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1. なぜ 即身成仏(凡夫成仏)ないし即得往生ではないのか? なぜ一気にさとりを得るのでないのか?

2. だって 《一切衆生 悉有仏性》であり 仏性とは 絶対性ではないのか?

3. 相対存在であるわれわれ人間が おのおの絶対性にカカハリを持つのなら 一瞬のうちにでないのがおかしい。

4. 億歩ゆづって 現実におけるみづからの修行も必要だ――つまり 《竪超(じゅちょう)》だ――というのなら その一気の成仏のあとの過程のことではないのか?

5. 有限なる人間の自力による聖道門が 無限なる仏性よりも先に来るというのは おかしい。

質問者からの補足コメント

  • №7-1

    ★ 横超説の根拠はここら辺にあるのだと思いますが、如何でしょう。
    ☆ ゴータマ・ブッダの見解を批判しその権威を剥いだとき生まれたのだと思っています。

    ★ しかし、仏性がある事と成仏していることとの間には、ギャップがあるようにも思います。
    ☆ それは 理論と実践とですね。一般絶対性――梵我一如なる理論――は 一人ひとりの個別絶対性として実践され現実となります。

    ★ bragelloneさんご自身も、ご自分の仏性は認めても、ご自分をブッダであるとは言い切れないでしょう?
    ☆ いえ。次のように つとに問うています。
    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7526932.html?from=m …

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/18 03:55

A 回答 (16件中1~10件)

ふむ。

人々に仏性はあるが、仏(ブッダ)はお釈迦さんも含めて現実にはいない、と言う感じの主張でしょうか。

まぁ、この話はこれくらいにしておきましょうか。
自分の中で、より仏性とその発露についてなど、認識の深まる機会でもありました。ありがとうございます。
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この回答へのお礼

★ ふむ。人々に仏性はあるが、仏(ブッダ)はお釈迦さんも含めて現実にはいない、と言う感じの主張でしょうか。
☆ ゴータマ氏を初めとして《ブッダ》とよばれた人間がいます。

それと同じように 《ブッダターをその身と心にやどすふつうの生身の人間》として その誰一人の例外もなくみな一人ひとりが 《ブッダ》です。



★ まぁ、この話はこれくらいにしておきましょうか。
☆ いいですよ。


★ 自分の中で、より仏性とその発露についてなど、認識の深まる機会でもありました。ありがとうございます。
☆ いいえ。到りませんで。お粗末でした。

というより 神論と経験科学(その意味での哲学)の関係具合いについてよくおしえてくださいました。ありがとうございます。

お礼日時:2023/04/18 15:59

覚りの一般化が不可能な理由があります。


それは、覚りが因縁に基づくものであると言う理由です。

端的に、人生が人それぞれであると言う事が、覚りの根拠であると同時に、唯一無二のユニークさを人に与え、しかも共有するのを不可能にしているのです。

このことについては、bragelloneさんも気がついていると思いますが、それで、特殊絶対という言葉を編み出し仏教解釈に援用されたのではないのですか?


引用:☆ ブッダであることから出発する

それはもう、既にブッダです。自称するつもりがあるならそうすればいいし、

引用:☆ 仏性のブの字も出さずに 《仏性をやどす存在の実存を生きる》ことを目指すべきだと思っています。

ならばそうすれば良いと思います。

何も問題は無いです。
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この回答へのお礼

★ 覚りの一般化が不可能な理由があります。
それは、覚りが因縁に基づくものであると言う理由です。
☆ 《因縁》をきっかけにして成就した結果の状態は どういうことか? です。

たとえば 《経験事象としての因果関係(世の中のシガラミを想え)から――完全にではないが――自由になっていること》 これが ブッダなる境地です。

★ 端的に、人生が人それぞれであると言う事が、覚りの根拠であると同時に、唯一無二のユニークさを人に与え、しかも共有するのを不可能にしているのです。
☆ そういう観点からでしたら ブッダ状態とは こうでしょう。:
《あのときあの人は これこれこう言った。それに対して わたしはこう言った。だが 互いになお心の奥の心を捉えていなかった。――そのことが いま分かる。・・・》といった事態が おのが歴史の全部にわたって 次々と得られて来る。これです。


