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自分で幸せだと思えたなら間違いなく幸せですよね?
なのに何故、人は幸せを比較して確認しがちなのですか?
愚かであると同時に可能性もあるように思えて憎めません。
そして私がどうかと言うと、人との比較は兎も角
本当に自分の満足を信用していいかと疑います。
決断と若さが反比例しているようにも思えます。
…意見をいただければと思います。

A 回答 (28件中11~20件)

おっと…


事情を知らずに書き込んでしまったために言い回しが適していない…。

ってか、聞いた限りでは――私の方が若造だったみたい。
また、少しまってください。
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この回答へのお礼

あなたのお話しに今、満足してるし、次がもっと楽しみです。
「変化」とはそういう意味です。
コマのように回っていることで立っている過程の状態、生き物の本質とも言える状態を「幸せ」と考えてみました。
だからこそ愛する人の死は不幸となるのでは。
共有・共感は喜びの中でも大きいものではないでしょうか。
例えば私は宗教に対して肯定できません。
理由は神様が変化を目の前で見せてくれないからです。
「今」が何故大切で必死になるか、「生きているから」、そしてそれを「喜べる」なら「幸せ」、何故喜べるか、「生きる意味があるから」それは「つながり」があるから、と思いました。
飛躍てんこもりですが。

お礼日時:2006/04/08 03:51

お待たせしました。




>幸せの定義は「変化」で、幸せの感情は「生きていることを喜んでいる状態」ではと考えて質問しました。
>幸せに「満足」は必ずしも必要ないのではとも感じます。

幸せの定義は「変化」で、幸せの感情は「生きていることを喜んでいる状態」ではと考えるに至った過程を聞かせていただければ、すこしは早い話になりそうで嬉しくはありますが…取り敢えず――。
                  

 私の考え方はとしては、全ての現象は関係性の中に存在している
のであって実体はない。すべては繋がっており、現実として分割できない。
そうなると、大小はありますが、何らかの影響が相互に必ず起こります。
ということは、「生きていることを喜んでいる」状態となっている人も
また、主客合一した【幸せ】とは限りませんが、何かを発している事に
なります。そこで入力だけじゃなくて、出力も含んで考えると――


(1)シアワセ━(゜∀゜)━ !!!!!っと感じている人が全体のシステムの中で
  受動的であらざるを得ない、またはあった場合、自己満足は発生しないです。

 Ex:小さな子供
   年齢関係ないけれども、言うなれば幸も不幸も未経験、またはサンプルが
   少ないため、物事の質の程度をしらない。
   自身の関係性における立場の未自覚:自我未発達。
   
   

(2)シアワセ━(゜∀゜)━ !!!!!っと感じている人が全体のシステムに対して
 能動的であった場合、自己満足が発生します。
 なぜなら内なる必然から自発的に行為するための能力・権利・責任
 覚悟などが問題となるため、自らを自律的に統御しなければならない
 からです。自らを律すると言うことは基準を作らねばなりません。
 その基準に沿って照合する事で確認・処理する事になります。
 それは客観的評価が可能か否か、利己的か否かに関係なく、自分自身に
 または自分の行為が自己実現や自己保存のための条件に合っている事に
 自ら満足することです。
 ちなみに、客観的評価をするまでもない自己妥協や他人の意見を無視した独りよがりは
 自己実現や自己保存による新たな価値創造性を(拡散し、変化を奪って)文化構築に人を
 関われなくする。


 自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動し、現象の外面に表れたふるまいには付いて来ざるを得ないって感じ。私にとって、平穏や平安のさらに上の平和(修復と最適化)を 目指すには自発性ありきなので、自己満足をつけました。


 何だか、これ系の研究は現象学が担っていたと思うんだけれどもなぁ…。
理論に穴があるかもしれませんし語彙に不足がありますが、そこは知識と知恵が足りないところ。
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この回答へのお礼

