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あなたが何日も食べてなく飢えて歩いていたとします。目の前に畑があり、食べ物があります。しかしその畑はあなたのものではありません。あなたならどうしますか?

1、人の畑の作物を盗んで食べて生き延びる。

2、盗まずそのまま飢えて死ぬ。

A 回答 (15件中1~10件)

大人の解釈では、どちらをしても悪人ではないでしょうか?



善悪とは社会と言う概念がなければ定義できません。

社会と言うのは、個人が緊急時に無償で助けを得られる仕組みです。

平時に弱者が虐げられる(ているように思える)ケースがあったとしてもです。

こうした社会と言うシステムを維持しようとする人を善人。

これを信じず社会の維持に貢献しない人を、悪人。

社会の維持に反したり阻害したりした人を、社会の側で悪人としているだけです。

社会とは、個人が緊急のとき、無償で助けを与える意思であり、思想です。

なので1、2はともに反社会的な概念に属します。

緊急でないときにやれば悪人ですし、これを償わなければ、罪人です。

これを理解しない場合は、成人である場合に限り悪人となります。

また、経緯により、社会の維持に阻害をした場合は罪に問われますし、

これについて話し合うこともできます。


私たちは共に生産をし、連携や共闘を目指して社会を作り、自然から身を守っています。

こうした概念で実際的に想像してみますと、

畑であると言う事は、誰かが手入れをしており、それが行き届いているから畑と分かります。

すぐ傍に人家があるということですよ。

もし私が何日も歩くことになったのなら?

これは普通の生活の中では緊急事態でしょうね。

遭難したと言う事でしょうか?

遭難と言うのは、人や社会が助力できない場所に迷い込んだと言う事です。

そうでなければ、そういうシーンがないはずです。

何かしらの事情で、社会や人が助けられるシーンが、その最悪の状況にいたるまでに

無かったわけです。

こうしたとき、人は食べ物を求めるのか? 助けてくれる人を求めるのか?

すぐそばに人がいると知って、畑を掘り起こして飢えを凌ぐ人がいるんでしょうか。

山で遭難し、助けを求めているとき、舗装道路を見つけたら安心するでしょう。

(まだ助かったわけではありませんが)

道路と言うのは、人が作ったものであり、社会からの助力を得られる象徴になります。

同時に、畑と言うのも社会の象徴でしょう。

畑を見て助かったと感じるでしょう。

そばに人がおらず、無人であると知ったらがっかりするでしょう。

こういうときは、畑の作物を食べることも考えます。

しかし、そのとき思うのは、悪いことをしているという後悔ではなく、

「誰にも罰せられずこのまま死ぬのが嫌だ」

ということではないでしょうか?

持ち主に叱られることを夢見て、泣きながら飢えを凌ごうとするでしょう。

持ち主に罰せられるということは社会に復帰したと言う事です。

そちらを望むのが自然に思います。


社会に何故善悪が定義されているのか?

人が人を助け、自分も人を助ける。

これを信じられ、これに賛同する人が善人であり、

これを信じられず、これに反する人を、反社会的思想をもつ人ではないかと思います。


前者の方ならば、飢えて疲労しているとき、人が傍にいることを感じたら、

独力で飢えを凌ごうとせずに、人に助けを求めようと、人を探します。

人手が掛かっておらず、畑ではないと見えたら、自然の恵みとして採取するでしょう。



冒頭に大人の解釈と述べました。

これは、子供の解釈と違います。


現状の我々の社会ですら、

みんなで色んなモノを作らなければ、あっという間に消費が為され、

何もかもがなくなってしまうんです。

人が摂取できたり、扱えたりするモノにするまで、どれだけの手がかかるのか?

