街中で見かけて「グッときた人」の思い出

ほんとにこのOkwebってヤツには、はまってしまいますねー。私はフツーのサラリーマン
なんですからね。寝不足で倒れたら責任とってくださいよー。(は冗談)
つわもの(マスター)たちの百花繚乱状態に大興奮です。
さて、質問です。
私は、ある父と母の子供3人兄弟の長男として昭和○○年に生まれましたが、二人の弟は
同じ父と母から生まれているのに、私とは別人です。
私の原始細胞である精子と卵子が受精したとき、別の精子が卵子に飛び込んでいたら、私は
この世に生まれてこれたのでしょうか?生まれたこれなかったのでしょうか?
真理が知りたいですが、それは無理でしょうから、「ん!そうにちがいない!」と、うならせる
ような回答を聞かせてください。

A 回答 (14件中11~14件)

私は下のみなさんとはちょっと違った視点から考えてみました。

生物学のコーナーでありながら、あえて哲学的に…

mori0309さんが自分を「自分」と考えている根拠はそもそも何でしょうか。
物の見方、考え方?知識?経験?
それとも遺伝子?身体的な特徴?

いくつか挙げたうち、前者はどちらかというと後天性の強いもの、後者は先天性の強いものですが、いずれにしても「絶対」というものはないですよね?
(まぁ遺伝子は一般的には絶対ですが、遺伝子治療とかもありますよね。)
そうすると、そもそもmori0309さんが「自分」だと思っている存在自体が不確かなものになりませんか?
つまり、そもそも同じ遺伝子だったとしても、完全に今の「自分」と同じかどうか、あるいは未来の自分は今の自分からみた価値観で本当に同じ「自分」と言えるのかどうか?

そう考えてみると、自分が「自分」と思っているなかにも、潜在的に複数の「自分」があり、それも含めて「自分」。
結局「自分の定義」としてある程度確からしいのは、父○○と母○○の愛の営みによって○年○月○日に誕生した人間、ということになります。

そこで私の結論は違う精子であったとしても、それは「自分」だ、ということです。
いかがでしょうか?

この回答への補足

atsuotaさん、いつも回答ありがとうございます。

> mori0309さんが自分を「自分」と考えている根拠はそもそも何でしょうか

ものごころついたときから今日まで持続している「自意識」が「自分」ですね。

> 「自分」だと思っている存在自体が不確かなものになりませんか?

学問的(科学的または哲学的)に定義をしようとしたら、たしかに「不確か」かも
しれませんけど、自分がいまここにいて何かを感じたり、考えたり、思ったりして
いるという事実までは疑えないです。(デカルトのセリフそのものですね)
(「疑えないのです」が正しい日本語?)

ARCさんの回答への補足をお読みいただけたらと思います。

補足日時:2000/12/22 14:36
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子供の行動を見ていると、生まれたときからもう別の個体であることがよくわかります。

姉弟なのに少しも似ていなかったり、行動のパターンや、反応の仕方が違ったりで・・・。
思うのですが、遺伝子に支配されるのは、たとえば神経細胞の反応パターンとかホルモンの分泌量とかで、神経細胞の経絡なんかは細胞形成時から外因によって変化し続けるだろうし、それによってその後の発達も違ってきそうなので、精神的には外観ほど似ないのではないでしょうか。
同じ人の精子と卵子からできた遺伝子でも、組み合わせの時にランダムに配列を入れ替える(母由来部と父由来部が混ざる)事が起こるそうで、それによって兄弟でも全く違う形質ができると聞きました。子供は親のコピーや類似品では全くなく、本当に別個体なのですね。個性を尊重するのは当然と言えなす。

で、私の考えでは、別の精子だったら、別の人間でしょう。「虫が見ている夢」というやつで、別の宇宙には別の精子由来の自分(?)がいるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

tama606さん、回答ありがとうございます。

> 別の精子だったら、別の人間でしょう
> 子供は親のコピーや類似品では全くなく、本当に別個体なのですね。個性を尊重するのは
> 当然と言えます。

そうだとすると受精した瞬間から「尊重すべき個」ですね。堕胎は罪ということになりますね。
人工授精を行う医師も安易に精子選択はできないし、生命操作そのものが再検討されなければ
ならないと思います。

お礼日時:2000/12/22 16:56

下の方の答えがすべてでしょうね。

まぁ、誰もが一度は思う疑問でしょうけれど。
遺伝要因と環境要因のどちらが優先されるか、と環境要因に含まれるでしょうけれど時間的制限(誕生日等)と空間的制限(住む場所等)が構成する人格に大きく作用するでしょうね。そして、これは実験不可能の事例だと思います。
ただ、今後あり得ることとして、クローン人間に関することです。同じ遺伝子情報を持つ人間が2人以上存在するとき、彼らは必ず同様の思考を持つでしょうか?私は上の理由からそれは無いと思います。
ただ、環境をそろえることでかなり似てくる可能性はあるのではないでしょうか。よく双子の奇妙なまでの一致というものがありますから。
結論から言えば、ハード(遺伝子情報)が同じでもソフト(環境要因)が違えば程度はあるでしょうが、異なるものになるでしょう。
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この回答へのお礼

