プロが教えるわが家の防犯対策術!

日本は民主社会と言われながらも、先進諸国の文化にはない縦の人間関係が非常に幅を効かす社会だと思うのです。

 組織や人間関係を築く際、日本人は相手が自分より年齢が上か、肩書きが上かで態度が変わります。言葉使いも極端に変わります。これはあらゆる社会に見られます。才能や人格が乏しくても1年早く生まれたからと先輩風を吹かせます(外国から来た人は一様に驚く現象です)。諸外国でも年配者はある程度敬いますが、日本ほど卑屈にもならないし、後輩でも才能があれば素直に認めようとします。
 
先輩だからといって肩肘はらず、後輩のよさを素直に認めていく度量を養う方が社会をもっと生きやすい社会風土を作ると思うのですが…。私は必要悪とは思わず、社会悪だと思っています。

A 回答 (14件中1~10件)

恐れ入ります。



一度出来上がったシステムは、(自壊以外では)なかなか壊れません。
社会悪か必要悪かにかかわらず、そのシステムに乗って行動するのが、もっとも摩擦を少なくできるからです。
(その為、日本の「慣例主義」は非常にうまく機能します)

現代においては社会悪であるかもしれないが、その慣例に則ると物事がスムーズに進む(「日本人である」という確認が取れれば、契約によらずとも共通認識が構築しやすい)ので、必要(必要悪)であるという認識なのだと思います。

今まで上記の社会で生きてきた人間にとっては、
「先輩だからといって肩肘はらず、後輩のよさを素直に認めていく度量を養う」のは、難しいと思います。認めるだけではなく「後輩を上司としても構わない」となると、さらに難しいと思います。

往々にして、今までの社会で生きてきた年月が長い人ほど、会社の中では偉かったりしますね:-P
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

安定した社会・組織を望むというのは人間の本性かも知れませんね。
しかし、摩擦が起きるのが想定されても弊害の方が大きいと分れば、組織改革や第三の道を探る必要性が求められると思うのです。保守的で頑迷固陋な柔軟性に欠ける組織は、時代の要請に応えられないどころか、権威に安住して、ともすると安易な慣例主義に走り勝ちです。縦社会ほどこの傾向が強いと思っています。

お礼日時:2007/10/05 23:09

質問者さんのいう先進国・諸外国というのは欧米のことでしょ? アジアにはアジアなりの価値観・文化があるし、イスラムにはイスラムのものがあるのです。

決して欧米やキリスト的価値観が正しいということはありません。

年功序列のシステムというのは、突き詰めて言えば弱者救済のシステムでもあります。成果主義や能力主義を取り入れてそれで上手くいくのかというと決してそうではないですし、例えば欧米からでも日本の終身雇用制度のメリットを指摘するレポートがあったりします。

成果主義というものは、具体的にいうと平均以上の能力を持つものの優遇です。逆に言うと平均以下(つまりは全体の約半分が該当します)のものは落ちこぼれるわけです。欧米圏ではその受け皿として、宗教が存在しておりボランティアや、福祉、寄付そういったもので弱者救済が行われているわけですが、アジアでは儒教的価値観がそれを救っているのです。

外国というか欧米を見て素朴に憧れるのは若い人に特有の症状だと思いますが、世界と一口に言っても実は色々な価値観があるということに目を向けましょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答どうもありがとうございました。

先進諸国とは決して欧米諸国とは思っていません。むしろアジア諸国の文化の多様性と奥深さに、文明にも増して尊敬の念をもっているほどです。場合によっては、欧米諸国の文化は画一的にさえ見えます。アジアほど差が鮮明でもないとも言えます。一方、文明の価値基準に狭い意味での優劣はつけられても、見方は時代によって変化しますので評価は難しいですね。

文明を評価する場合、その優劣、正悪というよりも光と影という二面性の捉え方が主流になっていると思うのです。例えば、現代の環境悪化は文明の劣悪な負の部分ですが、『人類運命共同体』という概念は、メディアや交通手段の発達という点で文明の評価される部分でしょう。文明や文化の根底を成すといわれる宗教も、欧米諸国やイスラム世界は一元化されていますが、アジアは種々雑多でまさに多様性の宝庫です。多様性と違いを認め尊重する態度と価値観にこそ、優位性を与えるべきだと思うのです。

