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世の中は全て物理的な運動の集合体です。
ビリアードでのブレイクショットのように世界は運動の連鎖によって構成されています。
ここで計算の神がいるとします。
この神はあらいるものをを完璧に計算できる力を持っています。
それは人間が測定できないような微塵の狂いもない計算です(カオス理論抜きで考えてください)。
この神にかかれば木から葉っぱが落ちる動きもビリヤードでの玉の動きも完璧に予想できます。
この神はビックバンが起こった時、そのエネルギーやらなにやらを計算して地球という惑星が生まれる事も計算できます。
そしてその地球がどのようになるかもビックバンが起こった時点で計算できるはずです。
さらには人類が生まれる事、そして僕が生まれる事も計算できるはずです。
脳は物体です。意識は脳の中にあります。ということは意識とは物体です。
ニューロンやら何やらありますが意識も例外ではなく物理的運動のはずです。
という事は考えも物理運動になるはずです。
僕が今考えている事はビックバンが起こった時点で計算する事が出来るはずです。
では僕は自分の力で考えているのかが怪しくなります。
勿論僕は自分で考えていると思っています。
でもそれは、良くわかりませんが脳の中でA地点からB地点に電気が流れたり、そんな事の連鎖です。
それならばそれは自分で考えているんじゃなくて電気が動いてるだけという事になります。
なんともうまく伝えられないのですがよろしくおねがいします。

A 回答 (16件中11~16件)

それが自分の意思で物事を考えるってことかな。


外界との整合性を保ちつつ。
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カオスという言葉さえ人間が創ったものならば


カオスの中からどんな秩序の世界を創造するか。
君ならば。
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カオス理論抜きでという時点で現実から乖離しているのではないかな。


カオス理論なくして脳を語れる根拠は。
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これは、リベットの発見についての解釈としては決して目新しくない。

実験の結果から生じる自由意思の問題について、その解決の可能性をどう見るかと訊かれて、リベットは、アメリカ哲学者トマス?ネーゲルの意見に言及した。1987年、ネーゲルは論文の中で、リベットの研究とその結果について触れている。「脳はその持ち主が気付かないうちに選択しているようだ。ある哲学者に、この実験について詳しく説明したところ、彼はその結果の意味するところは明らかだと、皮肉たっぷりに言った。『人の脳には自由意思があるが、人にはない』」
だがネーゲルは、この状況に、すんなりとは受け入れ難いものを感じている。「この種の実験は、なんとも不穏な可能性を提起しているように見える。すなわち、人間が自由な行動と見なしているものは、単に我々の身にふりかかってきたものに過ぎず、自らに選択権があるという意識は錯覚であり、我々は事が起きてから、自分に支配権があると思い込んでいるだけかもしれない」。
それにしても、なぜネーゲルの論文に登場する哲学者の「人の脳には自由意思があるが、人にはない」という公式では駄目なのか?
なぜ駄目かといえば、〈自分〉の概念が脳以外のものにまで及ぶからだ。そこには、何をおいても、まず体が含まれる。感情が胸の内や腹の底から湧き起こる、と私達が表現するのにはそれなりの訳があるのだ。
従って、現に物事を操っているのが意識であるはずがなく、それゆえ〈私〉でもないはずのとき、それは脳だとするのは早計のようだ。それは〈私〉でない者、と言うに留めるのが賢明だろう。自分であって〈私〉でないものを表現するのには、〈自分〉という言葉が適切に思える。なぜなら、余計な憶測を含まないからだ。
この〈私〉と〈自分〉の区別は、見かけほど単純でも軽薄でもない。20世紀末、人間であるとはどういうことかという認識に根本的な変化が起こりつつあるが、この区別はその変化を端的に表している。人は感知、思考、行動の実に多くを意識していない。
〈私〉という全能の存在が人間を支配していると言い張ることは、自分という人間の無能化を意味する。そうなると自由意思はないことになる。
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意識は幻想であると思いますので、意識を出発点として推し量ることは危ういと思います。



しかし、それでは自由意思はどうなってしまうのだろう。行動は、意識の関与無しに引き起こされ、遂行されうる。それどころか、私達の日常的な行動の多くは、そういうものだと言える。私達の行動には、意識の支配下にない大きな領域が幾つもある。しかし、意識の概念は自由意思の概念と切り離しては考えられない。それならば、意識ある〈私〉は、自分が何をするのかを決めることが全く出来ないのだろうか?意識を伴わない〈私〉など、定義のしようがない。〈私〉の特徴は責任能力と一貫性だ。行動の責任を負う能力と、行動を引き起こす能力は、〈私〉という概念のきわめて重要な構成要素だ。しかし、〈私〉が本人の行動の傍観者になることも多い。

