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同時代の他の戦闘機と比べて零戦は優れた戦闘機だったのでしょうか?
だいぶ昔、NHKの特集番組で零戦はすごく優れた戦闘機だった、というようなことを放送してましたし、最近もそんな話を聞きました。しかし実はそうでもないよという話もあるみたいで、実際のところはどうなのでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

零戦は優秀な戦闘機だったか   答 否



理由 1 量産性
 言うまでもなく、航空戦では数がモノを言う。
 製作に高度な加工を必要とする航空機において、沈頭リベットや軽量化用肉抜き穴等、非常識なほどの工数の増加を必要とするのは、量産性を無視している、駄作としか言いようがない。

理由 2 防弾性
 「機体の軽快さで敵弾を避けるので不要」「限られた発動機の性能の中で、他の必要な性能を得るためには仕方がない」との発言がありますが、ならば「そのような機体は作れない」と言うしかないのです。

理由 3 性能
 零戦の特徴として、航続距離が挙げられています。
 しかし、操縦するのは人間です。
長距離を飛行して、空中戦を戦い、神経をすり減らして、更に帰投するのです。
その途中、機体の不調、戦闘での損傷・負傷、疲れから来る居眠り等で犠牲になるパイロットも多数に上ったと思います。

 零戦に限らず、「仕方がなかった」「当時の環境では、最善の選択だった」等々の発言をよく聞きます。
しかし、ドイツを始めとした諸外国からの技術導入の例は、余りありません。
加工技術の未熟さゆえ、製作できないし、できても整備が難しいという理由からです。
その実、陸軍による徴兵は、熟練工や技術者も、見境なく行われていました。
明治期の日本は、「戦争に勝つため」、最善の方法・手段を追求しましたが、昭和期の日本は、今の日本と同じく、自分勝手にやっていたということですね。
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この回答へのお礼

だいぶ投稿も落ち着いたみたいですね。そろそろ締め切りたいと思います。ご回答頂きました皆さん、たいへんありがとうございました。

私なりの落ち着きどころをごく簡単に書きますと、やはりそのままでは他の戦闘機より特別優れていたとは言いがたいと思います。
http://www.luzinde.com/とか
kawakawakawa13さんの回答などから

詳しいことはわかりませんが、陸軍の隼のようにそれなりに改良されていった戦闘機もあったようですし、零戦が同じ道を辿れなかったのが悔やまれます。

最後になりましたが、当時、零戦とともに散っていかれたご英霊の皆様に対しまして、ご冥福を祈りつつ本質問を終えたいと思います。

お礼日時:2007/02/12 18:49

ちょっと補足・・・というかおかしなところがあったので。



>欧州と日本の工業水準はいまの東南アジア諸国くらいの状態ですから、その程度の技術力、工業力でよくあれだけ対抗できる戦闘機を開発できたとはいえます。


欧州と日本の工業水準の差はいまの日本と中国よりもっと離れており、当時日本の工業水準はいまの東南アジア諸国くらいの状態ですから、その程度の技術力、工業力でよくあれだけ対抗できる戦闘機を開発できたとはいえます。
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まあ、当時の(いまでもほとんどないですけど)アジアで航空機を自国で作っていたのは日本くらいなものなので、アジアでトップクラスの性能なのは当たり前なのですけど・・・


なお、F8Fは設計思想的にはFw190に近い機体でして、ゼロと戦うためかといえばちょっと怪しいですね(終戦時の評価ではゼロよりも隼のほうが強いと連合軍パイロットには言われていたので)。
まず、参考URLは零戦のことをボコボコに言っているサイトは、もうご存知のようですが、なかなか良く当を得ていると思います。

零戦の性能を考えるには、いろいろな側面からあたらなければなりません。
・格闘戦と一撃離脱戦の戦術的優位性はどちらにあるか?
これは、一撃離脱に完全に分が上がります。ドイツのエースには格闘戦の天才もいましたが、やはり撃墜数では圧倒的に一撃離脱であり、また、究極的に突き詰めると格闘戦は「相手が乗ってこなければただ低速で飛んでいるだけ」という戦法です。つまり格闘戦は、戦闘の主導権を取れない戦法なのです(相手が乗ってこなかったらそれまで)。

