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地理のレポートで今、『愛媛県の由来』というものを調べています。

理由は、自分自身が住んでるのが愛媛というのと、
今年、歴史で明治政府の「廃藩置県」を習いました。それで、「松山藩」⇒『愛媛県』になったというのを先生から教えてもらいました。

そこで、なぜ『愛媛県』になったかなんですが、現状では、奈良時代の「万葉集」の中の記載である、
”伊邪那岐の命と伊邪那美の命が国生みをしたとき、「伊予の国を愛比売といひ」”
という文が元になっていると言われているそうです。

この万葉集の本文について、もっと知りたいので原文が載っているページを紹介してください。お願いします。

A 回答 (2件)

万葉集ではなく、古事記の国生の神話から



>是に二柱の神、議りて、云ひけらく、「今吾が生める子良からず。猶天つ神の御所に白すべし。」といひて、即ち共に参上りて、天つ神の命を請ひき。爾に天つ神の命以ちて、布斗麻邇爾占相ひて、詔りたまひけらく、「女先に言へるに因りて良からず。亦還り降りて改め言へ。」と のりたまひき。故爾に反り降りて、更に其の天の御柱を先の如く往き廻りき。是に伊邪那岐命、先に「阿那邇夜志愛袁登売袁。」と言ひ、後に伊邪那美命、「阿那邇夜志愛袁登古袁。」と言ひき。如此言ひ竟へて御合して、生める子は、淡道之穂之狭別島。次に伊予之二名島を生みき。此の島は、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国は愛比売と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宜都比売と謂ひ、土佐国は建依別と謂ふ。次に隠伎之三子島を生みき。亦の名は天之忍許呂別。次に筑紫島を生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫国は白日別と謂ひ、豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曽国は建日別と謂ふ。次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都柱と謂ふ。次に津島を生みき。亦の名を天之狭手依比売と謂ふ。次に佐渡島を生みき。次に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別と謂ふ。故、此の八島を先に生めるに因りて、大八島国と謂ふ。
然ありて後、還り坐す時、吉備児島を生みき。亦の名は建日方別と謂ふ。次に小豆島を生みき。亦の名は大野手比売と謂ふ。次に大島を生みき。亦の名は大多麻流別と謂ふ。次に女島を生みき。亦の名は天一根と謂ふ。次に知訶島を生みき。亦の名は天之忍男と謂ふ。次に両児島を生みき。亦の名は天両屋と謂ふ。

この「伊予国は愛比売と謂ひ」から県名になったと思います。
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また愛媛県は松山藩がそのまま県になった訳でもないです。


愛媛県は元々伊予国と呼ばれ、江戸時代に、西条藩、小松藩、今治藩、松山藩、新谷藩、大洲藩、吉田藩、宇和島藩の8個に分かれていましたが、明治4年の廃藩置県により8藩はそれぞれ同名の県となり、その後、11月に、西条、小松、今治、松山の4県が合併して松山県に、大洲、新谷、吉田、宇和島の4県が合併して宇和島県となりました。
翌年、松山県は石鉄県、宇和島県は神山県と改称され、明治6年2月20日に石鉄・神山両県が合併して愛媛県が誕生しました。
伊予の名前の由来は道後温泉を示し「いい湯」からきたと言う説が有力ですが、それ以外にも諸説あります。
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