プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

チンギスハンの西征に先立ちフン族はゴート族を追いヨーロッパに侵入し各地を恐怖に陥れました。
しかし彼らは国家を建設する事なく、各地での転戦で次第に戦力の中核であるフン族の戦力を失いアッチラの急死後後退していきました。

この先例の伝承は同じ遊牧民のチンギスハンに何らかの影響を与えたでしょうか?

チンギスハンは「人の間に差別なく、土地に境なし」を信条に一大帝国を建設しましたがその過程はフン族のヨーロッパ侵攻と似ています。
しかし中部ヨーロッパに深く侵攻することなく中途で撤退しました。
これは何故でしょうか?

また彼は帝国を一括して子に残さず、幾つかに分割しました。
これはなぜでしょうか?

A 回答 (4件)

フン族の歴史は、諸説紛々です。


ある説によると「フン族とは中央アジア・キルギス高原にいたアジア系
遊牧騎馬民族で、4世紀後半にカスピ海北方経由でドン川を越え、
ゲルマン諸族の東ゴート族を征服(375年)し「ゲルマン民族の大移」
を引き起こした。」とのことです。この、征服により、フィンランドや
ハンガリーの国名が残って、両方とも「フン族の国」の意味とのことです。

1.フン族の侵攻と、チンギスハンの時代とは、あまりにも時代が離れて
おり、直接的な関係はないと思われますが、伝承としては残っていたの
かも知れません。

2.チンギスハンは、モンゴル族や子供たちに多くの土地や、収入源を
残し、権益を守るために侵攻したのではないかとも言われています。
ジャムチなどもありますが、本音では、遠くまで行過ぎたり、時間が
かかりすぎて指揮権や占領地管理が難しくなってきたのでは。

3.そこで、子孫に分割統治させたのでは。分割して国力も小さくなり
現在のロシアの地域などは「ルーシー人」の間接統治を認めたりしま
したが、徴税は、確保・継続していたとのことです。このルーシーが
ロシアの語源とのことです。

フン族もチンギスハンの作ったモンゴル族の元も、アジア・ヨーロッパ
に与えた影響は大きなものだったに違いありません。
以上
    • good
    • 1
この回答へのお礼

私と意見を同じくされる方もおられることに感激です。
私も口述の伝承は不完全でも少しはあったのではないかとおもっていました。
数百年もたっていても遊牧民の通性とするには大胆かつ雄大過ぎる構想ですから。

都市社会の徹底した破壊など共通した点がありすぎるようにおもわれます。  ロシアの古語「ルーシー」は懐かしい響きです。
ジンギスハンの寿命がもう10年のびていたらと想像するのは楽しいです。

お礼日時:2006/12/26 16:19

遊牧民は本当に文字を残しておらず、チンギスより前の世界と言うのは本当に良く分からないのです。


たとえば当時のモンゴル語を表記しているのは実はウイグル文字とよばれる、ウイグルの文字でして、それまで文字らしい文字が無いのです。チンギスの時代にタタトンガという人物が主に大成させたのですけどね。もしくは元朝秘史とか、元代の資料になりますし。もしくは、アラビア系の「半外部資料」となります。

なので、中央高原に居座る、当時世界最強の騎馬民族はいまだに外部世界のみの情報しか残っておらず、いまひとつ不明なのです(また、遊牧民族のため遺跡があまり無い)。もうひとつは、中国に攻め入った民族が残した情報です。ただしこれも断片的にしか分かりません。
フン族については他の方の言っているとおり。いまひとつ不明な民族ですし、現代では混ざってしまったため最早消滅した民族と考えることも出来ますね(それにもかかわらず中には「フン族は匈奴である」と書いている本があるのですから困りものです)。
また、もともと遊牧民族にとって、国家というのはありません。国家と言うのはどちらかと言えば農耕的な考えでして、国家と言うのを作った遊牧民は、漢化してしまったのがほとんどです。この点、略奪だけして遊牧に適した土地に帰っていく(つまり、領土と言う考えが希薄なのです)、というのは伝統的な遊牧民族の行動ともいえます。

また、征西については、ホラズムを下すのが目的なので、ヨーロッパに入ったわけではありません。
オゴタイの時代にバトゥが行ったものですね。ちなみに撤退の理由はオゴタイが死んだから。後継者を決める都合があったのです。チンギスハーンの一族を書いた陳瞬臣も、これが無ければ西欧まで到達していただろう、としています。
ちなみにこのクリルタイ、国家という考えではとんでもなくマイナスな代物でして、ちゃんと決まるまで2年~3年くらいかかるのです・・・一族全員集まるのに時間がかかり、そしてほとんど宴会同然の会議を延々とやって、ようやく決定・・・という内容ですから。

分割相続は、当時の風習みたいなものでして、末子存続とともに実力主義社会なのが加わります。どういうことかといえば「トップの子がトップになるわけではない」というのもあるのです。なので、自分が得た土地を生前に分け与えておくのは、一種風習みたいなものなのです。国家と言う考え方が希薄な遊牧民族ならではですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご教示有り難うございます。
確かにフン族の歴史は闇の中で外部資料に頼るしかありません。

