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新興宗教団体(浄土真宗系)の知人が、以下のようなことを言っていました。

1.絶対に自分は救われないと確信したと同時に、阿弥陀仏の力により、絶対の幸福を得ることができるそうです。それは、阿弥陀仏しかできないそうです。言葉で表すと矛盾であるが、いつ死んでもいい身になれるそうです。つまり、人生の目的を達成したからだということのようです。でも、生きているうちは菩薩と同格になるということであり、死んだときに初めて仏になれるとのことです。なぜかというと、我々人間は煩悩具足であるので、生きている間に仏にはなれないそうです。しかし、そもそも仏教は仏になるための教えであるので、それなら、早く死んだ方がいいんじゃないかと思うのですが、「私はこの真実の仏教を広めなければいけないので死ぬわけにはいかない」とのことです。しかも、死後に極楽浄土(仏の世界?)へ行けることが、阿弥陀仏の力によって約束されているから問題ないとのことです。
どうも知人は、この教団の勢力を拡大するために利用されている気がするんですが、どうでしょうか?

2.我々の教え(真実の仏教?)を聞かない者は地獄に堕ちるそうです。なぜなら、呼吸するたびに微生物を殺しまくっているし、食事のたびにも他の生物を殺しまくっているからだそうです。しかし、それは自然の摂理であるので、何でも殺しだから悪というのはどうかと思います。この場合も、阿弥陀仏の力によれば、どんなに殺しても救われるそうです(たとえ人殺しをしたとしてもみたいです。でも阿弥陀仏の救いを得た者は、そんな気が起きないはずだとのことです)。なんでもかんでも阿弥陀仏が助けるというのもどうかと思うんですよね。どうでしょうか?

A 回答 (7件)

>自分が満足することを諦めたら、不満になりませんか?


>私の読解力がないのかもしれませんが、ちょっと疑問に思いましたのでお答え頂けたら幸いです。

自分を満たすことをやめる、ということは、満足しなくともそれでよい、と感じることになります。
一切合切を「それでよい」と言える時、そこに不満はない、ということになります。
(そもそも、「自分」というものが存在するのかすら怪しいのです。怪しいにも関わらずそれが存在すると信じこんで、それを満たさねばならないと信じこんで、それで苦しむことになるわけです。)
ちなみにこの発想に至るのに、エピクロスの哲学が役立ちました。
幸福な状態とは平穏な心の状態(アタラクシア)であり、そのためには苦痛(不満)をなくすことだ、という考え方です。
私の発想にはこうした考えが反映されていると思います。

仏典が真実であるかどうかわからないと思われるのも無理はないことです。
何かを信じようとするためには、その根源となるある何かが完全に信じられるものでなければなりませんから。
そして、そのような前提があやふやなことが多いのです。

「信じることができることは疑うこともできる。疑うことができることは信じることもできる。疑いようのないことは信じようもない」
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この回答へのお礼

>怪しいにも関わらずそれが存在すると信じこんで、それを満たさねばならないと信じこんで、それで苦しむことになるわけです。

そうですか、なんとなく分かるような気がします。

>幸福な状態とは平穏な心の状態(アタラクシア)

自分が経験した限りでも、それは分かります。

再度のご回答と詳しい説明ありがとうございました!

お礼日時:2006/12/24 20:28

私は仏教徒でもなんでもない、一介の哲学の徒です。



>絶対に自分は救われないと確信したと同時に、阿弥陀仏の力により、絶対の幸福を得ることができる。

これは(阿弥陀仏の力により)という部分を除いて同意します。
「自分が救われること」とは、つまるところ自分が満足することです。満たされることを目標とするということは、現在は常に不満足な状態。それが持続されるという現状に気付いて、自分の満足などを追うことを諦めることで、不満も解消する。
私はそのような体験をしましたが、それが阿弥陀仏の力であるということは証明できるようなものではないと思っています。
しかし今、私は「いつ死んでもいい身」です。自分の命を永らえようとあがくことは結局自分の首を絞めることになります。無理をしないことが一番楽なので、無理をしていません。
早く死なない理由を知人がそのように言っているのは、宗教活動の正当化と言ってもいいと思います。なお、私ならば、早く死のうとすることもまた不自然で苦しむことだから、無理して死ぬこともないと答えます。

