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 人を不幸にしたら(してしまったら)、自分も自然にいつか不幸になるのですか? 

A 回答 (10件)


その確率は非常に高いでしょう。
ただ、誤解があるといけませんから2つの視点で私の考えを述べてみたいと思います。

<第1>
まず、「人を不幸にする(してしまう)」から「自分も自然にいつか不幸になる」という、「原因・結果」の関係ではありません。
「人を不幸にする」ということ自体がすでに「自分の不幸」なのです。
他人を不幸にすることで得られると考えられる代償は、多くの場合自分の幸福でしょう。
しかし、冷静に考えてみればわかりますが、「他人を不幸にしなければ得られない幸福」は偽物と言えるでしょう。
なぜなら、(恐らく)一時の感情に溺れて、不幸にした他人は自分と同じ人間であるということを忘れているからです。
つまり、「人間は人間を不幸にすることができる」という証明を自らしてしまうことになるわけですから、自分も他人からそのような仕打ちを受けるかもしれないと、【実感を持って】感じ続けなければならなくなるからです。
無意識上とはいえ、このような認識を持ち続けなければならないのは、不幸以外のなにものでもないでしょう。
その不幸をわざわざ自ら作り出すという意味で、「人を不幸にした瞬間自分も不幸になっている」ということが論理的に言えるでしょう。

<第2>
人を不幸にして自分の幸せを得たつもりでいる人は、多くの場合、上で述べたようなことに気付いていません。
つまり、『非常に大切なことを正しく判断する能力に欠けている』ということが言えます。
このような思考形態しか持ち得ない人が、その後の人生で幸せをつかむのは相当難しいのではないでしょうか。


ただ、全く人を不幸にすることなく人生を送っている人は稀でしょう。
大事な事は、気がつく謙虚さと謝罪する勇気を持つことだろうと自戒を込めて思うわけです。
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吉凶は糾える縄の如しと言うではありませんか。


人夫々が、その時々に、自分の身に振りかかる禍福をどう捉えるかなのだと思います。
冬来たりなば春遠からじ
希望っていいですよね。

人間交差点っていう漫画があってその中で、ある人が車椅子に乗った人を嘲るのがあります。その人が復讐心から必死でリハビリして最後には立ち上がって嘲った人の首を絞めようとするのですが、実は嘲った人にとって車椅子の人は恩人であって、心から立ち直って自らの足で歩いてほしいと願っていた人だった。というお話。

不幸にして人を不幸にしてしまったら人がそれを乗り越えて幸せを掴んでくれることを願って生ようとするのが正しい意識の持ち方のような気がします。

また不幸にされたことが深い根となって、不幸にした人が不幸になることを願って生きるというのは切ない話しですが、場合によってはあることなのではないかなと思います。深い悲しみとなることですが。

希望っていいですよね。
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人に不幸にされたなら、その不幸にした相手も自然にいつか不幸になりますか?


幸、不幸の判断基準は個人的なものかも知れません。
不幸にされた相手が災いに見舞われている場合に快感を覚えるか、それとも忘れて人として哀れみを覚えるかといった人間の性質にもよります。
自分が不幸になるかどうかは自分で決められる事です。また、人が決める事でもあります。
不幸にした(された)相手と自分は常に鏡面の関係にあるという事は言えると思います。
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いつか不幸になるかもしれません。



不幸にされた人から恨まれ、逆に不幸に陥れられてしまう。そんな可能性も無きにしも非ずです。

人を不幸にしたから、天命で自分も不幸になるということはありえません。
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私の座右の銘にしている言葉があります。


「因果応報」
某サイトの辞書には
「前世あるいは過去の善悪の行為が因となり
 その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること」
という意味が載せてありましたが、簡単に言えば
「善いことも悪いことも、いつか自分に返ってくる」
といった所でしょうか。
皆が皆、その考えに該当するとは思えませんが
少なくとも私は、悪いことが返ってくるのはイヤなので(笑)
なるべく善い行いを心がけています。
自分が「不幸だ!」と感じることでも、他人から見れば
「そんなの全然不幸じゃないよ」って事もあります。
幸福や不幸なんて、本人の気持ちや考え方・捉え方次第ですよね。
自分から、率先(?)して他人を不幸にしなければ
大丈夫なんじゃないでしょうか?
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気持ちの問題だと思いますよ。


不幸だと思えば不幸だし、
そうでもないと思えばそうでもない。

もし、不幸になるのが嫌ならば、
不幸だと思わない事が大切なのではないかと、
自分はそう、思いますよ。
前向きに、ポジティブに。。。

人の不幸に引きずられるような事には、
あまりなりたくないですもんね。
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いいえ、今の状態で、既に不幸です。



自他の区別をしている点でも

幼年期から青年期に向けて自他の弁別が
完成します。が社会に出ると、それが自然と
氷解して、所謂 世のため、人の為となると
幸福は、貴方に向かって、歩いて来ます。

少し、別の面からの心持ちを、お薦め致します。
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何が不幸で、何が幸せなのかの定義も、あいまいですが、人生において、不幸も幸せも半々です。


人を不幸にしたから、自分も不幸になるかはわかりませんが、自分についてない事や不幸な事があれば、あの時「あんな事しなければ」「あの人にひどいことをしたから」とか後悔を思ってしまいます。
わざわざ人をおとしめるような事は、する必要はないんじゃないでしょうか?
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東洋思想や、宗教だとそうなりますね、ただ、西洋の哲学は細分化した考えを、突き詰めていくものなので、そういう事はあまり考えないような気がします。

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なることもあれば、ならないこともあります。


哲学上の問題というより、信仰の問題では?
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