dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

前にも同じ様な質問をして今回も似たような
質問になってしまいますが、宜しければご意見
よろしくお願い致します。

仏教の般若心経に色即是空と言う言葉がありますが
前回の質問で頂いた回答などで、ある程度自分なりに
考えられるようになりました。

では般若心経では五感や人間の欲についてどのように
考えているのでしょうか??
人間を物質的に見れば1秒1秒、変化し常に同じ時は
ありませんし「色=空」だというのは良く分かります。
ビルの建物も細かく見ればカビが出来たり腐敗して形を
変えたり水が氷になるように圧力をかければ建物は崩れて
しまいますし実体がないと考えるのも納得は出来ます。

人間の意志についても前回頂いた回答で自分なりに
気持ちも時間がたてば変わるかもしれないし絶対と思って
いた事がそうではなくなる事もある。
と解釈しているのですが五感や人間の本来持っている欲求と
言うのは生まれながらにして先天的なものですし人間には
絶対になくならないものだと思います。
なので五感や欲求と言うのは実態があるとしか今は考えられないの
ですが皆さんは五感や欲求も「空」であると考えているのでしょうか??
五感や欲求を物質の例の様に原子や粒子と同じものと考えれば
分かりますが何か違う気がします…

宜しくお願い致します。

A 回答 (12件中1~10件)

心は一瞬一瞬変化生滅してると思いますよ。



怒ったり、笑ったり、悲しくなったり・・・
常に忙しく変わり続けています。

どれがあなたでしょう?決められないとおもいます。

原因があって結果がある、その結果が原因となり結果が生まれる・・・・
心も変わり続けます。取るに足らない・実体が無い=ドゥッカ=苦=空だと思いませんか?

五感も常に一定の変わらない刺激が永遠と続くなんて無いでしょう。

欲もも同じ。

それぞれ癖があってそれを「私がある」と勘違いしている。(有心)

全ては取るに足らない・実体が無い=ドゥッカ=苦=空でしょ?

うまく話せたかわかりませんが

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅くなってしまい申し訳ありません。

すごく参考になりました。
確かに食欲も五感も常に一定だとは限り
ませんね。
同じ食べ物でも味覚が違う時もあります。
やはり五感や欲も状況によって変わると考えられますね

ありがとうございました

お礼日時:2007/03/23 16:28

#8です。


 御礼有り難うございました。

「人間は皆いつかは死にますし空だと私も思います。そう考えると欲も死と同時になくなる・・・と言う事でしょうか??」

 とのことですが、人間は「死ぬから空」なのでなく、「生きていても空」なのだと思います。
 「欲」は、人の「顛倒夢想」から湧いて出てくるもので、もともと無いものなので、生死は関係ないですね。(たぶん。)では。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

返事が送れてしまい大変申し訳ありません。

顔倒夢想という言葉は始めて聴く言葉で
自分で考えてみたいと思います。

回答本当にありがとうございます

お礼日時:2007/04/18 21:36

#6です。



>これも五感や欲は状況によって変化するし一定ではないという事でしょうか??

確かに五感も欲も情況によって変化するとは思いますが、それは、色即是空とは関係ないと思います。例えば、美しい花もやがて枯れ散っていくとか、臭い匂いも慣れてくると感じなくなるとか、年とともに欲の対象や内容も変わってくるとか、そういう話ではないと思います。

要は、同じものでも、見方(観点)が変われば意味が変わるということだと思います。「色」とは既に出来上がった見方を通して見たこの世界のことで、「空」とは、既存の見方に捕らわれず、自由な心で創造的に見たこの世界のことだと思います。同じこの世界ですが、「心にとっての意味」が180度違うということです。「空」とは何もないことではなく、「まだ、実現されていない可能性に満ちている」ことだと思います。

「ものごとは、常に変化して、栄華を誇ってもやがて衰退する。あーむなしいなぁー」というのは、常識的な見方で「色」の観点だと思います。それに対し、「この世界は日々新しく生成され、常に新しい可能性に満たされている」と見るのが「空」の観点だと思います。「空」は最高に前向きの観点だと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

返事が遅れてしまい大変申し訳ありません。
ありがとうございます。

自由な心で創造的にみた世界と言うのは
難しいですね・・・
まだ、ちょっと分からない段階です。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/18 21:34

No.9です。

誤記を訂正します:
食料がいつでもあって「食欲でてくる前に」食べ続けるという縁によって食欲がない状態がない状態が続く。
    • good
    • 0

「空」=縁起の法です。


縁によって五感が生じ、縁によって五感が存在し、縁によって五感が滅し、縁によって五感がない状態となる。
縁によって欲求が生じ、縁によって欲求が存在し、縁によって欲求が滅し、縁によって欲求がない状態となる。
五感も欲求も実在しない、仮に存在するものである。・・・ということです。

手が火に近づくという縁によって熱い(五感の1つ)と感じはじめ、手が火に晒されているという縁によって熱いと感じが続き、火が消えるという縁によって熱いという感じなくなり、火がないという縁によって熱いと感じない状態が続く。

食料がなくなるという縁によって食欲が生じ、食料がない状態が続くという縁によって食欲が続き、食料が手に入って食べるという縁によって食欲がなくなり、食料がいつでもあって食欲がなくなる前に食べ続けるという縁によって食欲がない状態がない状態が続く。