子供時代は、自然物と生産物の違いが分かりません。

どちらも与えられるものだからです。

大人に成れば、自分が作らなければ生産物が存在しないと知ります。

何もしなければ自然物しかなく、これらは意外と魅力的ではありません。

生産物でさえ、誰にも消費されなければ、骨折り損のくたびれもうけです。

自然に無くなるくらいなら、誰かに分け与えます。

苦労した創り上げたものが、無に帰るのがやりきれないからです。

そうした気持ちを自分だけが持つと考えたら傲慢でしょう。

大人の誰もがそう感じていると信じられなければ、社会の担い手になれません。

生産の苦労を知らないと、こういう気持ちが分からないと思います。

こうした方々が考える生産物の入手方法は、

・許可を得ずに消費する。

・許可を得て消費する。

・頼み込んで許可を得て消費する。

・仕方なくお金を払って消費する。

となってしまいます。

この選択肢から善悪を拾い出そうとするのは、社会の仕組みを理解しておりません。

緊急時には、無償で助けを得られる。

だからこそ、社会なのです。


クイズとしては面白いのですが。

こういう問答では、善なる概念がバラバラに解釈されており、

それぞれが関連して作られていることを理解されていないものがあります。



良くある似たような質問があります。

「カレー味の何とか、と、何とか味のカレーがあったとき、

 どちらかを食べないといけないとして、どっちを選ぶ?」

この”何とか”が、

「人が食するために作られた生産物」

であれば、意外と普通の質問です。

しかし、人が食べるために人が作ったものでない場合は、悩むでしょう。

ここに矛盾がありますよね。


生産物を選択するにあたり、人が用意することが前提であるならば、

その品質を保証するために、何度も試験をして、繰り返し食さないといけません。

”何とか味”であることを保障するためには、”何とか味”を知らないといけません。

少しづつカレーを”何とか味”に近づけるため、何度も食して比較するはずです。

また、何とかがカレー味になるまでには、何度も”何とか”を食して、カレー味に

近づけないといけません。

この出題を人間が準備する場合は、その人間は双方を選ばなければならず、

一回の選択ですまないはずです。

達成するまで繰り返すわけですから、

ほんとうに実現できるのか? 可能であるのかのほうが問題になります。


社会に属して、生産を行いながら、社会の通念を維持しようとしている場合、

生産物を選択するよりも、作るほうが大変であると知っているはずです。

また、作る過程で何度も試すわけですから、その段階で自分が嫌だと思うものは

作れないんですよ。


人が人の創り上げるもので、人に嫌がらせをするためには、

その嫌がらせ度合いを確認するために、自分が死ぬほど嫌な思いをしないといけない。

この合理性が働くため、良いものしか作れなんです。

良いものにならないのは、先ほど述べた、実現性の問題であったり、能力の問題になり、

ほとんどの人はここで悩んでいるはずです。

そうである以上、これは善人の悩みなのです。


社会において、芸能や風俗が軽んじられる理由は、生産行為ではないからです。

こういう場合は、私が先ほど挙げた前提からはずれてしまいます。

医療や教育もそうです。

こうしたものは、自然に放置すると自戒する論理が働きません。

これらは国家が人任せにせずに、税金を使用して運用する仕掛けになっています。


これらの合理性によって、私たちは嫌なものから嫌なものを選ぶシーンがありません。

生産に従事し、生産物に対して自分で使用して確かめる。

これが基本であり、これだけを守っていれば、良いものだけが社会に溢れるはずです。



話を戻しますと、

社会の通念には自然に対しての共闘があり、

これは協働生産と緊急時の無償の助力の二つで成り立っています。

善と悪は、これらを子供に教えるために、わかりやすく比喩したものです。

社会がなければ善悪の概念は必要ありません。

社会に所属し、これらの通念で活動することを善。

これらの通念を無視することを悪(社会にとって)です。


緊急時は人を探すのが、善人の行為です。

全ての生産物は、社会の中で作られています。

私たちは社会に所属し、一度社会に持ち物を預け、これを交換しています。

取引の概念は、社会が用意したものでなければいけません。

そして全ての生産物は、社会の通念により、緊急時に人を助けるものであります。

飢えて死ぬのを嫌がって盗みを働こうと、

盗みを嫌がって死を選ぼうと、

共に反社会的思想による選択なんですよ。


畑があって、人がいる以上は、人に助けを求めようとする。

ここで盗むかどうかの選択しか思いつかず、

盗んだら罰せられることばかりを考える。

こういう発想を悪としています。

悪の概念の中に、順位をつけても意味は無いと思いますよ。


私たち国民は、国家の構成員であり、社会の持ち物でもあります。


そのため自分自身の生死に関しても、自分で決める権利はありません。

