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仏教では山川草木悉皆成仏と説いていますが
これが難解で分かりません。

感情のあるものを有情、そうでないものを非情と
捉えて、人は有情ではあるが髪とか爪など感情の
ないところの非情と一体になっている。
人に仏性があるのは、有情非情ともに仏性がある
ことである。だから非情の山川草木にも仏性が
ある。こういうことを教わりましたが、その時は
なるほどそうなんだと思いましたが、いま思うと
有情非情が一体だからではないのかな。非情のみ
の山川草木になぜ仏性があるのだろう。

考えていますが答えが出ません。
ご解説ご回答をお願いいたします

A 回答 (6件)

草木成仏という思想は、日本ではポピュラーですが、伝統的な仏教思想のうえからは少し逸脱して主観的な感覚にかたむいた部分があります。

そこのあたりに少し落ち着きの悪さというか、論理の飛躍を感じられるのではないか、と思います。

遠回りのようですが、最初に日本での草木成仏の見解を整理しておきます。
まず、親鸞は『唯信鈔文意』のなかで、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」と書いています。仏性が満ちているこの世界では、草木も成仏するはずだ、ということです。

また、空海はわが国で最初に草木成仏説を唱えた人物ですが、『吽字義』のなかで、「草木也成。何況有情」として、はっきりと草木でも成仏する、と名言しました。草木ですら成仏するのだから、心のある生きものが成仏しないわけはない、というわけです。

ほかにも、最澄は「木石仏性」といい、非情にも仏性があることを強調しましたし、道元は草木や瓦礫を含めたこの世界一切をまるごと仏性の表れと表現しています。

ただ、ここで仏教の伝統的な教学を確認しておいたほうがいいのではないか、と思います。というのは、一応正統とみなされる教学では、「仏性があること」と「成仏すること」は峻別して考えられていて、草木成仏は、いわばこのセオリーを無視ないし超越して、仏性をイコール成仏としてみなす見解にたっているからです。

少し説明します。
初めて「仏性」という言葉を使ったのは大乗の涅槃経で、「一切衆生 悉有仏性」という言葉はよく知られています。ここにおいて仏教の歴史上はじめて、すべての衆生には仏性がある、とうたわれたわけです。

しかし、この言葉にも制約があるのです。ひとつは、「衆生」というものの中身が、もっぱら「(心があると当時思われた)動物や昆虫のたぐい」だけであって、植物はもちろん、無機物は想定されていないことです。これは考えてみればあたり前のことで、仏性というもの自体が、人々を仏道修行へと誘引する目的で説かれたのですから、涅槃経では「修行しないと仏性は見えない」だとか、「悟りを求める気持ちがないと仏性が見えない」という立場をとっているのです。当然、仏性は心を持っている動物について限定的に語られることになるわけです。

意外と知られていませんが、涅槃経の終わり近くでは、「一切衆生即仏性」とも説かれます。「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は仏を見る。この仏とは仏性である。なぜなら、仏たちは仏性を本性としているからだ」(獅子吼菩薩品)とあって、仏性とは実は法のことで、法というのはすなわち縁起の理法のことである。とすれば、縁起の表れに他ならない存在である衆生は、実はそのまま仏性なのだ、と論が進められるわけです。

ただ、「衆生がそのまま仏性である」といっても、先に書いたように涅槃経の目的は衆生を仏道にいざなうことですから、その仏性はやはり八正道や六波羅蜜といった行をおこなわないと実感されない、という立場が強調されていました。つまり、仏性はあくまでも修行の結果として確認されることにすぎないし、仏性と成仏もあくまでも切り離して考えられていたわけです。

しかし、観念的な純粋化というのは思考のひとつの常であって、仏性は衆生だけについて説かれるのでなく、やがて、縁起そのものの表れである現象世界の一切が、縁起ゆえに仏性である、と観念されるようになっていきます。草木も山も川も石ころも、すべて仏性であるというわけです。
最澄(草木の仏性は力説したものの、その成仏は語っていない)や道元(世界はそのまま仏性だとしながらも草木の成仏までは書いていない)は、あくまで修行者のひとりとして、このような世界観を表現したと言えるでしょう。

詳説はしませんが、やがてさらに、仏性とは修行や菩提心と関係なしにそのまま成仏である、と無条件に肯定されるようになり、この世界の存在はすべてそのままで円満具足した仏である、世界は本来過不足なく悟りのなかにある、という感覚を生みます。これが草木成仏思想の背景です。

こうやって眺めてみると、草木も成仏するという見解は、突き放して言えば認知上の観念的逸脱である、という言い方もできるかもしれません。「本来さとっている」という思想では、修行の価値を位置づけることがむずかしくなりますから、いきおい抽象的な言説に終始しがちで、そのあたりの主観性がわかりにくさと裏腹になっているのでしょう。
(逆に、現代のわが国で「草木成仏」がそれほど反発をまねかずに一定程度受け入れられるのは、曖昧な言説のままホンワカとした自然観に包まれてしまっているから、なのですが)

ただもちろん、主観的であることは必ずしも否定されるべきことではありません。宗教は結局、個々人がどのように目の前の世界を認識するか、という問題に帰着するのだから、です。

答えになっていませんけれども、涅槃経について書いたように、瑣末に気をとられすぎるとその本意を見失ってしまいがちです。「草木が成仏する(している)」という世界認識が、仏教という大枠のなかでどのようなポジションにあるのか、という点を考慮しながら、それがどのような体験を織り込んで成り立っているものか、自分の体でもって追体験しようとする努力をする、ということが大事なのではないかな、という気がします。涅槃経が修行を重視していることの重要性は、強調してもしすぎることはない、と思うからです。以上、僭越ながら・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

