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戦中、戦後は食糧難で大変だったようです。
どうして食糧難になったのでしょうか?
満州でとれた食料は運ぶ船が沈められたという話は
聞いたことがあります。
しかし国内で自給自足できたのではないでしょうか?
軍事に力を入れていたとはいえ、もともと農業立国です。
男手が足りなくて農家の生産力も落ちてしまったのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

特に戦後の都市部で顕著ですが主な要因をあげます。


1.生産力の低下
 労働力の低下の他に資源不足や空襲による肥料や農機具の不足の影響
2.流通の崩壊
朝鮮や台湾などの海外からの輸入の途絶のほか、燃料不足やインフラの崩壊、運搬車両の不足  *買出し列車
3.経済の崩壊
 インフレの加速と闇経済・闇市による配給製の崩壊 *たけのこ生活
4.復員兵
 復員兵や引揚者の増加による急激な需要増
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http://www.h3.dion.ne.jp/~muhi/kuwasiku-kakousi. …
日本の稲作は 1880年 200キロ/10アール から 1930年 300キロ/10アールへと 50%の成長を見た。
背景には
1:肥料・農薬
2:品種改良
3:灌漑施設
1は、国内輸送が必要であり、軍事優先輸送体制と、内舶輸送網の崩壊により、必要量が確保できなくなったことは容易に推測される。
2は品種改良とは、毎年よい品種の種を購入していると言うことを、非農家は見落とすポイントです。農家でないと、前年の籾から今年の分を植えてそだてているように思えてしまいますが、実際には毎年多収量品種の種を購入する必要があります。この輸送網も崩壊しました。
さらに、灌漑施設は常にメンテナンスが必要であり戦中はこれがおろそかになった。
※戦後間もない頃の台風の被害が激しいのは、そのころの台風が大きかったのではなく、治水対策が戦中にぼろぼろになっていたからです。治水と灌漑は、水を管理するという意味では表裏一体です。

単純に1,2,3が無くなれば、生産性が 300キロ/10アールから 200キロ/10アールに戻るわけで、耕地面積が一緒なら、生産量は 2/3になります。そして人口は明治期から昭和初期で 4~5千万人から7千万人に増加していましたが食糧難は必至です。

※ 日本での肥料・農薬の関与度は比較的薄いようですが、ドイツでは肥料・農薬が化学製品に移行していたために、工業生産ラインの崩壊によって、壊滅的に無くなったそうです。肥料・農薬の製造ラインは、ほとんど火薬の製造ラインと同等であり、ちょっと変えると毒ガスの製造ラインになりますから連合軍側も積極的に破壊していました。
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社会全体の使用量に対しては、相応の生産量と在庫量が必要です。


男手の減少等による生産力や社会不安による流通の混乱などが、食糧難の原因ですが、社会的な在庫が底をついていた事も理由の一つになります。
戦争中は補給線が伸び切り、制海権を握られた中で、次から次と「海に沈められる」為に食糧が本土外に運び出されて行きました。
一旦在庫が底を打った場合、生産力があっても慢性的な不足感が続くのは今の北朝鮮も一緒です。
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1. 当時の日本の農業はほとんど機械化されていず、農薬や化学肥料も普及しているとは言えず、肥料作り・除草などに大量の人手を要しました。

「米にはお百姓さんの88回の手間がかかっている」といわれたとおり、あるいはそれ以上です。戦争で男性が戦場に行き、残った男性や未成年者・女性が軍需工場などに動員されて人手が足りなくなれば生産性は一気に落ちます。

2. No2さんが指摘されていますが、治水対策・灌漑施設整備にカネや人手(当時は土木工事も機械化されず人手が頼り)が回らず、今の北朝鮮のように「少し雨が降ると洪水」と言った状態になりました。水害は農作物に大きなダメージを与えます。

3. 当時の物流手段は内航海運と鉄道です。内航海運の船舶は次々に軍に徴用されて輸送船となり、片端からアメリカの潜水艦や飛行機に沈められました。終戦時、日本には外洋を航行できる鋼鉄製の船はほとんど残っていませんでした。これによって、主に船で運ばれていた石炭が運べなくなります。
石炭が運べなくなれば、石炭で動く鉄道が動きません。よって、内航海運と鉄道という二大物流手段が麻痺同然となりました。
戦後に鉄道が殺人的に混雑していたのは「石炭が足りなくて必要な列車を運行できない」のが主理由です。

上記の3つの理由で、農作物の収穫高が減った上に都市への輸送が思うに任せず、特に都市部で食料不足が深刻となりました。
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 私の両親は大阪の戦前生まれですが、戦時中は食糧難にはなかったそうです。

不味い食べ物はいっぱい配給されたそうですが。父は学童疎開も体験しておりますが、1膳飯、吸い物、2菜(肉や魚と野菜もの)が必ず配膳されたそうです。母のはなしでは終戦直前はふすま(小麦の外皮)によもぎを練りこんだ得体の知れない物が配給され、これだけは食えなかったと言ってます。

 食糧難は戦後です。終戦により政府による統制がとれなくなり、配給システムが完全に崩壊してしまいました。その結果都市部に食料がなくなり、復員や疎開の帰還などで更に混乱したと聞いてます。
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徴兵で学生、老若かかわらず男性が兵隊にとられ、女学生は軍需産業に従事させられましたので、農作業に従事する人手がありませんでした。



また、終戦間際は昼となく夜となく空襲警報が発令され、B29が爆弾を雨あられのように落としてくるので、ゆっくり農作業をしている余裕はありませんでした。
防空壕に逃げ、住宅が火災で燃えれば、バケツリレーで消火にあたるなど、農作業どころではありません。

