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仏教を学び始めた者ですが、仏教信者が帰依すべきものとして、仏・法・僧という「三宝」があることを知りました。このうち仏と法については帰依する相手(対象)としてすんなり理解できるのですが、「僧に帰依する」の意味がいま一つ分りません。「僧」というのは僧侶個人のことではなく、出家者の「集団」を指す(指していた)といわれます。であるならば、「僧に帰依する」というのは出家者が自分の所属する団体に「帰属し、忠誠を誓う」という意味に捉える、即ち三帰依というのは元々出家者としての態度・心構えだったのではないかと解釈するのが正しいような気がするのです。それを現在は仏教者であれば誰でも(在家信者でも)、仏・法に加えて僧にも帰依(信奉・尊崇)すべきであると、「僧」が教えているような印象を受けて、何となく違和感を覚えます。「僧(サンガ)」が団体ではなく、個人や僧職に就く人一般を意味するのなら、在家信者や一般人がそれを信奉・尊崇するという行為は腑に落ちます。ただ、この言葉が現代仏教の「宗派」という意味に使われているならまだしも、あくまでインドで釈迦入滅後仏教が発展段階にあるときに存在した仏弟子の集団を意味していたのなら、これへの「帰依」というのが何を意味する(していた)のかいまいち理解できません。
「僧への帰依」が何であったかの正しい解釈に加え、三帰依というものが何時ごろ誰によって言い出されたものか(何らかの経典などに謳われているのか)も併せてご教示願えればありがたく思います。

A 回答 (6件)

確かに三宝帰依のなかの僧帰依はわかりづらいですね。


仏帰依、法帰依は同じ意味ですね。出家僧であれ在家であれ、帰依する対象は仏ですが、仏陀と法は一体ですので帰依も明快ですね。さて、僧帰依の意味ですがこれは僧個人に対する帰依でないことは明らかですね。
なぜなら、仏教は仏に帰依するから仏教と呼ばれるからですね。では、僧帰依とは何かといえば、僧団の規律を守るという意味の帰依ですね。僧団における戒律を守ります。という意味ですから、釈迦時代からあったことです。
私は、ブッダに帰依します。私はブッダの教えに帰依します。私はブッダの創られたサンガーの規律に帰依します。という意味で三宝帰依があるのですよ。
サンガーの規律とは、当時の戒律のことですね。在家であれば五戒ぐらいなものですね。
これは釈迦時代から現在に至るまで普遍のことですね。
鎌倉時代以降、後代の解釈経典に帰依や僧帰依が間違って独り歩きしてますが、仏教で帰依する対象は仏しかないのですね。仏は宇宙の法の化身ですから、仏と仏の法は一体ということなので、仏のいない時代は仏の法に依拠して生きなさいということだけですので、帰依はあくまで仏なんですね。
これを違えると仏教ではありませんね。仏教ではない仏教詐称の宗教が蔓延してますけど、真なる仏教弟子は真なる帰依で始まることに変わりはありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やっと自分の探していた答に出会えたように思います。
三帰依という概念が仏教初期の段階から存在し、その対象として「仏」「法」に続いて「僧団」をあげているということは、その僧団自らを維持・発展させるための手段として、それに属する出家者の立場から産み出されたものであったというわけですね。
我々現代に生きる在家信者が教えられた「三帰依は」、「僧」という同じ言葉を僧侶個人または僧侶一般にすり替えたものであったことを理解しました(それはそれで意味がないわけではないですが)。

お礼日時:2013/04/29 16:05

こんにちは


回答になっているかは解りませんが
仏様が「法」を最初に悟ったわけですが
このままだと仏教ではなくて仏様一人の思想であり
他人に教えて初めて教団として成立します

仏様ー>法ー>教える人

という構図としての意味合いが強いきがします
(この3つがあって初めて仏教となる)
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ここらへんの事情は以下の本にわかりやすく書いてあるので


一読をおすすめします。

「律」に学ぶ生き方の智慧 (新潮選書) 佐々木閑
http://www.amazon.co.jp/dp/4106036754
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この回答へのお礼

佐々木閑先生の「律」についてのお話は、唐招提寺での講演会で聞いたことがあります。
ご教示頂いた本も読んでみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/29 22:25