2に関しては、私に言わせれば人を惑わすだけの言葉ですね。
自らの秩序を完全に正当であるとするためには、秩序の外にあるものは完全に真っ黒でなければいけない、という考え方で、ありがちな善悪二元論です。
自分たちは正しい(正義である)、という前提を崩したくないがために、かえってボロを出してしまっています。
私は殺しすら悪とは思いません。善とも思いませんが。善悪を語る者は善悪の根拠について無知なものです。
試しにその方に善悪とは何か聞いてみられるとよいでしょう。その宗教団体に帰依し教えに従うことが善であり、それ以外のものは悪である、というような趣旨のことを言うに違いありません。
つっこんでさらにその根拠は、と問うても答えられますまい。

「真実」を強調する者はそれだけ疑わしいものになります。
真実真実と吠えたける人々に盲目的についていくのではなく、それが真実であるかどうか見極める目を培うべきです。
pas26さんはしっかり疑えているので、まだ大丈夫な方だと思いますが。

この回答への補足

>自分の満足などを追うことを諦めることで、不満も解消する。

自分が満足することを諦めたら、不満になりませんか?
私の読解力がないのかもしれませんが、ちょっと疑問に思いましたのでお答え頂けたら幸いです。

補足日時:2006/12/23 01:29
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この回答へのお礼

>その宗教団体に帰依し教えに従うことが善であり、それ以外のものは悪である

それ以外のものをすべて悪だとは言ってませんが、その教団が言っていることに反する行為は悪だと言っています。なお、その教団は浄土真宗=仏教と言っていて、その仏教?を馬鹿にする行為は一番の悪であるそうです。それで、その悪は人殺しと比較できない程であり、死後に永遠の地獄に堕ちるとか言ってました。

あと、ちょっと書ききれなかったのですが、その教団の救いと言うのは阿弥陀仏の力により、死後の世界がハッキリと少しの狂いもなく知らされることが必要なみたいです。
「じゃあ、どんな世界なんですか?」と訊いたら、「相対的な存在である我々では、その世界(絶対の幸福である極楽浄土)を言葉での表現はできない。でも、死後の世界がハッキリしたと確信している」とか言うんですよね。
どうもハッキリすることがポイントらしく、やたらと強調していました。

ちなみに、この教団の善悪の根拠は、すべて仏典によるものらしいです。試しに、「その仏典が真実である根拠はあるんですか?」と訊いたら、「あなたこそ真実でない根拠を言えるんですか?もし仏典が真実でないというなら、あなたはお釈迦様より偉大でなければならない」と言い返され、「偉大であれば真実なのかよ」と内心思いつつも、その教団の仏教らしきものを馬鹿にしたと豹変しそうな感じだったので、言うのはやめました。

>真実真実と吠えたける人々に盲目的についていくのではなく、それが真実であるかどうか見極める目を培うべきです。

ホントそう思います。
私はまだまだ真実を見極める目が弱いので、もっと勉強が必要だと思ってます。

詳しいご回答とアドバイスどうもありがとうございました!

お礼日時:2006/12/23 01:28

> 死後に極楽浄土(仏の世界?)へ行けることが阿弥陀仏の力によって約束されているから問題ない


仏教とは「思い通りにいかない=苦」であるこの世界を、自分自身を目覚めさせていくことによって受け止めていく体系だと思います。ところが、思い通りにいかない世界を、傲慢にも「何とか自分の都合通りにしてくれ!」と仏に「おねだり」してしまう。「おねだり」が根底にあるからこそ、ただひたすら教えに従順な態度をとる。これは「苦を引き受ける態度」とは全く逆ベクトル。ゆえに「おねだり」を餌にする制度は宗教性を成熟させません。入信したら「こうなれる」、教団に協力すれば「こんなに幸せになれる」という体系を持つ宗教は信用できません。

以上は私のオリジナルの意見ではなく、浄土真宗系・如来寺の住職であり大学で宗教思想・人間学の講師も勤める釈徹宗氏の主張です。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%8D%E3%81 …
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82 …

