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お聞きします。東横線の都立大学駅(線路&ホーム)が、地上から高架になったはいつでしょうか?中目黒-都立大学駅間の連続高架工事が行われ、その工事の資材を置くために、学芸大学-都立大学間にあった東横車両碑文谷工場が廃止になったのが1966年。また学芸大学駅が高架になったのが、1971年5月と言う2件はネットで検索できました。1964年の東京オリンピックの時には、まだ東横線が地上を走っていて、駒沢通りに山谷の踏み切りがあった記憶もあります。連続高架ですから、通常なら学芸大学駅が高架となった同じ時期と思えるのですが、都立大学駅手前で広い目黒通りを高架で超えているので、この区間だけ早かったのではないかとも考えられます。どなたかご存知でしたら、回答をお願いいたします。

A 回答 (2件)

すいません。

正確な回答はできないのですが、あまりの懐かしさに思わず出しゃばってきました。

昭和 43(1968) 年 5月、東横線、目蒲線、山手線に囲まれた三角形のほぼ真ん中に引っ越しました。

・当時すでに都立大学は高架になっていました。
・目黒通りの柿の木坂も立体交差でした。
・碑文谷工場はありませんでした。
・学芸大学は地上に出札窓口があり、改札は地下道の中でした。
・駒沢通りは、学芸大学より渋谷側ですから、とうぜん地平の踏切でした。

少なくとも、お考えの、学芸大学高架化と同時ではありません。
いろいろい探してみると、柿の木坂陸橋は、東京オリンピックに先立つ昭和37 (1962) 年 4月には完成していたようです。
http://www.teinenjidai.com/syumi/saka/saka17_6.h …
この陸橋と都立大学駅とは、何百メートルも離れているわけではありませんから、やはり同時にできたと考えるのが素直ではないでしょうか。

余談ですが、学芸大学の高架化が完成して間もなく、自動改札が導入されました。
関西の阪急に次いで、関東ではいちばん早かったと記憶しています。
相鉄沿線にある会社で紙の定期を支給され、それを学芸大学で磁気カードに交換してもらったものです。
ケースからいちいち出し入れしなければならないのを面倒と感じながらも、会社でも磁気定期を持っているものは皆無に近く、時代を先取りしたような誇らしさもありました。
余計なおしゃべり失礼しました。
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この回答へのお礼

早速にご回答ありがとうございます。やはり都立大学駅のほうが早かったようですね。も少し正確な年月日の回答を待ってみます。http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link153.htmlに、1960年(昭和35年)の都立大学駅での5000系の写真がありますが、コメントに「高架化の工事が始まっていた」と書いてあります。しかも懐かしい田園調布駅折り返しのサボ(行先票)付きのカラー写真です。磁気カード化された頃の定期と言うのも懐かしいですね。懐かしさで思い出したんですが、昭和30年代の東急線では、切符売り場に硬券よりも、もう少し軟らかい切符が縦に10枚ほど連なったのが窓口(勿論中側にです)にぶら下がっており、横に1cmほどを残して切れ目が入っており、それを窓口の駅員さんが1枚づつ千切って売っていたのを思い出しました。色は薄い緑でした。あらためてありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 22:11

都立大学駅は昭和38年に高架対向式ホームとなりました。

(鉄道ピクトリアル749号より)何月かは書いてなかったですが。
陸橋でオーバークロスしていた目黒通りとの逆立体交差だったようです。
中目黒駅付近の高架化は39年となっているのでこちらも時期がずれるようです。

不正確ですみません、。私もあまりの懐かしさにちょっとでしゃばりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。わざわざピクトリアルで調べていただきありがとうございました。ただし前の方の回答と時期がずれてしまいました。中目黒-都立大学間は同時に完成したのではないのは確かなようですが、学芸大学駅が高架化されたのは昭和46年(1971年)5月とあり、その入場券台紙の写真もあるので、ますますわからなくなりました。http://home3.highway.ne.jp/yoshiki/ekimei.htm
確実な日付をもう少し待ってみます。

お礼日時:2007/09/25 22:36

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