・防弾性
これは、零戦には皆無です。逆にF4Fは桁外れに硬く、穴だらけになってもパイロットは死にません。この「被弾してもパイロットは死なない」というのは大きいです。戦闘機を作るのに最も時間のかかる場所はなにか?という問いに対して、これはパイロット以外はありえません。戦闘機本体は設計から4年あれば飛ばせましたし作るだけならばそれこそすぐに作れます(材料さえあれば)。空母は3年あれば何とか建造できます。しかしパイロットは練習生からはじめたとしても数年、実戦を経ないで熟練パイロットになるには6年、いやもっとかかります。そして、熟練させる近道である実戦は、落ちて死んだら訓練にもならないのです。
ドイツの機体は日本よりははるかに考えられていましたが、バトルオブブリテンでは海を越えての戦闘となったため、落とされた場合パイロットが回収できない(即捕虜)という問題がありました。
ちなみに、結局のところドイツエースが桁外れの戦果を残しているのはその機体性能、出撃頻度もそうなのですが、落とされてもなかなか死なないのが大きい。ドイツのエースであり、世界2位の撃墜数をもつバルクホルンなんかは、初撃墜の記録は120回目の出撃であり、その前に敵に2回落とされていますから、もしこれが日本軍のようにほとんど撃墜=死という構図だったら、彼は0機撃墜でその生涯を終えることになります。なお、彼は総計9回落とされています。

・発展性
これは、もはやノートパソコンというより家庭用ゲーム機の世界で発展性は0です。同じ陣営の機体であるBf109、Fw190などが通年改良を続けられ、自国の最期まで連合軍の機体と張り合ったのとは対照的に、零戦は42年の半ばから急速にチープ化しました。
これは工業技術力に起因するところも大きく、大馬力エンジンは作れないし第一積めない、新しい機体をつくるにも技師も工場も生産に手一杯で余裕がない。機体の互換性もなければ資材もない。こんな状態ですから。

・通信技術
現代ではエイワックスとよばれる、情報を統制し部隊に適切な指示を与えるための機体が存在します。それほどまでに戦闘における情報の相互交換は重要です。
しかし、日本軍の無線はというと・・・通じないんです。近づけばとかそういうレベルではなくて雑音が酷すぎて。なので主な意思疎通は手旗。でも手旗なんて戦闘中に出来ませんから、実質的にはだれとも意思疎通できないわけで、サッチウィーブなんか到底無理です。結局これも技術的遅れですね。

・相手戦闘機は100%の力を出せていたのか?
これは、出せていません。とにかく日本軍機の情報が少なかったのも要因なのですが、南方戦域では、欧州製の機体は高温多湿ではいろいろと不具合が多かったのです。最たるものはモスキートの話ですかね。あの機体は、ヨーロッパでは、夜間戦闘に護衛に偵察に夜間爆撃にといろいろ多岐にわたって活躍したのですが、南方戦線では対して活躍できませんでした。これは、機体が腐ってしまうのですね。あの機体って木製ですから、湿気たところにあれば腐ります。ほかの機体もいろいろと不具合はでたようでして、さらに搭乗員の錬度不足などもあいまって、損害が酷かったのです。

まあ、いろいろとボロボロに言われるゼロですが、当時、欧州と日本の工業水準はいまの東南アジア諸国くらいの状態ですから、その程度の技術力、工業力でよくあれだけ対抗できる戦闘機を開発できたとはいえます。
設計についても、アレ以上は望むのは無理というか無茶ですから、やはりその性能は世界の傑作機に入れても良いのではないか?と思います。
ただし、マスプロ性が酷いというのはやはりあります。これは、日本軍機全体にいえるのですが、航技廠製の機体はとにかく鋲を使いすぎたり、零戦についてもいまひとつ生産性が考えられていなかったりと、このあたりは酷かったです(Bf109と鍾馗の比較を担当した人物が後に「鍾馗はいたずらに工程を増やすだけ」という評価をしており、Bf109の生産性を評価しています)。

しかし、機体性能より錬度の高さが大きかったという評価も含めて、ゼロ戦が太平洋戦域の航空戦において、半年程度のわずかな期間であったとはいえ主役であったのは、事実です。

参考URL:http://www.luzinde.com/meisaku/zero/1.html
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開戦当初、アジアにあった戦闘機では最強でしょう。


イギリス軍は、ドイツの優秀な戦闘機に対抗できないバッファローなどの二線級戦闘機をアジアに配備していました。アメリカ軍が配備していたのも、P39やP40という旧式機。日本の複葉機になら、充分対抗できるとの、誤った判断があったのでしょう。
これに対し、機体性能で優る零戦に、中国大陸でたっぷり飛行経験を積んだ熟練パイロットが乗り込むのですから、圧倒的でした。
ただし真正面から撃ち合えば、欧米の旧式機にも勝てません。優れた運動性能を活かし、敵の死角に回りこんで撃墜するのが、零戦の戦い方です。
ところが、ミッドウェー海戦後に考案されたサッチ・ウィーブという戦法をアメリカ軍が採用すると、零戦の優位が崩れます。2機1組で互いの死角をカバーするサッチ・ウィーブを破る戦法を、結局、日本は編み出せませんでした。
また戦争後半には、軍需工場の熟練工まで徴兵されるようになり、女学校の生徒などが動員された結果、飛ぶたびにあちこち壊れる欠陥機が大量生産され、戦地ではベテランほど、旧型機に乗りたがったとか。
なお、捕獲された零戦を調査した、アメリカのメーカー側の結論は、「設計思想が違い過ぎて、あまり参考にならない」だったそうです。それでも零戦の性能を完全に凌駕すべく、F8Fベアキャットが開発されましたが、実戦投入前に終戦となりました。戦争が続いていたら、紫電改や烈風を圧倒していたでしょう。
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最近ホンダがビジネスジェットを開発して驚きが広がりましたね。