学童疎開していた小学生などが、疎開先の田舎で人手の不足した農作業を手伝っていましたが、空腹と空襲に怯える日々でした。

産めよ増やせよで、戦力となる子ども(男子)の出産を奨励しました。食糧事情が悪い中で、人口は増加しています。

半年、一年かけて作物の収穫をするのが農業です。
また、土をおこし、手をかけなければ、痩せた土地では痩せた作物しか実りません。
全てにおいて戦争優先(勝つまで我慢)だったため、戦後の食糧事情にも影響したのです。
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戦中の食糧難は大したことはありませんでした。

配給で曲がりなりにも食糧が手に入りましたからね。ところが戦争が終わると大陸や、朝鮮半島、台湾、東南アジアから大勢の日本人が引き上げて来ました。当然食糧の需要が増えますが、供給の方は日本列島だけになって減りましたから食糧難がひどくなったのは当然のことです。
 これに加えて売り惜しみです。農家は憲兵がいなくなったのを幸い、配給分に回す米まで隠匿してヤミで売るようになるのは当たり前のことです。こうして未曾有の食糧難が日本列島を襲ったのです。米が毎日10円単位で上がり続けて行きました。一番高いときには一升500円近くです。当時の給料の平均がそんなものでしたから、一升買えばそれでおしまいです(>_<)
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戦争は資源を大量に使用することは知られてすが、食料も例外ではありません。

後方支援も含めて何十、何百万の非生産者をまかなうのにどれだけの食糧がいったかわかりません。
また、昭和初期の世界恐慌で第1次産業もあおりを食っていたと思います。
そして、戦争中統制経済下にあったので逆に食料の生産効率もおちたのではないでしょうか。
男手が足りなくなったのも事実でしょう。
これらの理由だと思います。(これ以外にもありそうですが)
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 根本的な間違いがあります。

日本は農業立国ではありません。完全自給を維持できたのは江戸時代まで。明治の人口膨張で、すぐ国内での食料維持は不可能になっています。そこで輸入により日本は食糧を確保します。主な相手は朝鮮半島です。サムソンが日本に対する穀物輸出で育った企業だというのは有名だと思います。朝鮮半島ももちろん人口に比べ食糧生産が豊かな国ではありません。多少は中国等からの輸入でしのぎますが、飢饉のたびに餓死者が出ます。そこで防穀令(穀物輸出禁止)を出すが、日本が政治干渉して力ずくで取り下げさせるなどの、けっこう強引なことまでやっています。つまり根本的な原因は、農業生産力の低下より、輸入船舶がなくなれば自動的に食糧不足にあるということです。ちなみに当時の日本は米くらい自給できたと思われていますが、そもそも国民皆が米を食べるほど豊かではありません。米のほとんどは国内産でしたが、輸入米を食べれるほど金がなかっただけです。
 
 ちなみに明治の日本を支えたのは、繊維、紡績などの軽工業や、鉱業あたりになります。
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 戦時中に限って回答させていただきますが,


http://mltr.free100.tv/faq08n.html#06064
http://mltr.free100.tv/faq08f02.html#02329

から纏めますと,以下のようになります.

 1940年の時点では,米の年間消費量1200万トン.
対して,国内総生産量は900万トン,つまり,差し引き300万トンは不足し,タイやインドからの輸入,朝鮮,台湾からの移入で賄っていました.

 外米輸入に必要な貨物船は,1万総トン級(今は10万総トンとかありますが,当時はこれくらいの規模が最大級)のものでも,単純計算で300隻必要になります.

 1945年には米の備蓄量は僅か3.8日分まで落ち込んでいます.
 これは移送に使用する船が悉く撃沈されたためでもあります.
 また,B-29によって日本列島近海には機雷が撒かれ,船舶の通行を妨げます.
 B-29による海上封鎖用の機雷投下は,昭和20年3月から始まっています。
 5月から本格化した機雷投下は,終戦まで続けられ、12.000個が敷設されました。

 この効果はすさまじく、終戦までに喪失した日本商船は総計890万総トン(2.534隻)に上りますが、その内訳は
*潜水艦 54.7%
*空母機 16.3%
*海軍および海兵隊機 4.3%
*陸軍機 10,2%
*機 雷 9.3%
*海難事故等 4%
で、実質わずか4ヶ月ほどで一割近い戦果を達成しています。

 関門海峡は繰り返し敷設され、いくら掃海しても間に合わない状態でした。
 瀬戸内海全体でも被害が出てますし,
 佐世保・舞鶴も封鎖されています。
 博多・仙崎・敦賀・七尾・伏木・新潟・酒田・船川など、日本海の主要港が主な標的で、八戸が最後に掃海完了となりました。

 また,機雷散布以外にも,灯台や気象観測所のような航路標識にも攻撃をしたりと,地味ながら確実に効く通商破壊戦を仕掛けました。
 これらのお陰で船舶輸送は殆ど麻痺、資源採掘地では輸送できない資源が山積みにされ、工場は殆ど操業できない状況に陥ります。
 モータリゼーションがあまり発達していなかった当時の日本にとっては致命的で、このまま戦争が続けば冬を越せない地域が出るという試算が出ていました。

 これらの結果,日本人の主食とされた米の生産は,1936~40年の五カ年平均(1,098万トン)を100とした場合,45年には60(660万トン)に下がり,この傾向は他の農産物でも同じでした.

 ちなみに,主要蛋白源である水産物(鮮魚,塩乾魚)にしても45年には39年の65%(198万トン)まで落ち込んでいます.
 これは,それを捕る漁船が海軍に徴用され尽くしたところにもありましたが.
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