★ このことについては、bragelloneさんも気がついていると思いますが、それで、特殊絶対という言葉を編み出し仏教解釈に援用されたのではないのですか?
☆ たぶん そうだと思います。ただ単なる個別性というだけでなく 個別に特殊な事情や事態が 人間には生じている・・・と。


☆ 引用:☆ ブッダであることから出発する
★ それはもう、既にブッダです。自称するつもりがあるならそうすればいいし、
☆ いえいえ。煩悩をも同時にかかえているのです。人一倍。だから ブッダという実存をなお生きてゆくことができる。


☆ 引用:☆ 仏性のブの字も出さずに 《仏性をやどす存在の実存を生きる》ことを目指すべきだと思っています。

★ ならばそうすれば良いと思います。

何も問題は無いです。

☆ ありがとうございます。

お礼日時:2023/04/19 00:02

引用:問題は 天上天下唯我独尊とみづから宣言した人がいたという事件にどう対処するか だと思います。



生まれた直後に七歩歩いて??そんな後世の創作を真に受ける方がアホというものです。放っておけばいい。人生は短いのです。

引用:《さとり》とは何か? ――答えが ないのです。

結局は、内なる仏性に自らを投じて開花するしかないのでは?


引用:trigger_note さんなる知性すら 人びとに ゴータマ・ブッダをめぐっては 《まづ一等先に》忖度してみなさい・・・と語っています。

そうかなぁ。。。忖度と言うか、好きな映画監督を他人に勧めるくらいの温度感ですけどね。ただ違うのは、自分でも映画が撮りたい(覚りたい)と思っていると言う点で、熱は高いと思います。その意味では、御釈迦さんは名監督だと思いますし、なんならファンです。そしてbragelloneさんは、彼の作品を駄作だと言います。その意見を私は否定しませんし、むしろ尊重します。

因みに、bragelloneさんのような人を大乗では逆縁の人と言います。仏や経典を誹謗することで、かえって仏道に入る人の事です。このタイプの人たちは、自らの内に真なる仏を認めそれを求めているゆえに、外なる仏を排する性質があるのでしょう。立派なことです。bragelloneさんが自分や人々の仏性を主張するのも、まさに自らの内にある仏を信じている証拠だと思います。
慧能も次のようなことを言っています。外に仏を求めても、何万年あっても見つからない。内なる仏を求めろと。
これは、貴方が本気であると言う事を示唆しています。
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この回答へのお礼

☆☆ 引用:問題は 天上天下唯我独尊とみづから宣言した人がいたという事件にどう対処するか だと思います。

★ 生まれた直後に七歩歩いて??そんな後世の創作を真に受ける方がアホというものです。放っておけばいい。人生は短いのです。
☆ 幼児の問題を取り除いて その宣言内容をどう処理するかでしょう。

無意味だということであれば いいのですが。

☆☆ 引用:《さとり》とは何か? ――答えが ないのです。

★ 結局は、内なる仏性に自らを投じて開花するしかないのでは?
☆ この表現では 修辞学の問題におさまります。文学ないし虚構作品でしょう。


☆☆ 引用:trigger_note さんなる知性すら 人びとに ゴータマ・ブッダをめぐっては 《まづ一等先に》忖度してみなさい・・・と語っています。

★ そうかなぁ。。。忖度と言うか、好きな映画監督を他人に勧めるくらいの温度感ですけどね。ただ違うのは、自分でも映画が撮りたい(覚りたい)と思っていると言う点で、熱は高いと思います。
☆ それでは 《さとりとは何か》は分からないということですよね。


★ その意味では、御釈迦さんは名監督だと思いますし、なんならファンです。そしてbragelloneさんは、彼の作品を駄作だと言います。その意見を私は否定しませんし、むしろ尊重します。
☆ ん? えっ? ええっ? えええっ?