法とは正しいということ、仏とは目覚めるということ、僧とは清浄であるということ。

と、六祖壇経には書いてあります。そう考えるとわかりやすいでしょうか?
サンガとは清らかな集いのことと考えられますが、清らかとはどういうことかを思索すると、サンガがどのようなものであるかが想像つくのではないでしょうか。
私見です。
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>仏・法に加えて僧にも帰依(信奉・尊崇)すべきであると


聖者に対して供養を行うと功徳があるという考え方があります。
(もちろんお釈迦様の時代でさえ僧侶全員が聖者ではありませんけどね。)

聖者の階梯に入った僧侶=福田とみなして僧侶を供養することにより
徳を積み、来世は今生よりも良い所に生まれ変わるように。って事で
タイなどの現代の上座部仏教の国でも考えられていますね。

仏教の聖者は基本的に4段階あって
・須陀洹(シュダオン)=7回生まれ変わるまでに輪廻から解脱する。
・斯陀含(シダゴン)=あと1回だけ現生に生まれ変わる。
・阿那含(アナゴン)=この世にはもう生まれ変わらない。死後に解脱。
・阿羅漢(アラカン)=現世で輪廻から解脱した人。仏陀と同じ境地。

後期の大乗仏教では付け足しで菩薩の境地とかが増えていますが
仏教における聖者の階梯は基本的にこの4つです。

一番最初の須陀洹(シュダオン)は預流(よる)とか正定聚(しょうじょうしゅ)
とも言います。浄土信仰では正定聚となり死後に極楽浄土に転生して
そこで成仏(輪廻からの解脱)するということになっています。

つまり凡夫のまま死ぬと極楽往生は確定していないって事なんですが
現代の浄土真宗では「門徒は全員死んだら極楽浄土行き」
とビッグマウスで拡大解釈していますけどねw

日本語で勉強したいのなら春秋社の原始仏教に関する書籍が判りやすいでしょう。
中村元さんの著書が多いです(めちゃくちゃ高いけど・・・)。

http://www.shunjusha.co.jp/search_result.php?key …

この回答への補足

仏教の聖者に関して詳しいご解説ありがとうございます。
質問の仕方が悪かったのかも知れませんが、私の質問の趣旨は、帰依の対象としての「聖者」が何故「僧-サンガ」という「集団」として表現されているのか、ということなのです。在家信者なり一般大衆から信奉・尊崇される対象ということであれば、聖者なり仏弟子一般を表すことばの方が相応しいのではないか、それを敢えて集団・団体を表す言葉にしたのは、集団のメンバーである出家者の勤めとして「三帰依」という言葉が生まれた本来の趣旨なのではないかということなのです。 「僧」という言葉がいつの頃からか「出家者個人」をも指す言葉になったのが混乱の原因となっているのではないかと思われますが、元々「僧」は、それに所属する複数の出家者が、各々自己の悟りを得るために修行に励む「集団」を指す言葉であったわけですから。

補足日時:2013/04/28 16:30
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三帰依における僧とは「僧伽(そうぎゃ→サンスクリット語の


サンガの音写)」のことで、『仏陀の教えを実行し、その教えの
真実であることを世間に示し、あわせて弟子を教育し、教法を
次代に伝える。』集団のことを意味します。
布教に勤しむ方々を「拠り所」としなさいということですね。

# 帰依を「信奉・尊崇」と訳してしまうと『上から目線』感が出て
# しまって良くありません。Wkipedia の「帰依」の項にもあるよう
# に、「拠り所」と解釈したほうが良いでしょう。
# 似たような言葉でもイメージが変わるので重要です。


三帰依の始まりについては、ブッダが存命のころからあったようです。
このあたりは以下の回答が詳しいです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

この回答への補足

「帰依する」を「拠り所にする」と訳することについては、なるほど!と納得しました。ありがとうございました。
ただ、なぜ対象を「僧=僧伽」という集団にしたのか、個人を含む仏弟子一般ではダメだったのか、についてはまだ理解できません。 仏教発展の初期段階でこの言葉(三帰依)が存在したのであれば、現代の我々が気が付かない、何か深い意味が他にあったのではないでしょうか。

補足日時:2013/04/28 17:11
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