> 我々の教え(真実の仏教?)を聞かない者は地獄に堕ちる
それじゃあ「教え」じゃなくて「呪い」じゃないですか。救済が目的の仏教が、呪いをかけてどうするんでしょうか。ゴータマ・シッダールタは「前世の報い」といった「輪廻」の呪縛を解き仏陀と呼ばれるようになった。哲学的な言い方をすれば「呪縛」を合理的知性によって相対化し、恐れを克服した。「仏教は哲学」というご質問がありましたが、仏教が哲学なのではなく、仏教の相対主義的な態度が、一神教文化圏の知性から見ると非常にユニークな哲学・思想に見えるのだと思います。

前述の通り、仏教に特徴的な機能は「相対化」することです。ですから「真実の仏教」という問いとは非常に相性が悪い。真実の○○とか、本当の○○というのは、絶対化のベクトルだからです。ゆえに仏教にはいろいろな解釈・言説・宗派があり、正当性や異端性を追求しません。とはいえ、浄土真宗系を含む「浄土教」というのは明らかに仏教においては異端派です。浄土思想は大乗仏教の頃から芽生え、日本で最も成長したといわれますが、少なくとも歴史的には、仏教が絶対化し教義が形骸化することを避けるための、カウンターバランスとして出てきたものだと聞いています。浄土真宗系の新興宗教団体が真実の仏教を語るなど、身の程知らずにも程があるのではないでしょうか。

私にも過去に友人が新興宗教にハマり、そこから交友関係が壊れてしまった経験が何度もあります。私が宗教関係の本を読み漁るようになったのも(読み漁るは言いすぎです・・・)、そのような苦い経験がきっかけです。pas26さんの知人の方の仰ることは、仏教系の数ある言葉のキャッチーなところを適当につまんでエディットしたもので、もはや原型は全く留めていないと思われます。その手の俗世的な軽薄なチューンに酔いしれてしまう人というのは、どうも宗教に対する俯瞰的なパースペクティブがないと感じます。例え俗世的な軽薄なチューンであっても、本人が救済されるのであれば、それはそれで仏教の願いです。でも他人を惑わすようになったら、それはもはや危険物です。

毎度ついつい長くなってしまうので、今日はこの辺で。
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この回答へのお礼

>浄土真宗系・如来寺の住職であり大学で宗教思想・人間学の講師も勤める釈徹宗氏の主張です。

それがですねー、その新興宗教団体は、本願寺が間違っていると言うのです。なぜかと言うと、「本来の浄土真宗(=真実の仏教?)は、生きて幸せ死んでも幸せでなければならない(けしてなくなることがない幸せを指してるみたいです)のに、本願寺は生きている間に絶対の幸福(=阿弥陀仏の救い)を認めないので間違いである」とのことです。

ご紹介された本は、時間が空いたら読んでみますね。

詳しいご回答とアドバイスどうもありがとうございました!

お礼日時:2006/12/23 02:54

>どうも知人は、この教団の勢力を拡大するために利用されている気がするんですが、どうでしょうか?


:ある一面ではそう言えるでしょうね。
ただ、このような教団に入信するということ自体が、良く考えてみれば知人の方が(無意識にせよ)この教団を利用しているという解釈もできるでしょう。

宗教というのは、何であれそれを信じ込むことによって初めて価値が付加されるものだろうと思います。
つまり、教義如何に拘わらず、「信じ込むこと自体」に価値があるのではないかということです。
「いわしの頭も信心から」などと申しますが、ある意味で根本的な真実を突いているような気がします。

ただ、納得できないことを人は信じようとはしません。
ですから、ひとつの教義から何らかの価値を得ようと思えば、どんな方法であっても心から納得することが最前提になるでしょう。
心から納得するための単純な方法として、
「価値があるのはこの教義だけであって、他はすべて間違いである。
だから、これを信じる以外に道は無いのだ。」
と思い込ませる、または思い込む、ということがあります。
この方法論は、おそらく教義の内容よりも重視される傾向が強いでしょう。
結果として、教義の本質がおろそかにされ、種々の問題が発生することになります。
というより、本質を良く理解しないままでも、その宗教に参加することは可能だという事実がある、ということです。