同じサイズで2割大きいキャビンと3割の燃費向上です。
まさか自動車会社があんなに性能のいい飛行機を作れるなんて誰も考えていなかったでしょう。

ゼロ戦も同じです。
当時の日本の国力では、複葉式の古い戦闘機をノックダウンで生産する能力しかないと思われていたところに、当時としては最先端の戦闘機を開発しようとして、成功したのが零戦です。
最先端設計であった例を挙げると
・沈頭鋲(最初ではない)
・引き込み式主脚
・超々ジュラルミン
などで、風洞実験で最適な形状をさがす実験や、徹底的な軽量化なども欧米でもやっと導入し始めた手法で、それをいち早く取り入れ実際の戦闘機を設計したのです。

完成した当時は、確かに零戦に勝る性能を持つ戦闘機はどこにもないといってよく、また当時の日本の国力を考えれば、ホンダがジェット機を作る以上の驚きが世界中にあったはずです。(機密扱いでしたけど)
その後、しばらく戦闘性能で零戦の能力を超える戦闘機は出てきませんでしたし、その後の各国の戦闘機は零戦の能力を徹底的に解明してそれを上回る性能のものを作ることになりました。

つまり第二次世界大戦初期のスタンダードは零戦だったといっても言い訳で、エンジン馬力の非力さから来る欠点などもあったものの、非常にすぐれた戦闘機であったことは間違いないのです。

日本の不幸は、国力が低く零戦以降の航空機を開発する時間・能力が限られたことで、本来なら大戦末期には後継機種が登場していなければいけなかったのにそれが出来ず、欧米の最新鋭の機種には勝てなかったことです。
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何をもって「優れた戦闘機」とするかで評価は変わるものではないでしょうか?



例えばBf109は防弾が無く、7.7mmでも落とされるから人命軽視だとか、航続時間が短いからドイツ本土防空戦で大いに苦労した。初期こそ連合軍機を圧倒し戦果を挙げたが、性能も次第に連合軍機に抜かされ勝てなくなったから「優れてない戦闘機」。
F6Fは2000馬力積んでいるくせに速度が遅いとか、ブローニングM2の機銃は重いし発射速度も遅いしよく壊れるから「優れてない戦闘機」であるともいえるし、両者とも良い所をだせば「優れた戦闘機」にすることも可能でしょう。

質問に簡潔に答えるならば、空戦するならF4Fとどっこいどっこい、F6Fだとかなりきつい、そんな戦闘機ではないかと。
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個別には、詳細に皆様が書かれているので、勝手にまとめると<(おい どんな権利があるんだ)



開戦時は優秀
次第に比較劣位(その理由は拡張性のなさ)

単純にハードウェアとして戦闘機を評価することはできず、その運用と絡んで優秀か優秀でないかがきまる。
※ ガダルカナル戦のような運用をすれば、ハードウェアが優秀でも、長距離移動で疲れ切り、戦域での滞空時間が短くなるので、勝てるはずがない。

今出ている歴史群像の付録が帝国陸海軍戦闘機ガイドとなっておりました。
その記事で、目から鱗が落ちる内容がありました。
「一一、二一」型が、主力艦の主砲射程の延伸により、目視による着弾観測ができず、着弾観測機が戦域を行動するためには、戦闘機が長時間戦域に滞空していいる必要があった。それで開発されたのが本機である。とのこと。

この回答への補足

開戦当時に他機と比較して特に優れていた訳でなく、開戦当初の戦績は熟練したパイロット達によるところが大きいとする意見(http://www.luzinde.com/)もあるようです。

補足日時:2007/02/09 11:38
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零戦は確かに性能は良かったのですがそれは兵器としての拡張性を犠牲にしたからこその話です。