どちらかと言うと私はアウトプットを重要視します。
クラインの壷…でしたか?
あれを連想させますね。
袋の中身が重要・問題・面白いんです。
同じ人間同士だからこそ、袋についてあーだこーだ言い合えます。
出入力についてあーだこーだは、結果論的になりがちですよね。
たぶん私は人間の能力にもっと期待していて、そして欲深いんだと思います。
長くなるので18に理由を書きます。

お礼日時:2006/04/08 03:26

>幸せに「満足」は必ずしも必要ないのではとも感じます。



少し?待ってください。
自分の感覚が伝えられる様な文章を
作成中ですので…。
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この回答へのお礼

私こそ時間を下さい。
実はこんな質問をしたのも母が子宮ガンと分かり、自分は結婚を控え、その他色々ある中で混乱した状態なのです。
「喜び」は必須の要素であっても、「満足」は必須ではないのでは、と思えたのでお聞きしたかったんです。

お礼日時:2006/04/06 12:14

『反動形成』は幼年期によくあるんだよ。


好きな子に逆に意地悪したり………

君の場合もそれによく似ている。
そう、『マリッジブルー』だ。
結婚目前、幸せの絶頂期………
ふと、不安になる。
この幸せを本当に信じていいのかと………
似たような心理に『マタニティーブルー』があるね。
愛する待ち望んだ子どもが正に生まれるのに不安感に囚われる………

それらの心理と似ている。
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この回答へのお礼

男は結論を出そうとする。
女は結論を知っている。
そう思わないかい?
実際的なロマンティストって、いるじゃない?
あなたは現実的なロマンティストのように感じるよ。
あなたは率直だから、いい友達。
ただね、今回の質問はマジなの。
ありきたりのなぐさめは、ちょっと辛いんだな。
それと普遍的な部分での愛・幸福の定義をそれなりに真面目に探ってるの。
ごめん、でもありがとね。

お礼日時:2006/04/06 12:25

う~ん、、



それは、心理学の専門用語で言う『反動形成』かもな………、、

A君が大好きなのに、いつも意地悪しちゃったりってヤツ!

好きなんだけど嫌いっ!

幸せなんだけど、これ本当っ!?って自虐的に考えたり………

そんな事は誰にでもある事だと思うよ!(^^)
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この回答へのお礼

解んない。
大好きでだから凄い好き、好きだから「好き」ってスキがあれば言ってるもん。
幸せ過ぎて本当?はまさにそんな感じ。
好きな人に出会える事実が凄い不思議。

お礼日時:2006/04/04 02:35

うん、まあ何事もない平穏な毎日に無上の幸せを感じたりもするもんね。



そして、これが本当のものかと自身で疑うのは若さからかも知れない。
もっと可能性があるんじゃないか?、もっと高い次元があるんじゃないか?と………
これは比較伝々と言うより、若さならではの好奇心や向上心の表れではないだろうか………、、
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この回答へのお礼

ごめん、逆もありうるよね!
年を追うごとに人間関係が複雑になるから、むしろ悩むかも。
ただ私は経験的に、納得(あきらめに近いもの)すると死に易いと感じてしまったの。
私はだから、幸せを求めることに無意味さを感じてしまう。
だけど幸せになろうとすることは、大切な人達の幸せに繋がると信じてる。
いずれにせよ自分が納得出来なければいけないのだけど。
だからこそ自分の判断を常に疑ってしまい、人を傷付けてしまうこともある。
今は目先の結果に確かなものは出せないけど、いずれ100倍返しとかだせたらいいなと思って。
またよかったら回答をちょうだいね?