しかし、
「『ただひたすら信じる』という、そのことによって私は救われたいのだ。」と考える人がいることも確かでしょう。
そのような人に対して、
「もっとその宗教の本質を良く見極めるべきではないのか」
という言葉が通じるかどうか、ということになります。

「阿弥陀仏の力」云々は確かに論理的ではないのですが、
宗教の根本は、現段階の人類の論理で説明のつかない部分を強引な論理でねじ伏せることですから、
絶対的な超越者の力を仮定ではなく事実として信じ込むことが必須になるのでしょう。

そして、先に触れたように、信じ込まなければ救われないと考える人にとっては、その教義なり教団を絶対的な力の象徴と認識しなければ生きていけなくなります。
思い込まされたのか思い込んだのかの境界線を明確にするのは難しいかもしれません。
阿弥陀仏がその方の生きるための方法論になっているわけでしょうから、阿弥陀仏の力に替わる、何かもっと大きなものが現われてその知人の方を納得させることができなければ、その方から阿弥陀仏を引き離すことは難しいでしょうし、それが有益とも言えないでしょう。
後はその方の論理的思考能力次第ですが、実質的な被害が及ばないように祈るだけです。

2に関しては、おっしゃるように、
殺生は人が生きていくには不可避のことですから、「無益な殺生」は避けるようにすべきだということでしょう。
殺生が悪であれば人間の存在自体が悪になりますから、その宗教団体自体が矛盾した存在になってしまいます。
「私はこの真実の仏教を広めなければいけないので死ぬわけにはいかない」と言っているそうですが、
その教義に反しながら(肉食で生きながらえながら)教義を広めていることになります。
たとえ菜食主義者であったとしても、肉体を保持している以上、いつかは何らかの形で肉の還元をしなければなりませんし、その分解された要素が他の生物の生きる糧になることに違いはなく、肉食を他者に強いる結果になるでしょう。
阿弥陀仏の力をより強調するために、全ての殺生を悪としたのでしょうが、このような非論理が論理になってしまうのが宗教の怖さですね。
 
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この回答へのお礼

>殺生が悪であれば人間の存在自体が悪になりますから、その宗教団体自体が矛盾した存在になってしまいます。

ところがですねー、悪しか作れない自分(浄土真宗では全ての人が悪人みたいです)を原底(阿頼耶識)から理解したとき、矛盾ではあるが、仏の先生的な阿弥陀仏だけは救ってくれる(絶対の幸福にさせてくれる)そうです。

詳しいご回答とご意見どうもありがとうございました!

お礼日時:2006/12/23 03:34

>どうも知人は、この教団の勢力を拡大するために利用されている気がするんですが、どうでしょうか?



それは、事実だと思います。本人がどう思おうと、教えを広めて、その宗教団体に加入させていれば、勢力の拡大をしていることだと思います。

>2.我々の教え(真実の仏教?)を聞かない者は地獄に堕ちるそうです。~どうでしょうか?

人間は、誰しも幸せになりたいですから、自分が幸せになれるものを求め、それを得ると決して離したくはなくなります。その人は、その教えを聞いて実践した時、自分の中の悩みがある程度消えて、これは素晴らしいと思ったのではないでしょうか?だから、信じているのだと思います。
もし、それで本人が充分ならそれはそれで良いと思います。

仏教にはたくさんの宗派、教えがありますが、それが正しいとか間違っているかを決めるのは難しいと思います。
 歴史的流れを見て、本当とか、間違っているとかなら、ある程度はつきますが、それでも、3000年前程と言われて、今に至るまで間違いなく、歴史の流れを掴むことは不可能だと思います。
 また、歴史的に考えて正しいとか、間違っているとか、考えても、その教えが良いのか、悪いのかは判断できないと思います。

