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仏道の世界での話なのですが、ヒトは六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻すると言われていますが、どのくらいの人数の割合でそれぞれの道を歩むことになるといわれてるのでしょうか。
また前世によって次の世界が決まるといわれてますが、ランクとしては天道→人間道→修羅道→畜生道→餓鬼道→地獄道でいいのでしょうかね

A 回答 (1件)

>>仏道の世界での話なのですが、ヒトは六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻すると言われていますが、どのくらいの人数の割合でそれぞれの道を歩むことになるといわれてるのでしょうか。


 難しい質問ですねぇ。我々も行ったことはあるのかもしれませんが、その時のことは記憶にないですかれぇ。実際のところ割合も統計が取れるわけでもないですから、なんともいえないところですなぁ。
 一般的には閻魔さんの裁判を受けてってことになってますから、そういったことをお話させていただきます。
 その裁判システムですが、五戒を中心に審議されるようです。そして裁判官は閻魔様だけではなく、閻魔を含めて七人の裁判官によって裁かれます。それは、
(1)、初七日・奏広王(しんこうおう)
(2)、二七日・初江王(しょこうおう)
(3)、三七日・宋帝王(そうていおう)
(4)、四七日・五官王(ごかんおう)
(5)、五七日・閻魔王(えんまおう)
(6)、六七日・変成王(へんじょうおう)
(7)、七七日・泰山王(たいざんおう)
の七人の裁判官になります。
 
 この七人のうち、(1)の奏広王は三途の川を渡る前に、とりあえずまず最初に書類審査をする裁判官である。

 次に第二審は、三途の川を渡った所にある(2)の初江王の裁判所である。この裁判所では、三途の川を渡る前に正塚婆(しょうづかのばば)もしくは奪衣婆(だつえば)と呼ばれるばあさんと、その亭主である懸衣翁(けんえおう)が、亡者から剥ぎ取った衣服を衣領樹という木に引っ掛けて、そのしなりで罪の重さを測った資料。また(1)の裁判所からの書類とを照らし合わせて、特に殺生についての審議が行われる。

 続いて第三法廷は(3)の宋帝王が猫と蛇を使って、邪淫(みだらな行い)の罪を裁く。こういった件に関しては、誰もがあまりはっきり話したくないようで、もじもじしてしまいます。そんなことをしているうちに、邪淫の罪がある男である場合は猫が近づきがぶっと噛み付き、女であれば蛇が下半身から身体の中に入り込み、罪が露見してします。

 さらに七日後、第四法廷は(4)の五官王の裁きが待っている。ここでは言動における悪を量る天秤が置かれていて、亡者を乗せ罪の重さを量る。そうして、今までの書類とてらし合わせ、たいがい「地獄行き」と判決を下すのが通例のようで、そういった亡者たちはあと七日間猶予を請う。今で言えば再審請求というやつであろう。

 続いて第五法廷は有名な(5)閻魔王である。いわゆる閻魔の庁には「浄玻璃の鏡」という、亡者の生前の罪を映し出すテレビのようなものがある。閻魔王はそれをもって審議するのだが、閻魔王は意外にも慈悲深い裁判官である。遺族の追善供養等を考慮に入れて、情状酌量してくれるケースも多い。
 なぜかといえば、インドの神話において閻魔はもともとは最初の人間であり、最初に死んだ者であるとされる。だからこそ彼は最初に死後の世界に到着したからこそ、彼がそこの王になるのは必然であったろう。そこから、いろいろあって裁判官という立場になっていく。もともとは人間である彼が人間に対して寛大な理由はそこにあるのかもしれない。

 何はともあれ、次の第六法廷ということになるのだが、ここにいる(6)変成王は(4)で使われる天秤と(5)で使われる浄玻璃の鏡の審査の報告にもとづいて、審査が行われる。

 そして、最後に第七法廷の(7)泰山王による最終的な裁きが下る。しかし、最後の判決といっても、今まで説明した王たちは仏の世界の幹部であって、本来全員「亡者たちを地獄に送りたい」とは思っていない。そこで、自分で選択させるという判決方法をとる。
 亡者に六つの門を選ばせる。その門はそれぞれ六道のでこかにつながっていて、亡者たちはどこにつながっているか知らされずにその門を選ばさせる。そして選んだ先が、その人の輪廻の先になる。
 なぜこのような、判決の方法をとるかというと仏教で言う「自業自得(自分の行為(業)にはそれなりの結果を得る)」ということである。
悪いことをすれば悪い結果を得て(悪因悪果)、その逆に善いことをすれば善い結果を得る(善因善果)のである。それは誰も逃れることはできないと考える、仏教の大原則がそこには現れている。
 こうして亡者たちは、次の生へと向うということになっている。
 今まで説明してきたのは、あくまで一般的な民話等とまじりあった仏教説話です。

 輪廻は仏教思想だと思われがちですが、輪廻のの思想自体はお釈迦様から生まれる前からあったもので、主体となる「アートマン」(ここでは霊魂とでも考えてください)が輪廻すると考えていた。お釈迦様自身は輪廻については霊魂的なことは認めず、その人の生前の行為(業)が輪廻を引き起こすとして、輪廻を倫理的生活を送る思想的根拠とした。それを、具現化したのが先に述べたお話ということでしょう。
 また各論を申せば、日本で浄土教と呼ばれる宗派はそういった裁判をくぐることなく極楽浄土へと亡くなった者を連れて行ってくれ、六道の外にある極楽浄土に生まれた者は二度と輪廻しないと説きます。仏教では六道からの脱することを解脱と呼び悟りの境地です。その思想を、極楽浄土という具体的な場所を定めて形成されたのが浄土教思想ということでしょう。 
ですから、
>>どのくらいの人数の割合でそれぞれの道を歩むことになるといわれてるのでしょうか。
という問いは、先ほど説明したように人それぞれの選択によるものであり、具体的に示されてはいないと思います。


>>また前世によって次の世界が決まるといわれてますが、ランクとしては天道→人間道→修羅道→畜生道→餓鬼道→地獄道でいいのでしょうかね。
という問いは、あっていると思います。しかし、どの世界も煩悩の世界であることは変わりません。
 六道は三界に別けられます。三界とは、欲界・色界・無色界の三つの総称です。凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を三つに分けたもので、悟りとはこの三界での輪廻から解脱(抜けだすこと)をさします。
 まず、欲界は淫欲と食欲の二つの欲望にとらわれた衆生のいる世界。六欲天から人界を含み、無間地獄までの世界をいをいい、六道の天の世界の下のほうから、人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を指す言葉です。
 色界は、欲界の二つの欲望は超越したが、物質的なもの(色)にとらわれた衆生が住む世界です。
 無色界は、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界です。
 しかし、 この三界はせべてさとりの世界ではありません。全てが、苦海なのです。六道もランクはありますが今説明したように三界のうちにあるものであり、悟りということではランク外の世界であるかもしれません。仏様から見れば「どんぐりの背比べ」ランクがあってないようなものでしょう。

 長々書きましたが、あてはずれな答えかもしれませんが、参考にしていただければ幸いです。
  合掌 南無阿弥陀佛
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