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人工的な華美なものより、自然の中に顕れる美しさを大事にするといわれますが、なぜわざわざ茶室に篭るのでしょうか。野点ではだめなのでしょうか。
茶室の中が小宇宙だとすれば、自然の中こそ大宇宙だと思います。

A 回答 (5件)

茶室の最小は、千利休が作った畳2畳。

(妙喜庵対庵・京都府)
大名茶道となると茶室自体が大きくなり、灯り取りの窓も多くなります。

小さな茶室ほど座する人との間が狭くなり、それなりの作法があります。
灯りは、茶室の大小に関わらず自然光が原則です。
大自然の中での野点も良いですが、限られた光の中で道具を拝見し、
亭主と参会者との息遣いも聞こえるほどの空間では、
より精神が研ぎ澄まされ、侘び・さびの心に近づけるのかもしれません。

茶室は「茶」をより楽しむ為の作りになっており、
余計な造作は一切ありません。(建築には一定のルールがある)
自然も1輪の花や道具などによって表現され、
その中に生きる「自然」を参会者が心で見るものだと思います。

自然の露地から「自然」を断ち切った茶室は、
一種独特の日本文化といえましょう。
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野点は自然環境に左右されますから、お茶室は便利だと思います。

こんな言い方は、失礼かも知れませんね(^^;

私は、お茶室の「間(ま)」が好きです。俳句も「間」を詠むと云いますよね。お茶室も全て語っていない。ご亭主の思いを読み取ることに醍醐味を感じます。だから、kiki360さんの仰るように、人工的で華美なお茶室に伺うと、内心「ここは、お喋りだなぁ」と思います。

お床の書に、禅の境地を得、一輪のお花に野原を感じます。感じるには、自然を体験し、自然から学ばなければなりません。いつも頭にアンテナ、心に汲み取る柄杓を構えています。と、心がけています(笑)

話が長くなってすみません。「大宇宙の中の小宇宙」って、いいお言葉ですね。
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千利休のエピソードで


利休の家の朝顔が咲き誇って素晴らしい、ということを聞いた秀吉が、利休を訪ねる約束をした。
約束の朝、秀吉が訪ねてみると、家の垣には一輪の朝顔も無かった。
そして、茶室の花活けに一輪だけ朝顔が生けてあった。
というのを聞いたことがあります。

人の手で自然を演出する、というのが茶道の醍醐味の一つだと思います。
茶室に入るのも、そのためではないでしょうか。

そのものが無い状況ではじめて分かるということがあると思います。
利休の朝顔が一輪でかえってその美しさ、幽玄さを演出されたように、自然から離れた茶室に篭ることでかえって自然を理解できることもあるのではないでしょうか。
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先週号のモーニングの「へうげもの」に描写されていました。


http://e-morning.jp/manga/heuge.html
作者の解釈だと思いますが、狭い暗い茶室の中で
小さい障子から差し込む光のみで茶器が際立つようになっているようです。
信長の側近だった黒人を招きいれて、暗黒の中に黒人の目のみが見える状態を見て
空間が完成されたと書いていました。
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自然の中に自然を見出すのでは、全然珍しくも驚きもありません。


茶室という空間だから、演出が生きるのです。
自然じゃないから、自然が美しく見えてくるのです。
それに、今なら尚更ですが、昔でも、一体どれだけの本来の自然があるでしょう?尤も、何がどこまで自然かという問題はありますけどね。
ナチュラルメイクと言っても、それは素顔ではありません。それと同じ事です。
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この回答へのお礼

なるほど、突き詰めていけば何が自然とかいうことになっちゃいますものね。。。
自然じゃない空間から自然チックなのを得るのが粋ということでしょうか。

前に読んだ小説で、本阿弥光悦にそう言わせていた場面があって、そういえばそうだと疑問を感じていたのです。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/29 15:16

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