年功序列は生活設計のうえで安定をもたらしますが、それに拘る組織は頑迷固陋な保守性に走り、時代の要請に柔軟な対応ができなくなる可能性が大きいとも言えます。まるで幕末から明治にかけての武士の存在と重なります。現代のリストラはそこに安住した40代50代がターゲットにされましたが、必然的結果と言えるかもしれません。

私は誤解を与えたかも知れませんが、今年で60歳になりました。様々な価値観を認めることこそ縦社会の対局にあるのではないでしょうか。

お礼日時:2007/10/06 02:23

>>先輩だからといって肩肘はらず、後輩のよさを素直に認めていく度量を養う方が社会をもっと生きやすい社会風土を作ると思うのですが…。

私は必要悪とは思わず、社会悪だと思っています。

通常、「年齢」、つまり生きている年数が長い人のほうが、知識・経験・判断力が優れていることが多いです。これは、小学生と中学生、成人などを比較すれば、多くの方は同意すると思います。

また「肩書きが上」ってことは、下のものよりも、多くの情報に触れることができるわけで、「なにが重要か?」って価値判断の点で、部下とは相違することも多いと思われます。もちろん、部下にそういう情報を提供すれば、皆が納得ずくで行動できるかもしれませんが、情報漏洩を考慮すると無理なことも多いと思いますし、その背景などの説明に時間がかかりすぎる可能性もあります。(小学生に、経済情勢や世界情勢など、あまり説明したくはないですね)

よくわかっていない人を含めて、議論ばかりやっていているのは非効率って面もあるので、とりあえず、「年齢が上」「肩書きが上」の人の判断を優先させるのは、いいと思います。

と、ここまでは一般論です。

実際には、質問者さんが言われるように、年齢が上、肩書きが上の人が誤った決断・命令を下すことで、経済的に大きな無駄を発生するとか、もっとヒドイ場合は、組織が「社保庁」とか「ミートホープ社」のような犯罪集団に成り下がることもあるわけですね。つまりは、「縦社会」が害になっているわけです。

また、独創的で、優れたアイデアは、年齢が若いほうが産み出しやすい場合も多いです。そう考えると、次の疑問につなります。

>>諸外国でも年配者はある程度敬いますが、日本ほど卑屈にもならないし、後輩でも才能があれば素直に認めようとします。

そうですね。では、なぜ日本ではそうならないのでしょうか?それは、日本では、「Aさんの案・意見=Aさんの人格・能力」ってみなすからです。多くの人が「Aさんの案、はおかしい。その案は、前提条件がいろいろ満たされて、初めて成功するが、それを満たすのは客観的に難しい。だから、A案は駄目、失敗するだろう」と思ったとします。

でも、それを発言することは、「Aさんは愚かで、駄目な奴だ!俺のほうが優秀だぜ!」という意図を表明しているようにとられてしまうわけです。それがクーデターとして成功すれば、政権交代ですが、一般的には、潰されてイジメの対象になるか、発言者が組織からはじき出されます。

では、なぜ諸外国ではそうならず、後輩の才能を素直に認めるのか?それは、小さいときから、学校や家庭で、ディベートの訓練を、宗教・結婚・政治・国際問題などをテーマとして議論しているからです。「Aさんの意見≠Aさんの人格・能力」とは決してみなしません。Aさんの意見もBさんの意見も、「客観的事実」と「論理的推論」および「価値判断」によって優劣を判定します。そこには、年齢や肩書きは入り込みません。「優秀な意見」「優秀な案」が採用されるのです。

これは、旧日本軍が縦社会的に戦ったのに対し、米軍が階級を問わず「優秀な作戦、アイデアを採用する」「事実・実績重視」で、新兵器、新しい戦法などを採用したことにも現れています。戦後、米軍は日本軍について「彼らは、決して失敗から学ぼうとはしなかった。何度も同じ過ちを犯してくれた」と評したことに尽きますね。(ミッドウエーの大敗も、それまでの戦闘での失敗を無視した結果です)

