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中世、大和国(奈良県)は興福寺が治めていますが、それについていろいろ疑問があります。

1・いつから武士支配の守護職ではなく興福寺が支配するようになり、なぜ興福寺なのでしょうか?
2・寺領との違いはあったのでしょうか?大和は寺院が多数ありましたが興福寺は特別だったのでしょうか?
3・筒井氏について。国人領主の筆頭というだけで守護職ではないようです。興福寺に対して服従していたのでしょうか?もし服従していないとしたら興福寺は大和全土を支配していなかったと言えるのでは?
4・筒井氏、松永氏や豊臣秀長の時代以降も守護職は置かずに興福寺支配だったのでしょうか?

以上よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

大和盆地は古くから大寺社による荘園化が進んでいました。

その中で、興福寺が勝ち組として
一円支配などと言われる圧倒的な力を持つようになったようです。他の地方では現地の有力者が
中央の荘園領主から自立して武士団として成長してゆきますがが、大和盆地の荘園では領主興福寺
のお膝元ということもあり、現地の有力者も興福寺の衆徒として土豪化し、興福寺の勢力拡大に
貢献したようです。そして、経緯はよくわかりませんが、武家政権の誕生により、大和国守護も
興福寺の別当職が担うことになったようです。
ところが南北朝期になると、興福寺も南朝方(一乗院)・北朝方(大乗院)というように分裂し興福寺
別当(守護)の在地への支配力も急速に弱体化してゆきます。その中で、現地の有力者が興福寺から
も自立して離合集散の中で筒井氏などの国人領主として成長します。興福寺も戦国大名への道は
歩んでいません。
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この回答へのお礼

>現地の有力者も興福寺の衆徒として土豪化し、興福寺の勢力拡大に
貢献したようです
逆説的に言えば筒井氏は興福寺勢力を利用した、とも言えないでしょうか。
宗教的大名(?)と言えば本願寺勢力、また武力台頭と言えば僧兵の居た延暦寺、根来寺などを思い浮かべます。直接的には武力を持たなかったので、土豪、国人勢力の武力が必要だった、つまり「持ちつ持たれつ状態」なのでしょうか?
一乗院、大乗院については改めて調べてみます。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/19 18:13

守護職というと、鎌倉時代初期から室町までの職制で、基本は国内の御家人の指揮権です。



鎌倉時代
御家人の経済的基盤が○○地頭職として、○○という荘園の税金の一部を取り分として確保していたのに対して、守護職自体には経済的基盤は付随しません。■■国守護領というものは無かったわけです。
地頭職自体も、鎌倉幕府がすべて任命したものではなかった
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/5-07 …
まぁ 鎌倉幕府自体が、公的な政体ではなくあくまで、鎌倉殿とその私的主従関係でしかなかったので、国司がすべて任命されたのに対して、守護は必要に応じて任命されるというのが実態です。

なので、いつから武士支配の守護職ではなく・・・という質問自体が成立せず、大和には鎌倉殿が任命した地頭が少なかったので、それらの地頭である御家人を指揮する守護職がいらなかったので、守護職がなかったというのが実態です。
興福寺が大和で優位に立ったのは、興福寺が藤原家の氏寺であり、荘園が集まったということになります。
筒井家自体は、興福寺官符衆徒でしたが、服従するかどうかはその時その時の情勢に寄ります。尾張の織田弾正忠家(守護の家来の守護代の家来)が守護家に従ったり、従わなかったりと同じです。

豊臣政権の段階では、守護職自体がどこにもありませんですから、大和に置くこともない。秀長は複雑な大和の支配関係を 金で決着 させたそうです。
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この回答へのお礼

>興福寺が藤原家の氏寺であり、荘園が集まったということになります

この部分大変勉強になりました。筒井氏は興福寺の官符衆徒(被官的存在?)だったのですか。この部分も調べてみます。
秀長は大和や紀伊など政情難しい地域を持たされたようですね。人格穏やかであったとはよく聞きますが、豊臣の財力があれば金での手なずけはできたのでしょうね。
やや質問に誤りがあったようです。お許しのほどを。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/19 18:22

ANo.1 です


>直接的には武力を持たなかったので、土豪、国人勢力の武力が必要だった

「南都北嶺」と言われるように、興福寺(南都)は比叡山(北嶺)と並び称されるほど、当時の京都の
宮廷には頭痛の種だったようです。当時は神仏習合で興福寺と春日大社は一体(ともに藤原氏の氏寺・
氏神)で、比叡山の僧兵と同様に南都の衆徒も春日大社のご神霊をタテに強訴をしています。
比叡山の僧兵が傭兵ではなく比叡山直営?の軍事力であるならば、南都の衆徒もまた興福寺直営?
の軍事力ということになり、少なくともこの時点で「持ちつ持たれつ状態」というのはちょっと
無理がありますね。
大和盆地の荘園では現地の有力者が武士団として成長しても、御家人として武家政権を支える
という道を歩まず、興福寺の軍事部門を担う中で、自らも成長しやがて自立する力をつけて
いったのではないかと思います。
そして、南北朝内乱を経て興福寺の支配力が揺らいだ時、衆徒の中で中心的存在に成長していた
筒井氏などは国人領主としてようやく自立してゆきますが、国人領主の離合集散の過程では
当然興福寺・春日大社の権威を利用したのは疑いのないことですね。また、大和国人一揆
のように、国内では抗争を繰り返しても国外からの侵略に対しては団結して闘うという行動にも
興福寺・春日大社の権威が見え隠れします。この段階では確かに「持ちつ持たれつ状態」とも
言えそうです。
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この回答へのお礼

南都宗徒が直営の場合確かに無理があるお礼内容です。
筒井氏が頭ひとつ抜けるには、宗徒であることも重要な要素であると考えています。もちろん他の国人にも宗徒はいたのでしょうが、先の興福寺の衰退期に抜け出すには、よそものでは無理があることは松永久秀が証明しているのではないでしょうか。
そういった意味では持ちつ持たれつ、ではないでしょうか。
あくまで上位にあるのは興福寺であるので、興福寺側も筒井なら、と安心していたのでは?
強訴をしていたということは自前軍を持っていたことになりますね。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/19 22:40

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