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私には最近、と言っても2~3年前からですが、胸を痛めると分かっていて知ろうとしてしまう癖があります。本・映画など「この手のストーリーは苦手なタイプだな」と思いつつもついつい手を出してしまうんです。で止めればいいのに最後まで読んでしまう。

昔はそうでもありませんでした。興味の湧かないものには手を出さないし、出したところでつまらなければ読むのをやめました。そのことはそれですっかり忘れてしまいました。それが今は、気になったら(目に留まったら)読まずにはいられないし、読んではいけないと思うと余計に読みたくなる。

しかも胸を痛めるものに限っていつまでも記憶に残っていたりするんです。よく辛い出来事も時が経てば薄らぐと言いますけど、どうも私はそうではないらしく、一時は忘れてもまた鮮烈に思い出してしまいます。1、2年経っても本を読んだ当初と同じくらい胸が痛かったりするんです。それもやたらと感情移入してしまい、ともすれば自分がその体験をするのより苦しいのではないかと思うくらいです。

例えば平岩弓枝先生の「御宿かわせみ」、特別ファンというわけでもないのですが、かもし出される雰囲気が好きで新刊が出ると読んでいました。それが、主人公の恋人に隠し子ができたところですっかり嫌になってしまい、今では思い出すのも苦しい作品に・・・。なのに新作のチェックをしてしまうんですよ。傷に塩を塗るようなものだと思いつつ、続きの作品も読んでしまいました。

精神的にプラスな感情ならともかく、これではさすがに困るしどうしたものかと弱っています。
分かっていてなぜやってしまうのでしょうか、なぜ過度に感情移入してしまうのでしょうか、そして辛さが色あせないのはなぜでしょうか?

A 回答 (2件)

人間は経験したことや見たもの、聞いたものはすべて脳の中に記憶として残ります。


ただすべてが顕在意識の中に出てきてしまっては混乱を招くので、出てくるものと出てこないものに選り分けられます。
出てこないものは「忘却」されて、出てくるものは「記憶」に残ったと認識するわけです。
では忘却するものと記憶に残るものの選り分けはどのように行われるかというと、それはその体験をした時に「意識したか」ということが大きな要因ではないかと言われています。
楽しいことよりもつらく悲しい記憶の方が多いのはそのためです。
楽しい気持ちというのは「発散」しますが、苦しいとかつらいとか悲しいという感情を持つとき、人間は内面に向かい、その感情を噛み締めます。
つまりネガティブな感情の方がより強く認識するので、記憶に残りやすいのではないでしょうか。

>分かっていてなぜやってしまうのでしょうか、
なぜ過度に感情移入してしまうのでしょうか

上に書いたように、ネガティブな感情は内面に向かいやすいですから、そういった経験が多い人は感情が内面に向かうことが「習癖」になっています。
何も考えずにいることに慣れず、内面に感情を向けることに中毒性のようなものがあるということです。
だから分かっていてもやってしまったり、感情移入したりするのだと思います。
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この回答へのお礼

暇すぎるということですね。
そう言えば、こうなったのは趣味もなく仕事も楽なときからでした。それと、ネガティブに物事を捉えやすいというのもあるんですね。
アドバイスありがとうございました。

お礼日時:2006/12/14 14:39

そうですねえ。

。。心理分析ではなく個人的な経験によるものですが、対照的な例を挙げてみましょう。
私の母は特に動物が好きというわけでもなかったのですが動物が辛い目にあっている映像や話等は神経質なくらい拒絶する人でした。たとえば処分されてしまうペットとかライオンが草食動物を襲う場面とか。
御存じかどうか、私が子どもの頃に『野生の王国』というテレビのドキュメンタリー番組がありましたが食物連鎖そのもののシーンが映し出されると
「チャンネル変えなさい!!」と叫んでましたね。「おーイヤだ、ブルブル」と怖気を奮いながら。
そのくせ自分が大好物の魚介類は生きたまま熱湯のなかに放り込んだり引きちぎったりは平気でしたね。アサリなんか砂出しさせて塩水吹くでしょ、お台所がビシャビシャになっても
「ああ、カワイイカワイイ」と舌なめずりして言ってました。(笑)
私は、むしろ「活け造り」なんかのほうが直視できないんですが。。。
で私、とても動物が好きなほうですが『野生の王国』的シーンから目を背けるかといえば、これが穴のあくほど凝視してしまったりするのですね。さすがに食事時等は抵抗感強いですけども。そして最後の最後まで見届けたそのあと(できれば隠れて)慟哭するのですねえ。

実際、自分が食われるより死んでいくよりも、自分にとって、この上なく大切で愛しい者が(自分自身が、その対象であったりもする)そうなってしまうほうが精神的に耐え難いという感覚はあります。

こうした、人により、いわゆる真逆の反応というものは自分自身や人生に向かう姿勢、生活態度全般に対して大まか分かれるところではないでしょうか。よく見かけませんか注射をするとき目をそらす人、逆に、しっかり見詰める人。喩えがヘンかも知れないですが。。。
目を背ける人はある種、敏感で繊細なのでしょうが目を背ける人に本当の分析力、解決力は備わっていないかも知れません。
患者にメスを入れて病巣を抉り出そうとする医師に、目をそらすことは許されませんものね。また喩えがヘンでしょうか。

それで御質問者様の場合ですが、けっして特殊なケースではないと思います。辛いと感じる経験は印象が強く残って当然なのですし、幼い頃に比べて、ちょっと自分に対して強迫観念的になるのも年齢から来る影響もあるかも知れません。
「恐いものほど見てしまう」という心理も、よく知られるところですし。
「蝦蟇の油売り」(どんなんでしょうか!?)じゃありませんけどマゾヒスティックなんだかサディスティックなんだか「醜悪だから凝視」するのか「見ぬもの清し」にするのか。。。?

一例に挙げられました『御宿かわせみ』ですが(いい作品ですよね、しっとり風情があって)もちろん御質問者は『御宿かわせみ』の主人公でも何でもない。まして先方は現実の人間でもない。
要するに心理学関連のキーワードを使えば「投影」と言われるものでしょうか。私も、このコトバは、かつて或る会員様から教えていただいたもので正確な用法は存じないのですが(「心理学徒」を標榜していても、その意味を理解できていない人もおられるようですから見逃してください笑)

そうです「傷に塩」なのですね。そうして「確認」するのです。
治まってなぞいない傷の痛みの、この新鮮さ。。。この新鮮な痛みを自分がどこまで持ち堪えられるものか。。。
「感情移入」させてくれる相手は、その痛みを思い出させ目くるめく追体験を味あわせてくれるのです。
が!!「かわせみ」の女主人と貴方は同一人物ではない。

適正である、と評価できる「距離感」を保つのは実は対象が何であれ実は、なかなか難しいことであるかも知れません。しかし、その距離感(を、どうとるかということ)は自分の存在を、さらには対象の存在を守ることに通じていくのではないでしょうか。うまく表現できているか自信はありませんが。。。

何が我が身に「塩を塗らせ」るのでしょう。
そして「塩」は辛さを色あせないものにしてくれる、のですよね。
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この回答へのお礼

私には能力不足で理解できないのですが(申し訳ない)、自分と物語の登場人物は別ものだということですね。客観的に捉えるしかないんですね。
アドバイスありがとうございました。

お礼日時:2006/12/14 14:48

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