ただし、日本人がディベート能力を身につけた場合、小泉のようなワンフレーズ政策や現在の無策内閣は、強烈な批判にさらされ、政府は、やりにくくなるでしょう。

結論として、日本人のディベート能力欠如が、縦社会の弊害を拡大しているということです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

lv4uさんの小さいときからディベートで訓練されているという意見に私は賛成します。日本の学校のように先生の一方的な講義形式は、自己主張を対外的に弱くするどころか、多様な価値観を無視するかのようなポピュイズムに陥り、空気だけを読んで大勢に流される日和見主義に傾きかねません。葛藤さえ起こさないため、自己の存在価値さえ見出せかねないことになるでしょうね。虚無主義に走り、無気力、対人恐怖症、鬱など人格形成を阻害する要因に取り囲まれてしまいます。

疑問さえ封じる授業は、子どもたちの好奇心に刺激を与えず、結果、子どもたちや若い人が惰性に流さざるを得ない状況を助長していると思うのです。例えば、かなり前ですがアメリカ最優秀教師に選ばれた女性教師がいました。今ではかなりの教師、学校が実践しているという授業法です。これもディベートが中心です。人種偏見を是正する授業でした。児童を2班に分け一方は人種差別は悪い、一方は悪くないという立場で意見を闘わせたそうです。日本ですとここで終わりですが、この授業では、今度は攻守立場を変えそれぞれが反対の意見を出し合った。この授業の効果は、児童が2つの立場が理解できたことにあったそうです。それ以来、目に見える人種差別がなくなり人種同士で固まることがなくなったとのこと。

縦社会は、往々にして権威をかさに威張り、偏見固められて歯止めが効かず、人格否定までいってしまう。周りも認めてしまう怖さがあります。時津風部屋の問題も相撲社会という隔絶された組織ですが、誰一人として止められかったところに私は問題の根深さがあると思っています(いじめと可愛がりの見極めは難しいでしょうけど)。

弱い立場の者を軽くみる組織や社会を不合理と感じながらも黙認する。自己の無見識を正す機会の少なさも問題かも知れません。旧日本軍については私も勉強していますので、lv4uさんの意見に大賛成です。

お礼日時:2007/10/11 00:46

あ、重要な部分を間違えた。

下から10行目は、
(誤)「Aさんの意見≠Aさんの人格・能力」とは決してみなしません。
(正)「Aさんの意見≠Aさんの人格・能力」とみなします。
です。すいません。
    • good
    • 0

確かに、欧米人の他人の価値観に耳を傾ける姿勢は私も大変リスペクトします。

しかしながら、世の中そうは上手くいかないものでしてね。欧米社会っていうのはものすごくタフですよ。
確かに才能があれば認められますが、才能がなければ容赦なく捨てられます。アメリカについていれば、確かにアメリカ社会はチャンスをくれる社会だと思います。けれども、結果が出せないと容赦なく捨てられます。だからみんな「私は優れている、能力がある」とアピールしなければなりません。アピールしないとやる気がないと判断されて捨てられます。上手くいかなくなっても「これこれこういう理由で上手くいかなかった。今度は必ず上手くいく」といわなければなりません。いえないと容赦なくクビです。

それと欧米社会でも必ずしも才能ある人間が素直に認められるとは限りません。他人の才能に嫉妬するのは人間の性で、人種は関係ないですからね。けれども、それをあからさまにするのは「知性がない」といわれるので本音は才能を認めていないのに他人の前では「素晴らしい」なんてことをいけしゃあしゃあといったりするのです。本音と建前の使い分けって欧米人のほうがすごいですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

建前と本音を使い分けるわけるのが日本の専売特許ではないようですね。確かに、本音では自分よりも才能があると認めても、その反動でジェラシーが生まれ、コンプレックスを感じてしまうというのはその裏返しで、民族や人種に関係ないのでしょうね。本音だけで生きれば分裂と戦いを招くでしょうし、建前だけでは実のない虚構の社会になるでしょうね。

