質問

江戸時代の五人扶持、大工棟梁といえばどれぐらいの地位だったのでしょうか。
当時のランクなどを表にしたものがあれば教えてください。

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回答 (7件)

No.3です。

>茶道奉行とか作事奉行というのはどんな立場でどんな仕事をしたのでしょうか。

茶道奉行は、茶道の指南と茶会のセッティングが主な仕事です。安土桃山時代から江戸時代においては、茶会は上級武士の社交場でしたから、藩内外の貴賓をもてなすこともある重要な役職でした。

作事奉行は、藩の建設工事を統括する役職です。建設計画の立案のほか、配下の大工頭(だいくがしら)等を使って現場の管理も行っていました。

この回答へのお礼

ありがとうございます。大事な地位のひとつなんですね。

ひょっとして「古市宗庵」のことを言っているのでしょうか。
彼であれば、本能寺の僧侶の円乗坊宗円の養子(娘婿)で、肥後古流流祖で、細川忠利の命で、水前寺成趣園の基礎となる「国分の御茶屋」の設計もやっていますから、大工でもあり茶人でもある、という点では一致します。

ただ細川家の茶道師範ですと250石程度はありますから、50石というのは一致しません。

参考URLの萱野正的なども見てください。

この回答へのお礼

ありがとうございます。けっこう重要な地位でもあったんですね。

>細川氏の側室から公家から婿養子をもらって立て直そうとしたようですが

お公家さんに婿養子に入ったのではなく、お公家さんの婿養子をもらったのですね。それで芸道や作法指南として藩公に仕えたというのなら話はわかります。

しかし、それだと俸給が扶持米だけという点と、大工の棟梁だったという点がよく分からなくなります。他の方も書かれていますが、五人扶持だけではとても一家を養っていけません。他に知行を貰っていたのではないでしょうか?

また大工の棟梁は多くの職人を統率しなければなりませんし、土木や建築に関する高度の専門知識が必要となります。お公家さんの婿養子に勤まるものではありませんし、そもそも町民ですから公家から婿養子は貰わないでしょう。

お話の内容からすると大工の棟梁ではなく、土木工事を担当する作事奉行だったのではないでしょうか?代々細川家に仕える武士で、ある代では茶道奉行として、ある代では作事奉行として仕えた、ということであれば理解できるのですが。

この回答へのお礼

ありがとうございます。茶道奉行とか作事奉行というのはどんな立場でどんな仕事をしたのでしょうか。

>家が断絶しそうになったので、藩主の側室のはからいで公家の婿養子になっていったん姓が変わるんですが

貴族も男系社会なので、いくら裕福でも町民が貴族に婿入りすることはまず有り得ません。お話の内容からすると、gcatさんの御先祖は町民ではなく郷士だったようですね。

郷士とは、かって武士だった者が改易などによって主家を失い、新しい国主に仕えず土着した身分を指します。肥後は戦国から江戸初期にかけて領主がめまぐるしく交代しましたから、多くの武士が郷士になったものと思われます。

郷士は正式な藩士(上士)ではありませんので、苗字帯刀は許されていますが、身分としては武士と農民の中間に位置します。しかし前領主の下でかなり高い地位にいた人でも郷士になる場合がありましたから、地方にあける有力者である場合も多かったのです(もちろん、極めて貧しい郷士がほとんどでしたが)。

上級武士が郷士となった場合には、家柄もしっかりしていますし経済力もありましたから、貴族の婿養子に入ることも可能です。

この回答へのお礼

すみません。最初から肥後にいたわけではないようです。細川氏の側室から公家から婿養子をもらって立て直そうとしたようですが、しばらく婿養子の姓になっているのです。その婿養子は藩主から命じられ茶道奉行になったり、藩主の参勤交代に同伴していますが家人に放蕩人が出たため嘆いて最後は僧侶になっています。
元の姓には婿養子をもらってしばらくして復活します。江戸末期まで細川家で働いていたようですが同じ姓の武士が太平記から細川氏と一緒に戦ったという記録もあるので、これが先祖だとするとずっとくっついて肥後までやってきたのでしょうか?もともとは長講堂領の荘園を持っていたようですが、承久の乱で後鳥羽上皇について京都防衛で幕府側と戦って負けた記録も承久記にあるので所領没収で逃げ延びたみたいなのですが・・・・・・

>江戸時代の五人扶持、大工棟梁といえばどれぐらいの地位だったのでしょうか。

五人扶持というのは、武士の給料の一部の扶持米の量を表します。扶持米には男扶持と女扶持があって、男扶持で一人当たり年一石八斗、女扶持で一人当たり年一石八升です。男扶持で計算すると、五人扶持=九石となります。お金に直すと約8両になります。

大工の棟梁ということですので、町民ではありますが藩の役所詰めとして召し出され、役料(役職手当)を貰っていたのでしょう。

一口に大工の棟梁といってもピンからキリまでありますが、寺社や城などの建築を手がける宮大工の棟梁ともなれば、収入は大名に匹敵します。藩に召抱えられるほどなら、かなり大きな組を従えていたはずですから、五人扶持の役料などお小遣いにもなりませんね。もっとも藩に召抱えられた棟梁の中には名字・帯刀を許される者もいましたから、大変な名誉であったことは確かです。

この回答へのお礼

家が断絶しそうになったので、藩主の側室のはからいで公家の婿養子になっていったん姓が変わるんですが、そのあと再び同じ姓に戻すのですが、どういうことでしょうか。町民でもそういうことはよくあったのでしょうか。

>江戸時代は肥後藩で五人扶持、大工棟梁だったのですが、戦国時代は荘園を預かる武士だったようです。武士から技術者になるということはあるのですか?それとも代々技術者だったのでしょうか。


戦国時代までは武士や農民、あるいは技術者とがはっきり区別されていたわけではありませんので、戦国以前は武士だったが、江戸時代には違う身分になっていたと言うことは珍しくありません。
ただ、大工棟梁であればやはり技術なしではなれないでしょうから代々技術は継承されていたものと思われます。

この回答へのお礼

ありがとうございました。武士とか農民とかはっきり身分差別をしていなかったのですね。

江戸時代のランクで言えば何石が一番上で、次が何俵、何人扶持というのは一番下です。
ただ下級武士なら、何石何人扶持とか何俵何人扶持と石とりや俵とりにあわせて扶持をもらう場合もあります。
たんに扶持だけしかないのは正規の武士ではなく、足軽よりも下の中間クラスということになります。
五人扶持、大工棟梁というのであれば、幕府や大名家などから扶持をもらうお抱えの技術者ということになりますから大工の中では最高クラスということになります。(もちろん幕府の大工頭などを除いてですが。)

この回答へのお礼

江戸時代は肥後藩で五人扶持、大工棟梁だったのですが、戦国時代は荘園を預かる武士だったようです。武士から技術者になるということはあるのですか?それとも代々技術者だったのでしょうか。

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