 何を基準として仏教の教えを正しい、間違っているのかを決めるのでしょうか?
 仏教についていくら勉強して、修行したところで、それに人間すべてにおいて普遍的な価値を見出し、それが完璧なものでなければ、正しいと、間違っているとか言うのは、おかしいと思います。
 お釈迦様が説いたから正しいというのは、真実を見極めずに思い込んでいる状態です。
 人間は、よく自分のしていることが間違いと認められないから、いろいろと理論を後で付け加えます。

 映画や小説のストーリーみたく、どういう流れだったけ?というような話では、その程度で良いのかもしれません。

 しかし、人の人生を左右するようならば、すべては結果を見て判断するべきだと私は思います。結果を見ることができないのに、良い、悪いと決めるのは、浅はかだと私は思います。

ですので、どうでしょう?と言われても解りません。というのが、私の回答です。回答というより、自分の意見の主張になってしまいしたね。

以上、参考になれば幸いです。

この回答への補足

>回答というより、自分の意見の主張になってしまいしたね。

全然問題ないです。私は皆様の意見も含めて聞きたいですから、参考になりましたよ。

補足日時:2006/12/23 03:08
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この回答へのお礼

>お釈迦様が説いたから正しいというのは、真実を見極めずに思い込んでいる状態です。

そうですよねー、でもお釈迦様はとーっても偉大なお方なので、ただの凡人が疑いを持つのはおかしいとのことです。

ご回答とアドバイスどうもありがとうございました!

お礼日時:2006/12/23 03:08

[なんでもかんでも阿弥陀仏が助けるというのもどうかと思うんですよね。

どうでしょうか?]
その通りです。仏教では、自助努力に対して他力が臨むのであって、単なる他力では自身さえも救われません。努力即幸福ですね。「呼吸するたびに微生物を殺しまくっているし」という表現は釈迦の教えではなく当時のジャイナ教の教えですね。「たとえ人殺しをしたとして」は釈尊の時代のアングリーマーラの話でしょうね。当時の殺人鬼のアングリーマーラを釈尊は弟子にするのですが、数十年、恨みの石を投げつけられながらアングリーマーラは托鉢に周り修行するんですね。その過程で改心し、人助けもしたので晩年は立派な弟子になって成仏したという話ですね。これ監獄にはいるとか死刑になるより苦しい修行ですよね。そういう過程を飛ばして、阿弥陀仏にすがれば極重悪人でも救われるなんとかといい始めると大間違いですね。阿弥陀様もあきれてるでしょうね。
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この回答へのお礼

>「呼吸するたびに微生物を殺しまくっているし」という表現は釈迦の教えではなく当時のジャイナ教の教えですね。

そうなんですか。でも、その知人は仏典に根拠があるって言ってたんですよね。

>そういう過程を飛ばして、阿弥陀仏にすがれば極重悪人でも救われるなんとかといい始めると大間違いですね。

私もそう思いますが、仏の先生的な阿弥陀仏は非常に慈悲深いらしく、その教団の仏教らしきものを聞いていけば救われるとのことですよ。

ご回答とアドバイスありがとうございました!

お礼日時:2006/12/23 02:23

少なくとも、ブッダは極楽浄土がどうの、地獄に落ちる落ちないということを説いていないと思いますが・・・



独自の解釈をする新興の教団なんていくらでもあります。世界の三大宗教あたりを、wikipediaなどでざっとながめて基礎知識を得ておけば、微生物がどうたらいう枝葉末節な話に惑わされなくなるんじゃないでしょうか。仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などそれぞれどのような教えなのか、歴史的経緯や社会制度と組み合わせてみてみると、なんでそういう教えになったのか分かって面白いですよ。
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この回答へのお礼

>少なくとも、ブッダは極楽浄土がどうの、地獄に落ちる落ちないということを説いていないと思いますが・・・

いや、仏典に根拠があるって言うんですよ。

>微生物がどうたらいう枝葉末節な話に惑わされなくなるんじゃないでしょうか。

そうですねー、「阿弥陀仏に救われないと必ず地獄に堕ちると確信してる」と呪いめいたことをその知人が言うもんですから、多少惑わされてる部分はありますかね。
まあ、もうちょっと勉強してみます。

ご回答とアドバイスありがとうございました!

お礼日時:2006/12/23 02:02

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