あまり欧米を崇拝しているかのような論理を使用したくはないのですが、しかしながら、欧米では人間とは何か、人権とは自由とは何かという基本的な命題と幾世紀にも亘って格闘し、戦い培ってきた歴史があり、それが膨大な哲学に結実しています。日本は儒教などの影響もあるのでしょうが、ともすると美学に傾く精神風土があります。太平洋戦争時、゛一億総特攻゛(昭和天皇は不快感を表明)に象徴されるように、戦争の遂行のために戦略より美学を持ち込みました。どう生きるかではなく、どう死ぬかがと問われた異常なヒステリー社会でした。人の命が虫けらのように扱われ、上官の命令は天皇の命令という強固な縦社会でした。

欧米にも本音と建前が社会に存在するとはいえ、伝統に裏打ちされた社会規範があり、個としての存在理由が常に問われてきた社会だろうと思うのです。欧米では一般論にすりかえず、『あなた自身はどう考えるの』という問いかけがある。翻って、笑ってごまかしてしまうような日本人のアイデンティティの弱さを感じるのです。

日本の縦社会のありようは、哲学や考えの基盤が薄弱なためのスケープゴートなのかも知れないと思っています。

お礼日時:2007/10/13 02:28

No.3です。


確かに、eroero1919さんのいわれるような面はありますね。「意見を言わない=>考えてない=>無能」って評価ですね。
また、「ある方の意見=ある方の能力」っていう見方が全くゼロだとしたら、その人の能力評価をする機会が無いことになってしまいますので、リンクする面はやはりあるでしょう。でも、今にも殴り合いっていうような激論をかわした2人が、会議室を出ると、仲良く肩を組むって面もあるわけです。(その仲の良さは、建前かもしれませんけど、でも、明らかな犬猿の間柄になるよりましですね。)

ある女子学生がアメリカ留学時に、ディベートで「婚前交渉は是か非か?」って題目のとき、「私は、隣の人と同じ意見だから発言しなくてもいい」って黙っていたら、その後、「あなたは、結婚や恋愛といった人生の大切な問題を何も考えてないのね。軽蔑するわ!」と友人に言われたって話もあるようです。

ということで、ディベート重視する欧米方式がベストってわけではないでしょうが、優れた意見を後輩が気楽に先輩に言えるような雰囲気は、日本に是非ほしいと思います。「なんで、そんなバカな意見が通ったの?」と聞かれて「空気がそうだから」(実際は、トップ個人の利権とか権力保持が理由でしょうが・・・)って、アホ丸出しは、もう無しにしてほしいですね。

そして、先輩である自分の意見が、後輩の意見に負けても、素直に受け入れる広い度量が、先輩に欲しいですね。

今、必要なのは、どちらにとっても「勇気」でしょうか。

この回答への補足

何も意見を言わないのは、言わせないという長年築いた日本の縦社会の伝統がそうさせている面もあると考えています。何を言っても先輩の意見が優先され、肩書き上位の人が検証をされることもなく無条件で採用される傾向があるとも言えます。これは決して会社組織だけではなく、程度の差こそあれどこにでも見られる現象です。

意見のない人=何も考えていないというのは、ある意味、社会的に自己存在否定であり、生物学的に存在している意味しかない与えられないと思うのです。国際的会議の場でも日本人が共通して評価されるのがこの点です。常に受身で自己の見解を明確にしない。まさに無作為の罪です。゛これが日本の文化よ゛とは間違っても言ってほしくないですね。

「池の鯉大海を知らず」とは日本人の側面を語る適切な言葉かも知れません。しかし、日露戦争では日本は徹底してロシアを研究しましたし、日本に味方する国を多く作る戦略を世界的に展開しました。それで確固たる戦略を持ち得ました。太平洋戦争では精神論が最後の切り札となったため、相手を知ることを怠ったうえ、情報戦を軽視しました(レーダーも昭和15年には実用段階に入っていましたが、海軍は日本がやることではないと無視しました)。日本が追い詰められて始めた戦争とはいえ、南太平洋を制圧した後の戦略・構想が無かったのです。これも縦社会の硬直した結果から導き出される一断面です。部下や多面的な意見を取り入れないのです。当時のアメリカ陸海軍は兵站部門の指揮を民間の運送会社の課長を採用し任せたほど柔軟でした。