★ 因みに、bragelloneさんのような人を大乗では逆縁の人と言います。
☆ 逆縁ですか。

★ 仏や経典を誹謗することで、かえって仏道に入る人の事です。
☆ いや すでにブッダであるとは言っています。

★ このタイプの人たちは、自らの内に真なる仏を認めそれを求めているゆえに、外なる仏を排する性質があるのでしょう。
☆ あたっていると思います。

★ 立派なことです。
☆ 光栄です。

★ bragelloneさんが自分や人々の仏性を主張するのも、まさに自らの内にある仏を信じている証拠だと思います。
☆ 仏性のブの字も出さずに 《仏性をやどす存在の実存を生きる》ことを目指すべきだと思っています。


★ 慧能も次のようなことを言っています。外に仏を求めても、何万年あっても見つからない。内なる仏を求めろと。
これは、貴方が本気であると言う事を示唆しています。
☆ ブッダであることから出発する では?

お礼日時:2023/04/18 23:32

引用:もし ブッダだとよばれる人間が 人類史上ひとりでも出現したというのなら――つまり ここでも《呼び方》の問題であるという一面が 大きくかかわっていると思いますが―― ほかの人間は いつブッダに成って いつそう呼ばれるのでしょう?



他の人にどう呼ばれるかは関係なくて、自分で、「ブッダとして生きる覚悟」を持てた時にブッダになるのだと思います。

勿論、御釈迦さん以外にも舎利弗や、とある壺職人がブッダであるとして古い経典に描かれていますので、御釈迦さんだけが唯一のブッダと認められていた言うことは当時からも無いでしょう。それに、御釈迦さんをブッダと認めない人も当時から大勢いたと思います。

後世になって、御釈迦さんを唯一のブッダだとする宗派も生まれましたが、それは御釈迦さんの責任ではないでしょう。
多神教の内の一柱が人々によって押し上げられて、唯一神になってしまったようなものでしょう。それも神の責任ではなく、人々の責任だと思います。
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この回答へのお礼

☆☆ 引用:もし ブッダだとよばれる人間が 人類史上ひとりでも出現したというのなら――つまり ここでも《呼び方》の問題であるという一面が 大きくかかわっていると思いますが―― ほかの人間は いつブッダに成って いつそう呼ばれるのでしょう?

★ 他の人にどう呼ばれるかは関係なくて、自分で、「ブッダとして生きる覚悟」を持てた時にブッダになるのだと思います。
☆ そういった対処法は 人それぞれにあると思います。

問題は 天上天下唯我独尊とみづから宣言した人がいたという事件にどう対処するか だと思います。

極端な言い方をすれば そんなものは《言い方・呼び方》の問題だ だからその思想・哲学にしぼって互いに自由に対話・批判すればよいとなります。

呼び方も 哲学の内容にかかわっているのなら そういう問題としてあつかうでしょう。


★ 勿論、・・・御釈迦さんだけが唯一のブッダと認められていた言うことは当時からも無いでしょう。それに、御釈迦さんをブッダと認めない人も当時から大勢いたと思います。
☆ いや びみょうですね。《認める》かどうかは 思想内容の問題です。

《ブッダ》とは・《さとり》とはの答えを聞いてからの問題です。

答えがないのですから ただ単なる呼び方だけの問題になります。



★ 後世になって、御釈迦さんを唯一のブッダだとする宗派も生まれましたが、それは御釈迦さんの責任ではないでしょう。
☆ 放っておきます。

★ 多神教の内の一柱が人々によって押し上げられて、唯一神になってしまったようなものでしょう。それも神の責任ではなく、人々の責任だと思います。
☆ 自称なになにという場合は――ということは じつは ゴータマ氏の場合も入るのです!―― その呼称の方面は 放っておけばよいでしょう。