tefutefuさん、回答ありがとうございます。
ARCさんの回答への補足をお読みいただけたらと思います。

お礼日時:2000/12/22 12:42

精子と卵子が同一である一卵性の双生児にしたところで、育ってしまうと結局は別人になってしまいますよね。


自分が自分であるということは、遺伝子の影響もさることながら、後天的な部分も多分にあると思います。

人は、母親の胎内にいる時点で既に、外部から聞こえてくる音や、母親の体内に存在する化学物質などの影響を受けます。
幼いうちに、何かについてこっぴどく怒られたとしたら、多分そのことは、その人が生きている間中、その人に影響を与えつづけることでしょうし、逆に○○が上手いねぇと誉められつづけたら、その子はひょっとしたら○○の達人になってしまうかもしれません。

そういった例を見るにつけ、自我っていうものは、結局は経験と環境の相互作用で作られていくもんだなぁって思います。


では、遺伝子は人格の形成に影響を与えないのかと言うと、こちらも何がしかの影響は与えると思います。
人間が悲しくなったり幸福であったり、はたまた怒ったりするのは、脳内で生成されている化学物質が関係しています。
この化学物質を生成することこそ、遺伝子の仕事なわけですから、私としては、人格の形成には親から受け継いだ遺伝子も影響を与えているんじゃないかって思うんです。
よく血液型で性格を判断する(A型は生真面目だとか)ことがありますが、これってあながちイイカゲンなものじゃないのかもしれませんね。

先天的(遺伝子)なものと後天的(経験・環境)なものと、どちらの方がより人格に影響を与えるのかってことでしたら、私は後天的なものだと思います。参考資料とか、実験結果だとかの裏づけはまったく無しの、単なる個人の「感想」としての意見ですが。

それともう一つ、「バタフライ効果」がありますね。
複雑系においては、ほんのわずかな初期配置の違いが、後々多大な影響を受けることを表す語なんですが、「人の人生」っていうという系においても、この効果が適用されると思うんです。


ってことで、まとめ。

前提条件として以下を設定する。
・まず、受精した精子以外はまったく同じ世界を想像する。
・この二つの世界で生活する○さん,及び○さん’(以下[ダッシュ])に、客観的な観察による心理面での差異が見られなければ、二人は同一人物であるとみなし、遺伝子が違っていても○さんが生まれた、と結論付ける。(そうでなければ、生まれなかったものとみなす)

頭の中でちょっとシミュレーションしてみる。
1:環境が人格形成に及ぼす影響はかなり大きいと思うので、最初のうちは[ダッシュ]は、○さんと同じように育つ
2:でも、遺伝子が異なる為、感情面においては、[ダッシュ]と○さんは、少し異なる。
3:この「少しの異なり」が、バタフライ効果で増幅し、最終的には[ダッシュ]の人格は、○さんとは異なるものになる。

結論
受精した精子が別のものだったら、○さんは生まれてこなかった。

っていうのが、私の意見です。

この回答への補足

ARCさん、回答ありがとうございます。

私が知りたいのは受精卵や遺伝子選択のちがいによって生じる性格や人格の形成差異のことではないのです。
自我の本源・自意識の自己同一性(アイデンティティ)が決定されるのは(または出現するのは)どの時点 なのか
ということが知りたいのです。有機生命体に魂が入って「私」(mori0309)という認識主体がこの宇宙に姿を 現し
たのは、いつの時点なのでしょうか。受精時?胎児期のある時点?出生時?それとも乳幼児期?

自意識のアイデンティティは遺伝子によって決定づけられる? そうでないなら別の精子が飛びこんでも、私は
父母の長男(または長女)としてこの世に生まれてくることのできる可能性はあるわけです。 そして一度確立さ
れた(誕生した)意識の自己同一性は死ぬまで不動です。

このOkwebは理数系の方が圧倒的に多いので「魂」なんていう言葉を使うと、回答者の方々が離れていって
しまうのではと心配ですが、他によい言葉がないです。

環境や経験によっても性格や人格は大きく変わるでしょうけど、自分が自分でなくなりはしないですよね。 大き
な経験をすると認識主体としての「私」が、誰か他の「私」と入れ替わってしまって、ある時点から別人になる。
そんなことはありえないですよね。「10年前の私は今の私ではない」と変化の大きさを強調して言う ことはあり
ますけど、内側からみた自我意識が非連続になることはないです。

ARCさんの論考はすべて、生命や意識を外部から観察してその同一・不同一を論じていると思います。 意識を
内部から考えたときの「私は私である」「私は私であって他の誰でもない」というこの感覚。これを基礎づけて
いるものは何なのか?それはいつどの時点でどのような因果で発生したか? どうも、うまく言葉で表現できませんが。

ARCさんも、他のみなさんも、論考が還元論的すぎるのではないでしょうか。

補足日時:2000/12/22 01:12
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