先輩は決して最初から偉くはないし、威張る必要もないのです。部下を本気で育てようとし、正論であれば採用し、かつ自分の経験を絶対視することなく伝えれば偉いと思うのです。一番偉いのは自分より偉くなってほしい、自分より人材になってほしいとの気持ちで接する先輩ではないでしょうか(あまりいないでしょうけど)。それでも威厳は損なわれません。

補足日時:2007/10/14 01:08
    • good
    • 0

礼節の問題だけですね。


それを受け付けれるかどうかでしょう。

…でも、人間ってね。簡単に他人を認めれるなんて出来ませんよ。
欧米の建前と本音を使い分けるエネルギーの裏側では色々と裏工作が行われているのですよ。

それに縦社会と言っても自分勝手な解釈で上司面するのはただの勘違い人間ですしね。
在っても無くても別にどっちもどっちです。

この回答への補足

回答ありがとうございました。

いつも不思議に思うのですが、建前と本音の使い分けは世界共通であると以前より思ってましたし、社会生活上、建前と本音が使い分けられるのは当然でしょう。何故日本だけが日本特有の社会現象のごとく指摘されるのか分りませんでした。ただ、使い方が巧妙であり、陰険であるとの固定観念が江戸時代以降、日本を訪れた外国人に喧伝されてしまった面もあるようです。我々の建前と本音の使い分けは社会秩序のうえで正義であるという傲慢な優越性です。おそらく日本の建前と本音の使い分けは姑息に見えたのではないでしょうか。

軍隊や会社などの目的達成のためには、ある程度の縦社会の論理は必要でしょう。そうでなければ秩序は維持されませんし、責任も義務も脆弱になると考えます。これは私が問題提起したことと矛盾はしないのです。要はバランスであり、才能をどう組織や社会に認知させ活かしていけばいいかということなのです。日本は強力な縦社会でありながら、毎日報道されるような無責任事件が起きるのでしょう。官僚の天下りなどは縦社会が育んだ結果とも言えます。

何故、ほとんどの人が縦社会のありようを肯定するのでしょう。縦社会に潜む非論理性と非倫理性に鈍く、あたまから疑うことをしないのでしょう。あまりにも世界からみれば異質なのです。韓国は李朝600年の儒教の影響を受けて日本より強烈な縦社会ですが、徐々にその構造的な非論理性に気づき始めています。

縦社会の是正が、社会のありようの全てだとはいいませんが、優秀な日本人であれば気づき、そろそろ問題視してもいい頃だと思うのですが…。

補足日時:2007/10/20 18:21
    • good
    • 0

・階層的な組織の経営よりもフラットな組織の経営の方が


効率がよくなるのではといった話はよく耳にはします。
ただ、アイデアや各成員の専門的知識がどれだけ必要になるかというのが、
運営する組織・グループによって違いがあります。

・専制型リーダー、民主型リーダー、放任型リーダー
という分類が心理学者レヴィンの実験でありました。
放任型はやはり効率がよくないようです。
ワンマンの専制型と話し合う民主型は共に効率はいいけれども、
専制型の方がいじめが起こり、モチベーションが長続きしないので、
民主型が優れているんだとかいうこと。
でも現実社会ではあまり適用されない(?)。

・欧米の中でも、アメリカは個人主義-垂直、
ヨーロッパは個人主義-水平と分類されることもあります。

・年齢に関する給与の格差は日本の方が欧米よりも大きいけれども、
CEOと一般社員の給与の格差だと欧米の方がはるかに大きいです。
経済格差ならアメリカは日本よりもずっと"縦社会"になります。

・韓国の経営は日本より権威的かと思います。
日本の中流意識と韓国の上下意識を比べたものもありました。
欧米に対する日本独自…と通念で思われているものが、
途上国ではもっと強力に存在する場合は結構多いです。

・上下関係・集団主義が強い国の方が所得が低い傾向があるとかいう話もあります。
でもこういった観点は拒否感を持つ人が多そうです。
上下関係が小さいから豊かになったのではなく、
豊かだから上下関係が縮小したのかもしれませんが。
http://www.dataranking.com/table.cgi?TP=bm04-1&L …

