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 平将門と藤原純友は呼応して乱を起こしたのでしょうか。
 それとも、全くそんなことはなく、お互いに知り合いでもなかったのでしょうか。

A 回答 (3件)

単に同時期だっただけで呼応していたわけではありません。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/27 13:56

藤原純友は、貴族の端の方にいる人です。

藤原氏の嫡流からそれほど遠くないですから、受領階級の一員として一般庶民とは隔絶した生活を送ることができました。本人も、伊予掾という官についています。
ウィキペディアでは「中級公家」と表現されていますが、妥当な表現でしょう。

藤原純友
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F% …
「赴任先である伊予国は当時屈指の経済的な豊かさであり、掾とは言え、受領としては出世コースであるとする見方もある。また、純友の属する藤原長良系は地方官歴任後に都に戻って公卿にまで昇った人物も複数存在している事実もあり、実際には出世の可能性も存在した比較的恵まれていた身分であったと考える見方もある」

平将門は、桓武天皇の孫で平姓を賜った高望王の孫ということですが、父親の事績も定かではなく(将門の父の平良将は鎮守府将軍に任じられたとか言いますが、歴史の闇に埋もれた人物です)、官職への任命など望むべくもない「関東の土豪」で、公家社会の一員である藤原純友とは明らかに身分の隔たりがある人です。将門は、都に上って時の最高権力者である藤原忠平の「家来」になっていたとされていますが、その程度の、公家から見れば虫けらのような身分です。
※ 将門の祖父の高望王(平高望)の段階で、中級公家の藤原純友より下の身分だったと考えて下さい。

「お互いに知り合いでもなかったのでしょうか」
知り合いであったとする史料は全くありませんし、前述のように「身分違い」ですので、知り合いになりようがありません。

また、この時代には電話も電報も郵便もありません。意思を伝えるには、手紙を持った使者が歩いて行くしかありません。仮に両者が「東西で呼応して乱を起こそう」と共謀したとして、意思の伝達には、使者の一往復に早くても半年以上かかったでしょう。共謀のやりようがありません。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/28 07:23

乱がほぼ同時期に起こり東の将門、西の純友の間に密約があり、東西海陸から京都に攻め入るという噂が京都で広まりついには比叡山で両者が密会していたという伝説が生まれました。

内容は将門、純友が京都にいたとき比叡山中腹で密会し”将門は天皇の五世孫のだから皇位に就き純友は藤氏の出だから摂関の地位に就く”と固く約束したということです。今も比叡山中腹に転がっている岩のそばまで来ると観光バスのガイドがこの伝説を語りこの岩こそが二人が陰謀をめぐらしたときに足をかけた岩ですと解説があるそうです。
二人は同時期に京都にいたようですが呼応して乱を起こした事はなかったようです。
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この回答へのお礼

 バスガイドの話のようなことは、当時の公家の日記にもでているようですね。尾鰭がついてだんだんと面白い話になるんだと思います。
 東西両方のニュースを聞いた京の公家衆は怖かったでしょうね。つい共謀かと思ってしまうでしょう。
 現在の常識で当時を推し量り断定してしまうと、間違いを起こしやすいものです。しかし、共謀の証拠はないようですね。
 ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/28 07:47

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