このように、五感も欲求も、実在せず(永遠に存在するものでなく)、変化し、空です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅くなってしまい申し訳ありません。

私も、このように欲や五感も外からの影響で
常に変化すると考えるのが1番納得できます。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/23 16:41

こんばんは。



 「皆さんは」と呼びかけられているので、お邪魔しようかと・・・

 人のあり様が空である以上、五感・欲求といった人に付随してくる事象も、当然「空」だと思っています。
 少なくとも、空思想においては、そう考えられているものと思っているのですが・・・

 空思想それ自体は、何事かを肯定したり、否定したりするものではないと思っていますが、物事を空だと考えていない人々にとっては、それは「否定」となるわけです。
 そういう意味で、空思想は強烈な全否定思想という側面を持つことになり、とくに般若心経では、ムームーとやかましい(?)仏教のナッシング教的(??)教理が展開されています。
 空思想は、核爆弾並みの破壊力でもって、あるいは日本刀の切れ味とナタの打撃力を併せ持って、人の観念を粉砕し全否定する強烈な一撃を繰り出してきます。(かなり喰らいました。)

 自分の捉え方は、五感や欲求が人間に絶対なくならないものかどうかということには関係なく、人間自体が「空」なのだ、という感じでしょうか。

 老婆心ですが・・・般若心経は仏教を知るという点においては、案外と不適なお経かなと思っています。
 内容がどうこうとか、難・易とか、そういう問題ではなく、般若心経だけで知り得ないことが多過ぎること、この経の解釈がばらばらであることがネックになるかなと。
 何が正解というものでもないと思うので、自分に合うアプローチや解釈を探し出すことができれば、よいきっかけになるとは思うのですけど・・・いらないことを申しましてすみません。では。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅くなってしまい申し訳ありません。

人間は皆いつかは死にますし空だと私も思います。
そう考えると欲も死と同時になくなる・・・と言う事でしょうか??

参考になりました。
ありがとうございます

お礼日時:2007/03/23 16:39

とにかく知的保留をしてください。


色=空でもありません。
これでわかったら、大乗経典や原始仏典の意味がなくなります。
聖徳太子も経典について講義をしているように大乗経典やそれらの解説書には真理が書かれているとは思います。ただ難しいかもしれませんが、知らないよりはいいと思います。(仏教に興味があるならばですが)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅くなってしまい申し訳ありません。

確かに知識不足なので勉強してみたいと
思います。
ありがとうございました

お礼日時:2007/03/23 16:34

五感そのものは中立ですが、五感は集まることで「意味」をなし、その「意味」が「心」を規定します。

「色」とは常識や我欲により「意味」付けられた現象であり、「空」とは常識や我欲を離れ創造により「意味」付けられた現象だと思います。五感も欲求も物も無くなることはなく、ただ、その「意味」が変わるということだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅くなってしまい申し訳ありません。

これも五感や欲は状況によって変化するし
一定ではないという事でしょうか??

回答ありがとうございます

お礼日時:2007/03/23 16:32

五感や欲求【という存在そのもの】は実態(事実)でしょうが、「欲求A」が実態とは言えないかもしれません。



ある事象に対して欲求Aが芽生えたかと思うと、その時の精神状態によっては、同じ事象に対して欲求Bが発生することもしばしばあります。
欲求0に取って替わることも無いとは言えないでしょう。
この意味で欲求0(あるいは感覚0)は虚無と言えるでしょうし、「空=虚無」でしょう。
欲求Aは空となり得るし、空はまた種々の欲求そのものとも言える。
ということになると思います。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅くなって申し訳ありません。

確かにその通りだと思います。
精神状態などが欲や五感に影響を
及ぼすと考えれますね。

ありがとうございました

お礼日時:2007/03/23 16:30

[五感や欲求も「空」であると考えているのでしょうか]


おそらく「空」の意味がわからないからこのような混乱がおきるのですね。まず「色」ですが、これが肉体生命をあらわすことは理解できるでしょう。肉体に依存するものが「五感や欲求」ですね。だから肉体=色=五感や欲求 は実態ですね。ないわけではないですね。では死んだらどうでしょう。肉体はない、つまり色もないということですね。何にもないということになりますが、ここで仏は「空」といっているのですから何にもないわけではないということですね。空つまり心とか霊という目に見えない存在があるといってるんですね。肉体は一時的なもので心とか霊という目に見えない存在はありつづける。だから色即是空、一方空即是色はその逆ですね。空からおぎゃと生まれて色をもった存在になるということですね。つまり転生輪廻ですね。「色即是空、空即是色」の意味は「人間は本来霊的生命体であって、この世に修行のために生まれ肉体を持つ者であるが、肉体の欲にとらわれてそれを自分と思ってはいけないよ」といいたいだけのことですね。わかるかな。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅くなってしまい申し訳ありません。

肉体は一時的なものというのはわかります。
しかし心とか霊とか目に見えないものをどうして
あり続けると言えるのでしょうか??
逆に釈迦は霊の存在を否定していると思います

ありがとうございました

お礼日時:2007/03/23 16:25

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!