・でもドラッカー、ガルブレイズ、ポパーなどなど、
日本の礼儀作法には好感を持つ人は多いですが。

・ゲマインシャフト(地縁・血縁型共同体)から
ゲゼルシャフト(目的型共同体)への移行が
近代社会の形成過程というモデルもありました。

・インターネットでは上下関係は形骸化してますし、
若い世代では転職の意識も増大していますから、
日本でも世代が立てばもっとフラットになるのかもしれません。

・男女の上下関係も是正した方が経済には有利とは言われるのですが、
男性はなかなか信じたがりません。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

どうも回答ありがとうございました。

広範囲にわたるデータや識者の見解、大変に参考になります。
格差社会と縦社会の因果関係と連動性は、もう少し研究しないと判然としない点が多々あるように思います。ヨーロッパなどは、伝統ある階層社会でその棲み分けは、ある程度認知されている社会構造と言えるものでしょう。しかし、根底には、人間の諸権利は既に万人が共有する権利であり財産と認識されています。挑戦の機会平等、一度失敗しても再挑戦の機会を与える社会などは、全ての人に人間の可能性や才能を認めていこうとする、歴史に学んだ文化の寛容性を示すものと思います。まさにこれこそ民主主義の精神であり文明だと思うのです。また、ノーブレス・オブリージュ(地位や豊かな者の社会貢献)の精神はキリスト教の影響があるとはいえ

礼儀作法は人間関係をよりスムースに、より豊かにする基本となるものですし、この点は大賛成です。権威で威張りたがる人や縦社会を別の意味で勘違いしている人間こそ、礼儀作法を覚えてほしいものです。本当の礼儀作法を知らない人こそ上にへつらい、下に威張るものです。人間をそのようにしか見ない人は、虚勢を張ったピエロみたいなものです。

幕末にアメリカに渡った幕府高官(小栗順之助もいた)が、通商条約締結のため、ワシントンやニューヨークで大歓迎を受けますが、あの大詩人ホイットマンがニューヨークのパレードで彼らを目撃し、凛とした態度や礼節作法に感動して印象記を新聞に寄せています。礼節を強調すれば縦社会をより強固にするとは思わないのです。別次元の問題で区別して考えるべきだと思うのです。礼節はあくまで人間に対する尊敬であり、意思表明で威厳さえ伴います。人間関係を深く結びつける導入部ではないでしょうか。外国人に対しては、私はあなたに敵意をもっていないとの表明になるかも知れません。

お礼日時:2007/10/20 19:26

 いい問題提起ですね。

他の方達の意見も勉強になりました。
 ところで、私が以下のように言ったら、どのように評価してくれるでしょうか?ちなみに私は40代半ばです。

 もし、「縦の人間関係」が全く無い社会で、あるプロジェクトで決定事項が生じ、みんなで議論したとします。この時意見はまとまるでしょうか?答えはまとまりません。なぜなら、採用された意見の主が優秀ということになり、他はダメということになるので、絶対に他人の意見を是と認められないからです。ちなみに、このような社会では全ての局面で、争いが生じます。勝つという結果が全てだからです。
 逆に、「縦の社会」が完全に固定している社会を考えてみましょう。この場合、下の意見は全く採用されないでしょうか?答えは否です。どんな組織も必ず問題に直面します。この場合、下の意見を採用しても自分の地位は侵されません。むしろ、広く下を使って良い意見を採り上げたと上に評価されるので、損はありません。

 上の話はくだらないとお思いでしょうから、歴史を見てみましょう。
 まず、中国の王朝ですが、概ねその創世記には功臣の粛正が行われています。激しいところでは、漢の劉邦、明の朱元章、最近では共産党の毛沢東が大粛正を行っています。これは、政権初期には、まだ地位が完全に固定化していないため、いつ寝首をかかれるか分からないからです。この功臣の粛正に成功した政権が長期政権を維持できています。日本でも、徳川家康が功臣をかなり粛正しています。