一度社会を抜けてから、選択することができます。

善悪とは社会に所属しているものの定義です。

社会から孤立したとき、真っ先に復帰を目指し、自分と言う構成パーツのロスを防ぐ。

これが社会貢献でもあり、善の発想です。

自分と言う人間が社会から何かを盗み続け、罰せられると信じている場合は、

このポリシーが既に悪でしょう。


自分が社会の立場になり考える。

自分と言う人間を失うと、損をする。

ここに自信があれば、悩まないはず。

自分がロストしたほうが社会のためになると考えている人は悩むでしょう。

社会に所属するところから、真面目に取り組むことです。まずはそこからです。


以上、ご参考に成れば。
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1です。

死んだら元も子もありません。食べて生き延びてから考えます。
人の物を許可を得ずに勝手に食べたとはいえ理由が理由ですし、あとでいくらでも償いができる程度の事ですし、
それによって一生悪人として生きるというのはちょっと無理があると思います。
その償いが何であるかはその畑の所有者が決めることですが。
たとえ所有者に撃ち殺されるにしても、生きようという努力はしたい。

2はあり得ないですね。
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主の御声に従います。

なので今はどちらか答えられません。その状況になったらわかることですね。
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普通の状態なら、1ですね。

盗んだことに対する罪の償いはする覚悟です。
でも、追いつめられて自暴自棄になっている状態なら、2を選択してしまいそうです。
実際にその状況にならないとわからない。というのが答えだと思います。
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「悪人として生きますか?善人として死にますか」


これが質問ですね。私は善人として生き、悪人になるぐらいなら死にます。
例え人の畑であっても、餓死寸前の人がその畑のものを食べなければ死んでしまう場合
作物を拝借するのは悪では無い なので貴方は(1)のことを悪と見なしていますが悪では無いと言うことです。
自分が殺されそうになってる場合、相手に対して対抗するのは法的にも認められています。
それが、相手を結果的に殺すことになっても正当防衛になる。無罪です。
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①です。


お腹が満ちて、空調の効いた部屋でパソコンの前にいる今だから「うーん、自分はどっちかなぁ」なんて余裕こいてますが、餓死寸前の極限状態では、余裕なんて無く人間性も道徳もかなぐり捨ててしまうと思います。

でも、できれば①でも②でもなく、畑の主に恵んでもらうか、働ける状態なら労働と引き換えに食べ物を分けてもらいたいところです。
…でも、やっぱりいざとなれば①だろうなぁ。餓死を選ぶ聖人にはなれず、生を望む獣になると思います。

質問のタイトルや内容から、盗みを働いた場合①=悪人ですが、私の場合、ただ生きるために盗みを働いた追いつめられた人を悪だとは糾弾できないです。甘ちゃんでしょうか。

それと、ジブリの『火垂るの墓』のワンシーンを思い出しました。清太と節子が親戚の家を出て、防空壕跡で二人で暮らすようになった後、敵襲の掃射を逃れて道脇の畑に飛び込んだら目の前には大きなトマトが…。飢えていた清太はそれにかぶりついてしまう、ってシーンです。
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年齢によります。

まだ少年(12~13歳以下)だったら1.、既に老人となってたら2.です。その間ならわけを話して恵んでもらうか働いた分だけもらう。
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その時に盗んで生き延びて、その後に裕福になればいくらでも


その畑の持ち主に恩を返せますから償いは出来ますよ!飢え死に
は無駄。
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1です。


2を選択する場合は、畑に火を放ちます。
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静かに餓死するのが日本人ですね。



持ち主を殺してでも生き抜くのが、欧米人や
中国人です。

イスラエル曰く
「我々は世界に賞賛されて滅びるよりも、
 嫌悪されつつ生き残る道を選ぶ」

日本人にはこういうたくましさがありません。

倭人は盗まず。
これは、魏志倭人伝にある言葉です。
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