました。
また、数は少なかったようですが軍船も所持していたようです。

お礼日時:2009/04/19 21:07

当時の一番大きい戦艦、安宅船で乗員180人ほど。


大きいほど手こぎメインなので、航海士が50人から150人ほど必要で、多くても100人程度しか武士は乗船できません。
1万人運ぶのに100艘以上と1万人以上の船乗りが必要。そして100艘を係留できて、1万人の船乗りの補給ができる港なければ上陸できません。そして現地で乗る馬の補給も必要。

そして当時の日本人のほとんどは泳げません。その上に具足をつけたらどうしようもない。
具足をつけないで海戦をやったら矢ぶすまですし、武術は剣術と槍術を元にできているので、武士の仕事は何もありません。

武士が活躍するには、陸じゃなきゃできないのです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
昔は船で移動するのも一苦労ですね。
また、当時の安宅船は漕帆両用だったようですね。
同じ目的地を目指して陸と海で、同時にスタートしたら、どちらが、どれだけ早く着くんでしょうね。
もし、時間に大差が無いのならコストやリスクの少ない方を選ぶでしょうね。

お礼日時:2009/04/19 21:18

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