中身を・その哲学内容を みんなで考え合っていけばよいのだと思います。

《さとり》とは何か? ――答えが ないのです。


《問題》であるその問題に 魔法がかけられているのです。

あとは 人びとは ゴータマ・ブッダをめぐって 忖度しつづけるだけになっています。


trigger_note さんなる知性すら 人びとに ゴータマ・ブッダをめぐっては 《まづ一等先に》忖度してみなさい・・・と語っています。

お礼日時:2023/04/18 22:32

仏性を宿す人々は皆、菩薩であると言うのなら論理としても理解できます。

仏性を宿していたら皆仏だと言うと、なにか?が生じます。人間=仏 の式が想像されるからでしょうか。

引用:あるいは 《かろんぜずだが ひょっとしたら(おそらく)自分が軽んじられているのではないか》といったツッコミの入ることが消え去らない。

それは大事な感覚だと思います。これについては、また別の命題で互いお話しできる機会があるかも知れません。
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この回答へのお礼

★ 仏性を宿す人々は皆、菩薩であると言うのなら論理としても理解できます。・・・人間=仏 の式が想像される
☆ 梵我一如の定式によれば 霊我をやどす霊性の存在です。宇宙の主宰神ブラフマンなる神の子です。

呼び方であるという側面もありますね。

ブッダター(仏性)をやどす存在は ブッダでしょう。


問題は 仏性をやどす仏として その実存を出発させるということだと思います。

ブッダであるとすでによぶ人間として出発するということ。

もしそうでなければ いつ ブッダとよぶのでしょう? 



もし ブッダだとよばれる人間が 人類史上ひとりでも出現したというのなら――つまり ここでも《呼び方》の問題であるという一面が 大きくかかわっていると思いますが―― ほかの人間は いつブッダに成って いつそう呼ばれるのでしょう?

その問題について あらかじめ決まった方程式を明らかにしておかないなら 初めの人間のブッダ自称は 勝手すぎ独り善がりに過ぎます。


要するに ここでも ゴータマ・マジックがはたらいているのですよ。

早い話が 数人の仲間たちと修行を敢行していたとき 若きゴータマ氏は たしかにさとったのです。ひらめいたのです。おれは ブッダ(目覚めた)そのブッダであると先に言ったもん勝ちであると。


これが こわいほどうまく行ったのです。

ブッダとは 何を言うのか? と問われたら そのほんとうの答えは――実際には ないのですから―― 永遠に引き延ばす。その或る程度倫理的なまた心理学的な能書きをしめし あとは 永遠に先延ばしにする。

二千年もあとになれば このオシへは廃れる。末法に入る。・・・とでも言っておけば やましくはないんぢゃわいと。

大化城として《楽なるしあわせ》の状態をみんなに描き示し得たなら それで《ことばによるひとびとの救済》は 完結するはずだ!!!

そうでないと 身分制への戦争は終わらない!


ですから ゴータマ・マジックにイカレテしまわないためには 人間はみなブッダであると宣言することが一番なんです。


☆☆ 引用:《かろんぜずだが ひょっとしたら(おそらく)自分が軽んじられているのではないか》といったツッコミ
★ それは大事な感覚だと思います。これについては、また別の命題で互いお話しできる機会があるかも知れません。
☆ 了解です。

お礼日時:2023/04/18 21:04

引用:それと同じように 《ブッダターをその身と心にやどすふつうの生身の人間》として その誰一人の例外もなくみな一人ひとりが 《ブッダ》です。



なるほど、文章の論理は?ですが、意図するところは汲めます。常不軽菩薩縁起に似ています。これはこれで良いものかもしれない。考えておきます。この考えは、互いの尊重に通じるものがあると思いました。
ありがとうございます。
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この回答へのお礼