どういうことかと言うとパソコンに例えると発売されたばかりのノートパソコンを零戦だとすると他国の戦闘機は大きくて重いデスクトップパソコンの立場にあります。勿論零戦は発売直後は最新のパーツを小型化して好評を得るのですがご存知の通りノートは拡張性に乏しく1年もすると旧式化する性能競争には追いついていけません。一方でデスクトップはパーツの汎用性が高く組み込むにも内部構造的に余裕がありますからお金とユーザーの覚悟さえあれば常時パーツを交換することで最新でありつづける事も可能です。
これと同じことは当時の航空機にそのまま当てはまります。零戦は当時の軍部の仕様要求に応えるべくその拡張性というかリソースを限界まで使う事であのスペックを出しました。しかしそれは兵器としての成長は殆ど望めない程に完成されてしまった事を意味します。しかも当時は今よりも技術革新のスピードは速く、現在も同じノリの世界はPC業界位です。
この日本の技術傾向は今も当てはまります。例えばウォークマンだったり280馬力規制中の日本車だったりしますね。日本の技術の粋とは実に小型・軽量化がその一つなんですがこんな所にも出ています。


少し分野は違いますが同じ時代に成功した別の分野があります。ドイツの戦車で3号戦車と4号戦車の関係です。簡単に説明すると3号は対戦車戦闘を前提に機動力を重視し小型軽量の主力戦車として、4号は拠点攻略及び歩兵との連携を前提とした3号の支援戦車として開発されました。3号は小型・軽量を重視した為に装甲の増加や主砲の大口径化に対応出来ませんでした。一方で4号はその目的の為か偶然にも内部構造に余裕があり次々と装甲の増加や主砲の大口径化に対応できました。まぁ次世代の主力戦車の開発が難航した事もあったのですが・・・それはさておいてもWW2前の初期型とWW2末期の後期生産型では装甲の厚さや主砲のサイズだけで見ても殆ど倍にまでパワーアップされています。ここまでくると中身はほぼ別の戦車とさえ言えるでしょうね。

このように兵器の優越とはスペックのみならず拡張性や信頼性もまた大きな部分を担う事が分かるかと思います。


余談ですが自衛隊の90式戦車は予算や実践経験の無さは勿論の事この辺りの発想の犠牲になっていないいか心配です。
・・・プラモデル買うときには悩まなくて済むのは幸せなんだか不幸なんだか微妙なんですけどね^^;
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以下は私見です。


よく言われる長い航続距離ですが、私はこれを「欠点」と考えます。零式戦の長い航続距離、これが現代ジェット機であれば「優秀」だと言えるでしょう。しかし、速度の低いレシプロ機であればいたずらに長時間の作戦行動をパイロットに強いる事になり、戦闘以外での損失が多かったのではないかと想像します。

現代でも「エコノミークラス症候群」などが言われていますよね。零式戦の座席では旅客機よりも健康によくなかったのではないでしょうか。その上さらに戦闘空域に到着して空戦。その後にまた往路ほどの時間をかけて帰投する訳です。

私の考えですが、ここまで「バランスの悪い戦闘機」はお世辞にも優れたとは言えないと思います(欠陥機とまではもうしませんが)。
一点豪華主義は日本人の好む所ですが、私は「それは違う」と思っています。

この回答への補足

人という点で捉えるならば、人が操る機械ですからその操作性の善し悪しも性能の一つだと思います。1番目の回答者urstoさんご指摘のサイトにのっていたサッチ少佐の言葉のように零戦を操縦するのに熟練者を要するのであれば、その分だけ他の戦闘機よりも劣っていたという判断も出来るかと思います。

補足日時:2007/02/09 09:08
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21型の時は優勢でした。



32型になり、エンジンのパワーアップと翼端を切り詰めて速度アップ
を計った結果、
翼端からカルマン渦(乱気流)が発生し、航続距離が一気に減少しました。
これをラバウルに集中配備します。

この時、ガダルカナル戦が起き、32型は参加出来ず、航続距離のある21型をかき集めます。

32型の翼端を丸い形に戻し、22型として正式採用します。

この頃から、

航続距離は低迷し、
馬力の上昇はありましたが、
装甲と武装強化で相殺されてしまいました。

最終的には、マリアナの七面鳥討ちと言われるようになります。

三菱は、元から翼端を切り詰める事に反対していました。

また、翼内燃料タンクを増加せよとの命令にも反対し、
胴体タンク(エンジンと操縦席の間)を増加し、
機銃弾丸数を減らす提案をしますが、全て却下されます。

海軍の命令通りに作成しました。
三菱の技術陣の提案は殆ど通らなかったのが実情です。

水上戦闘機の強風を紫電にした川西も、
視界の悪さ、長い脚の折損事故から、

紫電を改造したいと強く進言しますが、
海軍は、難色を示します。

烈風の開発が遅れたので仕方なく改造認可したのが
紫電改です。

これも、たまたまエンジンの開発が追いつき、
機体とエンジンのマッチングが良く
抜群の性能を見せたので量産に踏み切ったのです。
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