彼はいつものように遅れていた。自転車に飛び乗った時には、会議に遅刻するのがわかっていたので、通常30分弱かかる道のりで、出来る限り遅れを取り戻すことを願うしかなかった。
エステルブロ通りを行く途中、ストランド大通りを渡る時、彼はバスのずっと前を走っていたので、待っている客がバスに乗り込もうと自転車道に群がり出てくる前に、難なく停留所を通り過ぎるはずだった。そう彼は思っていた。
ところが突然、男の子が自転車道に踏み出した。自転車は高速で動いていて、彼にはどうすることもできなかった。まるで夢の中にいるかのように、時間の流れが緩やかになるのを感じ、彼の〈私〉は自分自身の行動の傍観者となった。男の子と衝動する、判断が必要だ、わざと自転車を転倒させるべきか?他の選択の余地はない。まるで映画でも見ているように、彼は男の子を守る決断が下されるのを見ていた。横倒しになり、彼は男の子との残された距離を滑っていった。痛みはあったが、それだけですんだ。彼にはかすり傷と、会議に遅刻した絶好のいいわけができた。そして話の種も
決断したのは誰か?彼の〈私〉ではない、〈私〉は傍観者だった。
彼の中の何者かが決断した。その経験は明確で紛れもないものだった。〈私〉は傍観者として蚊帳の外におり、そして前もって発言を封じられていた。何しろ考えている暇がなかった。
彼の〈私〉には、この決断に関して自由意思が全くなかった。しかし決断を下したのは間違いなく彼であった。

この状況は、ベンジャミン?リベットが研究した状況に酷似している。実際に行動を引き起こしたのは、意識ある〈私〉ではない。だが、その人自身であることは明白だ。〈私〉はその人の全てではない。「私は、自分が自分の〈私〉以上のものであることを知っている」
しかし、〈私〉はそれを認めたがらない。意識を持ち、考える〈私〉は、あくまで自分が主役であり、現に物事を牛耳っている者であり、管理者であることにこだわる。だが、それはできない相談だ。リベットの研究結果を真剣に受け止めるのであれば、それは無理な話だ。彼の研究結果は、意識ある〈私〉が人の行動を引き起こすのではないことを、はっきり示している。意識が禁止権を行使する暇などなく、〈私〉が蚊帳の外に追いやられるような状況はたくさんある。〈私〉は自分が行動していると思うかもしれないが、それは錯覚にすぎない。
こうなると自由意思はどこかに消え去ってしまうように思える。〈私〉は風と天気に翻訳される、意思を持たぬただの一片の流木、それも、「進路を決めているのは私だ!」としかりに自分に言い聞かせている流木なのだ。
リベットの実験は、人には自由意思などないという説を裏付ける究極の説明と解釈できるかもしれないが、それは誤った解釈だろう。なぜなら、選択行動が無意識に引き起こされるのは、自由意思が存在しないことの証明だ、と言えるとすれば、それは〈私〉信仰という前提があるからだ。人の何たるかは、〈私〉という概念によって完全かつ明確に説明しうると主張したら、リベットの発見した0.5秒の遅れに照らし合わせると、自由意思について、どうしようもない問題を抱えることになる。人が決定することは全て意識的に決定される、或いは、人が成すことは全て意識的に成される、と主張しようとすると、自由意思という考え方が立ち行かなくなる。なぜなら、意識の帯域幅は、人がやること全てを制御するには、なんとしても小さすぎるからだ。
リベットの発見した遅れが示しているのは、いつ行動を起こすかを決めるのが自分自身ではないということではない。肝心なのは、行動のプロセスを始めるのは人間の意識ではなく、他のもの、つまり無意識である、という点だ。決めるのは本人だが、決める力を持っているのは、その人の〈私〉ではない。〈自分〉なのだ。
これで、自由意思に対する解答を定式化することができる。人には自由意思があるが、それを持っているのは〈私〉ではなく、〈自分〉である。
私達は、〈私〉と〈自分〉を区別しなくてはならない。〈私〉は〈自分〉と同一ではない。〈自分〉は〈私〉以上のものだ。〈私〉が決断しないときに決断するのは〈自分〉だ。〈私〉は意識ある行為者であり、〈自分〉はその人全体である。〈私〉に支配権がない状況は多い。例えば、急を要する場合がそうだ。〈私〉の担当は、考える時間がある無数の状況だ。だがいつも時間があるとはかぎらない。
〈自分〉という言葉には、〈私〉、意識ある〈私〉が引き起こすことのない、或いは実行することのない、体の動きや精神作用すべての主体が含まれる。〈私〉という言葉には、意識に上る体の動きや精神作用がすべて含まれる。
意識の帯域幅の測定や、閾下知覚、そしてリベットの実験から得られる実験的証拠から、〈私〉は、自分で思っているほど多くの決断を下していないことがわかる。〈私〉は、〈自分〉が行なった決定や計算、認知、反応を、自ら行なったような顔をしがちだ。それどころか、〈私〉は、〈私〉自身と同一でない〈自分〉の存在を頑として認めない。〈私〉にとって〈自分〉は得体の知れぬもの、説明のつかぬものであり、〈私〉は自らが全てを取り仕切っているふりを続けている。
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《ここで計算の神がいるとします。

》という初めの想定が すべてです。

その想定の論理的な帰結に従えば 人間に自由意志はないということになります。意志による自由な選択をおこなっているという言わば錯覚があるだけとなります。

ということは その神が問題になっているのだと考えられます。

その神が 人間に その内容は厳密に言ってどういうものかを別にして ともかく自由意志というものを与えたというのであれば それとして意志の自由がおこなわれるという前提で 世界は動いていることになるでしょう。・・・

単純な臆測としては 《自由‐不自由》の連関する構造あるいは過程に われわれ人間はあると思われます。しかもそのとき 《自由》のほうが 自然本性として基本であるというのが 人間の持つ公理だと思います。主観の役割も大きいように考えられるのですが。
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