 今度は、千葉周作です。彼が江戸で名をなしたとき、その出身地の伊達藩では殿様が「あれを我が藩の剣術指南役に取り立てよ。他藩に取られるな」と指示したのですが、藩の剣術指南役からの反対で、重臣達が「あれは百姓の出で、藩の格に合いません」として、採用しなかったということがありました。その後、御三家の水戸藩が、千葉周作を藩の剣術指南役に取り立てたため、伊達藩の重役らは非常に叱責されたそうです。
 このエピソードは一見、質問者の意図に沿うようです。しかし、むしろこれは意外に江戸時代の武家というのは中途採用が多かったことを物語ります。そして、もし伊達藩に千葉周作が採用されていたら、前の剣術指南役は解雇です。
 つまり、江戸時代は意外に縦社会が固定されていなかったと言えるのです。その中で、下の優秀性を認めることは、自分が解雇されたり、格下げされたりすることを意味します。だから、重臣達は自分たちの生活を守るため反対したと理解できます。

 今度は、私の経験談を、少しお話しします。
 私は、大学時代ある武道をやっていました。その時の私たちの上下関係は固定されていました。その私たちから見ると、野球部の先輩風や後輩いじめは随分酷く見えました。リベラルな野球の後輩いじめが、私たち武道をやっているものより酷いのは何故か?とおもったものです。
 今、思えば、野球は結局監督の評価で容易に後輩にレギュラーの座やポジションを奪われるスポーツだったからだと考えられます。先輩には既にその大学で、後輩より一年以上長く苦しい練習をしてきている自負があるのです。それが簡単に奪われるのですから、たまらないでしょう。自分の地位を侵しそうな後輩は先につぶしておくに限ります。

 先輩風というのは、縦の関係が容易に覆る社会ほど吹きそうに思いますが如何でしょうか?
 なるべく明確にするために極論に走っています。為念。

 
 
    • good
    • 4
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

指摘された中の江戸幕府は、強固な縦社会でした。社会体制的には、停滞期ともいえる社会だったのでしょうね。そうした点で礼節などが重んじられる形式主義が幅を利かせる社会だったともいえますね。ただ、徳川政権の柱であった重農主義の中にあって、アジアで最も先端をいく商業が堺を中心に発展して、商人が力を持った時代でもありました。江戸文化そうした商人の影響を受け結果の社会でした。武士は無為徒食の権威だけが頼りの集団に成り下がった時代です。商業社会は明らかにその実態は縦社会と縁遠いものです。実力と才能だけが問われる社会構造を作る因ともなりました。

信長、秀吉、家康ともお雇い外国人などから世界の動静を把握し、商業の重要性を認識していました。また、この三人に共通するのは門閥や出自にこだわることなく、才能ある者を登用していることです。そうした点で実力主義を認める芽が育っています。坂本龍馬のその発想の原点は商業主義、実力主義でした。江戸幕府の縦社会のありようをへどが出るほどに嫌っています。一方、あの勝海舟はアメリカから帰国し、アメリカ社会の様子を幕府老中から聞かれ、「アメリカでは賢い人が偉い位置を占めている」と答えたそうです。明治維新は、実力と才能が評価される社会への移行期だったと思うのです。

私は高校時代野球部でした。勝利のためには本来、学年は関係ないはずなのですが、どうしても上級生優先でした。私のチームは負けることが多かったのですが、敗因を真剣に考えることもなく上級生優位は変わりませんでした。今の甲子園を見ていると一時代前よりも下級生が多くなって、まさに実力主義に基づいてチーム構成されており、好ましい傾向と受け止めています。

勝つことが目的であれば、一年苦しい練習してきたというのはあくまで個人レベルの問題であり、勝つという目的に対してはそれを表に出す性質の問題ではありません。そんな自負は捨て去るべきなのです。苦労しているのは1年生でも同じで、むしろボール拾い、先輩のユニフォームの洗濯、後片付けを先輩の軽い命令でやらねばならない後輩こそ、苦労していると言えます。どうゆうわけか、今でも野球部が他のクラブに比較して、封建的な体質を残しています(総じて野球部が最も強い縦社会の体質を残しています)。

お礼日時:2007/10/23 21:37

ここでは、議論は禁止ってことすが、元の質問の延長とみなされる、No.9さんの想定問題への回答ってことで、ちょっと考えてみました。



想定問題では、縦の人間関係でも、横の人間関係でも問題があるわけですね。で、そういう問題が発生する原因を分析すれば、3つくらいあるでしょうか?