偉大な統治者が死亡すると、その後の後継者は質的に見劣りするものですが、ジンギスハンの場合は比較的に優秀な後継者に恵まれていたとおもいますが・・・

他の回答者の方へのお礼にも書きましたがクリルタイの風習がすべての問題の発端だったのですね。

お礼日時:2006/12/26 16:03

前の方も書いてますが、端的に言って、時代が違います。


またフン族は、民族系統が現在もよく分かっておらず
不明のままです。フンという名前の音から匈奴との関連が
昔から指摘されていますが、断定的な資料がないので
よく分からないのです。
もし匈奴か匈奴の中の一部族だと仮定すれば、
モンゴル諸部族と同一系統だった可能性はないこともないです。
ただ匈奴も蒙古系かトルコ(テュルク)系が諸説わかれており、
全然関係ない可能性も少なからずあります。
どうして遊牧民族についてこれほどわかっていないかというと、
彼らが文字記録をほとんど残していないからです。
また彼らが当時使っていただろう言語も死語になったために
自分達で伝え続けていた歴史が失われています。
歴史とは、文字文化であり、その意味では
遊牧民の多くは中世ぐらいまで先史同然だったわけです。

フン族も、ヨーロッパに侵入したグループはアジア系ではなかったようで
むしろスキタイと関連がありそうです。

チンギス汗の西征は、ホラムズとの貿易戦争がきっかけであって
ヨーロッパに侵攻する意図は全くありませんでした。
チンギス汗本人は西夏遠征の途中で死亡しています。
だから少なくともチンギス汗にはフン族の行動と先例は
何ら影響してないでしょう。
モンゴルでも文字文化がなかったので
知らなかった可能性の方が高いですね。

その後、ロシアのステップ地方に勢力を拡大するのは
三男のオゴデイ汗の時代です。
チンギス汗の時代の遠征は西端はクリミア半島あたりで、
汗の死亡で帰還しています。
またヨーロッパ遠征を行うのは、
チンギス汗の長子ジュチ(朮赤)の第二子バトゥです。
”バトゥのヨーロッパ遠征”として有名ですが、この中止も
オゴデイ汗が死亡して次の汗選びの大会議(クリルタイ)を開くために
バトゥらが帰還しなければいけなかったからです。

バトゥはモンゴル族のなかで当時もっとも武勇誉れ高い人物で
オゴデイの長子グユクと敵対関係にあって
トルイの長子モンケを大汗の座につけるべく争っていましたが、
外征で不在だったためにグユクに大汗の座を取られてしまいます。
しかしこれを機にモンゴル帝国全体が分裂状態になり、
以後、二度と統一されません。

中世においては分割相続は珍しくありませんが、
モンゴルの末子相続の仕来りは遊牧民独特のものと言っていいでしょう。
しかしこれらは統一王朝という観点からは非常にマイナスで、
分裂と対立を生む時限爆弾同然でした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳細なご回答有り難うございます。
やはりフン族とジンギスハンの間は脈絡はなかったとすべきですか。

私はジンギスハンにはかなりの版図拡大の意志ありとみていたのですが・・
遠征軍の編成がモンゴル以外の氏族主体というのは納得できます。

全てはクリルタイの問題であったのはお説のとうりでしょう。
有り難うございました。

お礼日時:2006/12/26 15:50

>この先例の伝承は同じ遊牧民のチンギスハンに何らかの影響を与えたでしょうか?



フン族のヨーロッパ侵入は、チンギスハーンよりも800年も前です。
おそらくチンギスはフン族のことなど知らなかったと思います。
たとえ知っていたとしても、フン族は原住地を捨ててヨーロッパに移動したわけですから、チンギスの場合と事情が全然違うので、影響はなかったと思います。

>しかし中部ヨーロッパに深く侵攻することなく中途で撤退しました。
これは何故でしょうか?

チンギスはヨーロッパには侵攻していません。
部下の将軍ジェベとスベエデイがロシアを侵しましたが、これはあくまで偵察行動でした。
二代目のオゴデイハーンの命令で、モンゴル軍は本格的にヨーロッパに侵入しましたが、中途で撤退したのはそのオゴデイが死んだからです。
軍を率いていたのは、チンギスの孫たちだったので、新しい皇帝を選ぶ会議を開くために、彼らはモンゴル本土へ帰還しなければならなかったのです。
その後は、モンゴル帝国内の帝位争いや、皇帝たちの興味が中国へ向いたことなどの理由で、ヨーロッパは救われました。
もしあの時点でオゴデイが死ななかったら、おそらくヨーロッパ全土は制圧されていたことでしょう。

>また彼は帝国を一括して子に残さず、幾つかに分割しました。
これはなぜでしょうか?

モンゴル族のしきたりです。
農耕民族にとっては土地を分割相続するのは考えられないことですが、遊牧民族はこの逆で、家畜を養い、増やすためにはなるべく分割するほうが有利だったのです。
チンギスは、皇帝である前に一遊牧民だったわけで、征服先での残酷なまでの殺戮も、重要なのはあくまで家畜の餌となる草原などの「土地」であって、邪魔な人間は一掃しようという発想から行なわれたことです。

なお、モンゴル族のしきたりでは、先に生まれた子供ほど遠い土地が与えられ、末子は親の土地を相続します。
長男ジョチがロシアを、次男チャガタイが中央アジア、三男オゴデイがモンゴル西部からイルティシュ川の地域、末子のトルイがモンゴル本土を相続したのは、このしきたりどおりだったわけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答有り難うございます。
フン族に文字による記録が乏しい事は承知していますが、口述による伝承があるかも知れないと思ったのですがやはり無理とするのが普通ですか。
同じ遊牧民で戦術、用兵が酷似しているのであるいはとかんがえました。

ヨーロッパ侵攻が途中で挫折した事情はお説のとうりですがジンギスハン自身インドに遠征中に死亡しており予定はあったのではと考えました。  彼の情報収集の準備ととれますから。
モンゴルの後継者選びのクリルタイが全ての予定を放棄させたのですね。
相続問題はジンギスハン自身はどうかんがえていたか想像の域をでませんが違っていたら面白いと思いました。
いずれにしても歴史はイフはないのですね。  

お礼日時:2006/12/26 15:38

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!