お礼日時:2006/04/04 00:55

#7です。


ご返事ありがとうございます。

『>絶対自我が遠いことを知っていることが「幸せ」という感情を持たせるのかもしれません。』
とのことですが、それは絶対的な自我という概念を認めていることであり、にも拘わらずなぜ、
『>そして絶対的な自己の価値を追うことが「幸せ」という感情を消すような気がします。』
ということになるのか私には良くわかりません。

ただ、あえて理解しようとすれば、
『絶対的な自己の価値を【性急に】追うことが「幸せ」という感情を消すような気がします。』
というような解釈になります。
これは、自己の目標に向けて貪欲であるということですし、その為に他者としても同様の目標に向けて歩んでいるものだという至極当然のことを忘れさせる危険性があるからに他なりません。
ですから、namazu_kunさんのおっしゃるところの「変化」は、私にとっては「目標に向かう過程自体」とでもいったような意味として解釈されます。
【絶対的自我の確立】を目指すという姿勢は、本質を見失わないようにするためのものです。
別に「強い自分」である必要はありません。
安易な相対的価値観に流れないこと、です。
絶対的自我を放棄して感じる幸せの微笑みは、どこか不確かで心もとないものにならざるを得ないように思われます。
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この回答へのお礼

自分の価値・評価ばかりを気にすると、あるいは自分の価値を自身の判断でなく追うと、幸せという感情を消す…という意味で書きました。
hakobuluさんの解釈通りです。
幸せになろうとし続けることは、家族など大切な人達に対する愛のひとつだと信じています。
丁寧な回答を二度もいただき、どうもありがとうございます。
またひとつ幸せになりました。

お礼日時:2006/04/03 20:55

幸せ・不幸せを知らないうちは幸せではないでしょうか。

完全に無知であることも一種の幸せになるかと。
知ることで不幸せから這いずり上がろうともがき、幸せと言う幻想を追いかけ続ける・・・こんなことを書くと幸せは無いようですね。
自分で幸せと思ったのを疑うと幸せは遠のきそうです。
幸せの比較には、意味はありませんが優越感や劣等感を抱きたいからですね。向上心を持つのは結構ですが。
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この回答へのお礼

私は不幸せを知らないことは、不幸せだと思います。
幸せを同じ状態で維持しようとすることも、場合によっては不幸せかもしれません。
…などと感じました。
もっとよく考えていきたいと思います。
ご意見をいただき、とても幸せです。

お礼日時:2006/04/03 18:09

「幸せ」に定義ってないのかも知れません。



とても便利な洗濯機もテレビも冷蔵庫も昔は無かった。でもみんな幸せに暮らしていた。今の時代はそんなのあって当たり前。あるからって特に幸福なんて感じない。
それに似ていますよね。
大金持ちと結婚して最初は幸せだった。でも慣れちゃうとそれが当たり前。そこに幸福感は無い。

要するに「幸福感」と言うのは自分の置かれた事象における他との「差異」の変化による刺激から生じる感覚なのかも知れません。だから「比較」によるものなのか………

風呂上がりの一杯の缶ビールやコーヒータイムやちょっとしたスィーツに無上の幸せを感じたり………
これも自身の状況的差異の変化によるものかも知れないですね。息抜きというか………

「日常」と「非日常」の境目。
いわゆる「晴れ」と「け」ですかね………

難しい………、、
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この回答へのお礼

幸せの定義を「変化」では?と考えて質問してみたの。
ゆえに常に動くものだから比較・確認するのでは…と。
でもまだまだ浅いよう。
いっぱい人がいて、一人の中にもいろんな幸せがあったりするのに、普遍的なところを見出したいと思ってるの。
結論が欲しいと言うより探し続けたい。
こんな私は幸せって感じるよ。

お礼日時:2006/04/03 17:59

とても簡単なことです。

それは自分の生き方に自信がないから他人と比較するのです。まず自分の生き方に自信を持つことです。また幸福という言葉も非常に生もので、随時揺れ動いております。幸福に浸っているとその幸福がマンネリ化して自身で判断がつかなくなります。そのためにも言葉、行動に自信をもつのです。
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この回答へのお礼

自信があれば必ず幸せを自覚できるのでしょうか。
自信があるからこそ比較する場合もあるのではとも思いました。
分からないので、もっとよく考えてみたいと思います。
貴重なきっかけをいただき、とても幸せです。

お礼日時:2006/04/03 17:45

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