★ なるほど、文章の論理は?ですが、意図するところは汲めます。
☆ 《ブッダターをやどす人間》を 《ブッダ》とよぶ。――こういう命題です。

ブッダターが――アートマンと同じく――神性であり絶対性ですので むしろ論理的に この命題にみちびかれるのだと思いますが。


★ 常不軽菩薩縁起に似ています。これはこれで良いものかもしれない。考えておきます。この考えは、互いの尊重に通じるものがあると思いました。
ありがとうございます。
☆ あぁ。えぇ。常不軽菩薩は わたしもすでに引き合いに出していますが なかなか触れづらい。あつかいにくいです。


★ 互いの尊重
☆ なのですが なお びみょうな但し書きというのか 煮え切りません。

あるいは 《かろんぜずだが ひょっとしたら(おそらく)自分が軽んじられているのではないか》といったツッコミの入ることが消え去らない。


《アース役》論としてもかかわってくるのですが その場合にも びみょうな後ずさりを わが心がしてしまいます。

・・・

お礼日時:2023/04/18 16:43

そうでしょうか。


我欲を離れたやさしさや思いやり、慈しみなどは現実に人間に存在します。それを仏性と言うのでしょう?
龍樹の論理だと、仏性なるものは無いと言うことになる。
その点について、龍樹はどう考えているのでしょう?
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この回答へのお礼

★ そうでしょうか。
☆ はい そうです。わたしは ナーガㇽジュナを支持しています。

★ 我欲を離れたやさしさや思いやり、慈しみなどは現実に人間に存在します。それを仏性と言うのでしょう?
☆ 《仏性》だけを取り上げ取り出すなら そうです。

けれども わたしたちは おのおのその身と心に仏性を宿す・・・わけです。

それこそ 根本的な生存欲が旺盛であり我執も盛んです。

それら全体がわたしなる存在です。

言ってみれば ふつうに実存志向なのだと思います 庶民のブディズムは。


★ 龍樹の論理だと、仏性なるものは無いと言うことになる。
その点について、龍樹はどう考えているのでしょう?
☆ ええっと 出したことがあるでしょうか。ヘーゲルです。

▲ (ヘーゲル:無限と有限) ~~~
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 

この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。

(『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~

☆ これで お答えできたと思うのですが。

お礼日時:2023/04/18 15:31

私がブッダだとしても、日常、さまざまに悩んだりするのは何故でしょう?ブッダなのに悩みがあるのはおかしくないですか?

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この回答へのお礼

trigger_note さんには 次の議論だけで答えは済むでしょう。

▲ (中村元:龍樹)~~~~~~~~

  《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたもの
  なるものは 存在しない。
  《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたもの
  なるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
    (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。

われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
  (中村元『龍樹』2002 pp.225-226 )
~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2023/04/18 14:15

この部分ですね。

方便品第二の中の記述です。
http://srkw-buddha.main.jp/houbennponn.htm

舎利弗よ、正に知れ。私は昔、誓願を立て、一切の生ける者達を、私と等 しく、異なるところがない様にしようとした。 私の昔の願いは、今既に満足し、一切の生ける者達を教化して、皆、仏の道に入らしめた。 もし私が生ける者 達に遇えば、悉く教えるのに仏道をもってする。無智な者は錯乱し、迷い惑うて教えを受けない。 私はこれらの生ける者達が、未だかつて善の本を修めた事が ないのを知っている。堅く五欲に執着して、無智と生存意欲の故に悩みを生じ、諸々の欲の因縁によって三種の悪しき世界に堕ち六種の世界を輪廻して、つぶさ に諸々の苦の毒を受け、受胎する微小な形は、世を重ねる毎に増長し、徳うすく福少ない人間として多くの苦しみに迫られ、邪見の深い林に入り、あるとか、な いとか言いあらそい、この諸々の見解に頼って六十二種も備えている。 深く虚妄の教えに執着して、堅く受持して捨てず、我執がふかく、自ら誇り、偽善であ り、心は不実である。千万億劫においても仏の名を聞こうとしない。また正しい教えを聞かず、この様な人は救いようがない。 この故に、舎利弗よ、私は方便 を設けて、諸々の苦しみをなくす道を説き、永遠の平安を示す。 私は永遠の平安を説くが、これは真の悟りではない。存在するものは、本来、常に自ら寂滅す る性質のものだからである。仏の子は道を修行し終れば、来世に仏となるであろう。 私には方便力があって、三つの立場の教えを教え示した。しかし一切の諸 々の世尊は皆、一なる立場の道を説かれる。 今、この諸々の大衆は皆、正に疑惑を除け。諸仏の言葉は異なるところがなく、ただ一つであって第二の立場はな い。