>セオリーを無視ないし超越して、仏性をイコール成仏としてみなす見解にいたっているからです。
可能性を結果とみなしている見解ですね

>仏性とは実は法のことで、
>仏性と成仏もあくまでも切り離して考えられていたわけです。
>現象世界の一切が、縁起ゆえに仏性である、と観念されるようになっていきます。草木も山も川も石ころも、すべて仏性であるというわけです。
なんとなくですが人も石ころも現象との言葉で繋がるかなと思いました

>世界は本来過不足なく悟りのなかにある、という感覚を生みます。これが草木成仏思想の背景です。

>宗教は結局、個々人がどのように目の前の世界を認識するか、という問題に帰着するのだから、です。
わあ凄いとただただ感嘆します。

>瑣末に気をとられすぎるとその本意を見失ってしまいがちです。
はい。わたしが陥ることです。ご指摘のとうりです
仏教という大枠が巨大で底が無いほど深いと思います。
仏教の教えに包まれている小さな自分を感じます。
ありがとうございました

お礼日時:2006/03/28 20:00

 密教の視点で非情成仏を捉えると、弘法大師空海の著『即身成仏義』に


「六大無礙にして常に瑜伽なり」
とあります。六大とは地・水・火・風・空と識、つまり堅固・湿潤・温熱・流動・虚空の宇宙を構成する五つの要素に認識作用が常にヨーガ(瑜伽:瞑想の意)であるとします。そして、有情も非情も共に六大によって構成され、すべてのものに六大が具足されているとします。
 弘法大師の著述には大自然の動きや宇宙の働きすべてを、真理の顕現(大日如来の説法)とする思想が見受けられますが、ここでいう成仏は「凡夫から仏に成る」というよりも「本来は仏である」という真理に目覚めることを意味するように思えます。

 弘法大師の『般若心経秘鍵』に
「医王之目(いおうのめ)には、触途(みちならし)に皆薬(みなくすり)なり。解宝之人は、こう<目編に廣>石(しゃく)を宝と見る。知る与(と)知ら不(ざると)、何誰(たれ)が罪過(ざいか)ぞ」
とあります。
 優れた医者は雑草だと見過ごすものから薬効を見つけ、鉱山技師は価値のない石と思っているものから、宝石を見つけ出す。対象とするもの自体は変化していないのに、それの価値が観る者によって変わることの責任は、いったい誰によるものなのか(自分自身のことではないか)、と述べられています。
 つまり草木成仏も「草木」に象徴される大自然・大宇宙に仏を見出すことができる、自身への修行の喚起でもあり、単なる机上の理論ではないと思われます。これは大師自身が机上の理論で仏教を学ぶことを厳しく批判されていますから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

>「本来は仏である」という真理に目覚めることを
>意味するように思えます。

>自身への修行の喚起でもあり、単なる机上の理論で
>はないと思われます。これは大師自身が机上の理論で
>仏教を学ぶことを厳しく批判されていますから

やはり精進とか努力なくしては難しい事なんですね。
大変勉強になりました。

お礼日時:2006/03/28 19:19

門外漢ですがすみません。



人は髪や爪とつながっているように、山や川や草木にもつながっているのではないでしょうか。

私たちは山川草木なしでは生きていけないのですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます
髪や爪が神経など実際に繋がっていないと
イメージとして難しくなって解りません。
人がいなくなっても山川草木は残ると考えると
間接的に繋がるイメージがわきません。
理解力が貧困なのでイメージ出来ないのでしょうね。

お礼日時:2006/03/28 19:09

この世を仏の世界、法の表れと見るならば、すべてのものは有情非情を問わず仏の世界のうちにある。

すべてが真理を具現しているということになります。
また、仏の慈悲は有情非情を差別しないという言い方もできます。

大乗仏教は私が一人で仏になるんじゃない、仏の慈悲の力をいただいて仏になるのです。仏国土の住民だから成仏するのです。そこが分かれば、おなじ仏国土の住民である山川草木にも仏性があるということがすんなりと理解できると思います。(理解はできても体得はなかなかできませんね、恥ずかしながら…)

僕には、専門的な知識がないので、経典や論書をだして説明はできませんが、そんなところではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました
有情非情を問わず仏の世界のうちにある。すべてが真理を具現している
うぅむ奥が深い。なんとか理解できるように努力します。
大変参考になりました

お礼日時:2006/03/21 13:33

 全てのものは その存在に意味が有り、其れは大いなる意思ダーマの御心の基に作られている。



 即ち山も川も草木もこの世にあるものは全て仏の化身である。故に全ての物を大切にし感謝しそこには仏の御心が込められているんだと意識して人の道を外れては成らない・・・って事じゃないんですか?

 注)ダーマ・・・全宇宙の運営を司る大いなる意思
          
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました
全て仏の化身
深い考察ですね。勉強になりました。

お礼日時:2006/03/21 13:24

全くの門外漢です。


草にも木にも人と同じ命があります。草や木、爪や髪に感情が有る無しを決めるのは人間の自分勝手な思い込みです。
そんなことと関係ある気がするのですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました
人間の自分勝手な思い込み
そうですね、そうかもしれません。

お礼日時:2006/03/21 13:20

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