1)個人と組織(私と公)の利害対立

 プロジェクトの成功よりも、プロジェクト内での自分の評価を優先。野球の試合で勝つために能力ある人を選手にするよりも、自分のレギュラーポジション確保を優先するなど。

2)意見の優劣の判定方法を知らない、判定の価値基準があいまい、あるいは存在しない

 プロジェクトで複数の企画があったとして、その優劣を判定するには、十分な現状把握と、それぞれのメリットとデメリット比較を論理的に推論しないといけません。またその判定の根本となる価値観(哲学)にいかに寄与するか?ってことを、特定個人の利害を離れて、検討しないといけないと思います。もし、こういう手順が決まってないと、結論は出ないでしょうね。(ちなみに、年金問題は、”十分な現状把握”を政府が行おうとしないため、解決に向かいませんね)
 もちろん「頑固」「他人の意見は絶対きかない」っていう人もいます。が、そういう人は、将来、それなりの扱いをされると思います。なお、そんな事情も無いのに、結論が出ないなら、「全部ボツ!もっと良い企画出せ!」って結論じゃないでしょうかね。

2)議論(ディベート)のやり方を知らない

 「朝まで生テレビ」のように、発言は、割り込みの素早さや司会者の裁量に左右されるし、相手の話を聞かずに、自分のいいたいことだけ話せばOK、議論がかみ合わず平行線になっても、そのままっていうヒドイ番組があります。あんなのを真似ていたら、結論なんてでませんし、それこそ、縦社会のように、「親分のひとこと」で決めるほうがましでしょう。


結局、人間関係が「縦」あるいは「横」だとしても、それ以前に、お互いの「価値観」が一致していることが最重要だと思います。大学の部活動で、「優勝第一!」のテニス部と「皆でワイワイ楽しむ方針」のテニスサークルは、価値観が不一致で、統一ができないようなもんです。

そして「上下の人間関係」で、強圧的に上が下に押し付けるのは、「封建主義」「独裁国家」体制であり、その傾向が強いっていうことは、日本も「北朝鮮」の仲間であって、まだまだ「民主主義」を学ぶ途上だということではないでしょうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

今までの回答者のお礼の中でも述べてきたのですが、私は全面的に縦社会を真っ向から否定しているわけではありません。日本は儒教の影響があるといえども日本の文化が育て、ある種日本社会の知恵が有効に作用してきた面もあるでしょう。私が今回問題にしたかったのは、旧日本軍や今の会社及び学校組織に代表されるように、弊害や問題が出てもそれを疑うこともなく、縦社会の弊害を疑問視もぜず是認していることなのです。社会秩序の維持や目的達成のために、時に縦の論理が必要なことは認めます。しかし、才能や実力は縦の論理に増して優位性を与えるべきと言いたいのです。

より価値的なもの、アイデアが優れているもの、より真理に近いものを評価するのに、年齢や肩書きは本来関係がないはずです。後輩や肩書きが下の者でも、自分の不完全な価値観を上回った場合、それを認める度量、寛容性が大人であり、先輩の資質であり人間力でしょう。それを認める態度をとったからといって後輩は尊敬をなくすでしょうか。むしろ、心から尊敬するのではないかと思うのです。

『朝まで生テレビ』は私も好きでよく観てます。自己主張のぶつかり合いで、矛盾だらけですが、プロデューサーの意図するものが出ていると思います。もちろん結論は局側も司会者も誰も期待していません。自分の思いのたけを話し、視聴者に考えるヒントを与えればという程度でしょう。日本人の苦手なディベートを取り上げた数少ない番組だけに、本格的な討論番組のステータスとして、確固たる位置を確立してほしいと思ってます。

独裁体制は国家単位の揺るぎなき縦社会の象徴でしょうね。ワレサ元ポーランド大統領は、京都で黒尽くめの修学旅行生徒の統率のとれた集団行動をみて「ポーランドより社会主義的だ」と感想を述べたそうです。そのくらい縦社会が強い日本の社会生活は、とても民主主義が浸透しているとは思えず、おしなべて外国の識者は資本主義社会で最も進んだ共産主義的社会と揶揄します。まだまだその程度の民度なんですね。

他の回答に答えられなくてすみません。またの機会に。

お礼日時:2007/10/27 00:17

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!