引用☆ プーチンもシーチンピンもキムジョンウンも それぞれ《ただしい》ことをやっている。定義も議論・対話も必要だと思います。

その議論や対話は利害関係の調節であって、正義の話にはならないと思います。なぜなら、アメリカも日本もイスラム諸国も、あらゆる国や集団を含め、戦争には初めから正義など無いからです。彼らはそれぞれの立場においてさえ、正しいことをやっていません。彼らの言う正義はプロパガンダに過ぎないのでは?

引用:☆ それは 理論と実践とですね。一般絶対性――梵我一如なる理論――は 一人ひとりの個別絶対性として実践され現実となります。

その実践とは如何なるものですか?

引用:☆ いえ。次のように つとに問うています。

つまり、貴方(bragelloneさん)はブッダなのですか?
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この回答へのお礼

★ この部分ですね。方便品第二の中の記述です。
☆ けっきょく 予告編があるだけです。

効能書きが延々とつづくだけです。

心的現象をめぐって外形的な分析をなし そのすぐれた状態を規定し その枠組みが さとりの中身であると言うのみでしょう。

四諦八正道が おそらく基本的な答えなのでしょう。しかもそれは 前書きです。

四諦とは 苦諦・集諦・滅諦・道諦であり やはり苦が問題であり しかも《生》の苦なんです。

生苦からの解脱が さとりなんです。そういった分析の枠組みが説かれて さとりの外形的な(枠組みにもとづいた)説明もなされるが ついぞそのじっさいの中身は 明かされない。


☆ 引用☆ プーチンもシーチンピンもキムジョンウンも それぞれ《ただしい》ことをやっている。定義も議論・対話も必要だと思います。

★ その議論や対話は利害関係の調節であって、正義の話にはならないと思います。なぜなら、アメリカも日本もイスラム諸国も、あらゆる国や集団を含め、戦争には初めから正義など無いからです。
☆ いえ。そもそも《正義》という言葉が 死語だと言いたかったのです。


★ 彼らはそれぞれの立場においてさえ、正しいことをやっていません。彼らの言う正義はプロパガンダに過ぎないのでは?
☆ むろん そうです。それぞれの考える正義です。しかもそれらを われわれは批判し切れないです。対話で結着をつけきれない。


☆ 引用:☆ それは 理論と実践とですね。一般絶対性――梵我一如なる理論――は 一人ひとりの個別絶対性として実践され現実となります。
★ その実践とは如何なるものですか? 
☆ 信仰のことです。

その神論を 質問として挙げます。

☆ 引用:☆ いえ。次のように つとに問うています。
★ つまり、貴方(bragelloneさん)はブッダなのですか?
☆ あなたもです。

お礼日時:2023/04/18 13:36

引用:過去七仏について



わたしも過去七仏には興味がありますが、あまりまだ調べていません。
 
引用:どの道徳どの倫理でも 似たり寄ったりではないですか?

実際に比較をすると、似ているところと異なるところ、補完し合うところなどがあるのだと思います。ギリシャで言われてた徳分と、中国で言われているものと、イスラムとかキリスト教で言われているものと、仏教で言われているもの、日本で言われているもの、比較すると色々発見があると思います。

何が正しいかと言うのは、人間的に正しいと言う事くらいしか私には表現できないですが、正しいと言う事は定まっていることだと思います。例えば、力で圧倒して殺してはならない、と言うのは正しいと思います。挙げれば幾らでもあるでしょう。定義する必要は無いと思います。人であれば分かることと言うのが前提なのではないでしょうか。それが分からない人のための仏教という言い方も出来るでしょう。

引用:☆ それでは ほかのオシへをしりぞけて《ブッダ》を推し出す理由や必要はないと思いますよ。

実際、御釈迦さん自身は布教には消極的で、むしろ教えさえ説かないつもりでいたが、梵天という者が懇願して、説くことになったと聞きます。ブッダを推し出したのは、没後の人々であるでしょう。
宗教が、他の教えを退けて自分達こそ正しいのだと主張するのはよくある事です。一方で、互いに融和的である宗教人も存在します。なので、推し出されるかどうかは場合によるとしか言えません。為政者の都合に使われる場合もあります。その時に、教えが歪むこともあるでしょう。逆に、善政の元で正されることもあります。

引用:ブッダだけではなく ブッダターを言うのならその限りで そのさとりとは 横超説よりほかにない。こういう仮説について問うています。

昔、仏は誓願を立てて、人々が皆私と異なるところが無いようにしようとした。そしてそれは成就した。と、法華経にはありますが、これは、人々皆に仏性を備えさせた、という意味ではないかと思います。

横超説の根拠はここら辺にあるのだと思いますが、如何でしょう。

しかし、仏性がある事と成仏していることとの間には、ギャップがあるようにも思います。

bragelloneさんご自身も、ご自分の仏性は認めても、ご自分をブッダであるとは言い切れないでしょう?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ わたしも過去七仏には興味がありますが、あまりまだ調べていません。
☆ はい。
 
☆☆ 引用:どの道徳どの倫理でも 似たり寄ったりではないですか?
★ 実際に比較をすると、似ているところと異なるところ、補完し合うところなどがあるのだと思います。
☆ はい。

★ ギリシャで言われてた徳分と、中国で言われているものと、・・・比較すると色々発見があると思います。
☆ ころすなかれと不殺生戒。

盗むなかれと不偸盗戒。ただし 古代スパルタでは 上手に盗めという道徳律。

★ 何が正しいか
☆ 相手の意志また心を踏みにじらないこと。意志の主体である人という存在をないがしろにしないこと(ころすなかれ)。――これが 《ただしい》倫理規範だとわたしは思っていますが 必ずしもしっかりとは決まっていません。

★ 定義する必要は無いと思います。人であれば分かることと言うのが前提なのではないでしょうか。
☆ プーチンもシーチンピンもキムジョンウンも それぞれ《ただしい》ことをやっている。定義も議論・対話も必要だと思います。

★ それが分からない人のための仏教という言い方も出来るでしょう。
☆ むつかしいと思います。

☆ 引用:☆ それでは ほかのオシへをしりぞけて《ブッダ》を推し出す理由や必要はないと思いますよ。

★ 実際、御釈迦さん自身は布教には消極的で
☆ いえいえ。初転法輪のあとは 死ぬまで宣教――必要な托鉢とともに――しまくりました。


☆☆ 引用:ブッダだけではなく ブッダターを言うのならその限りで そのさとりとは 横超説よりほかにない。こういう仮説について問うています。

★ 昔、仏は誓願を立てて、人々が皆私と異なるところが無いようにしようとした。そしてそれは成就した。と、法華経にはありますが、これは、人々皆に仏性を備えさせた、という意味ではないかと思います。
☆ あっ。すみません。知らないのですが どこにありますか? 悉有仏性なる説は 庶民らの生きる息吹きから生まれたとすら思っていました。

つづく

お礼日時:2023/04/18 03:52

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