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最近テレビで殺人事件を聞いても、あーそうなんだって感覚が鈍ってきたようで怖いです;;

ふと考えてみると、もしも幼い子供に「どうして人を殺してはいけないの?」
って聞かれたとき、多分子供を納得させられるような答えが自分には見つからないと思います。。
自分自身に聞いてみても、他人の権利を・・とかそういう後から取ってつけたような理由しか見つかりません;;

テレビでは「だめなものはだめと教えないといけない」みたいな風に言われますが、
好奇心旺盛な子供や、悩みがちな思春期の子供は、納得してくれないと思いますし、実際自分もどこか「・・・?」ってところがあるし・・、
真剣に答えてあげるほうがいいのでは、と思います。

どなたか、単純明快な答えを宜しくお願いしますm(_ _)m

A 回答 (30件中11~20件)

話すのではなく昆虫、小動物を飼いましょう。

そのほうが死というものを経験するでしょう。
教えるのではなく自ら経験し学ぶ事それによって生きるというものが理解できると思います。
昔はせみを捕まえたりしながら生命と言うものを学び殺す事の馬鹿らしさを学んだけど今ないままに大人になっていきますからね
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はじめまして。



>テレビでは「だめなものはだめと教えないと
>いけない」みたいな風に言われますが、
>好奇心旺盛な子供や、悩みがちな思春期の子供は、
>納得してくれないと思いますし、実際自分もどこか
>「・・・?」ってところがあるし・・、
>真剣に答えてあげるほうがいいのでは、と思います。

思春期の子に、ということなら、こういう説明はいかがでしょう。

1.単純なレベルで
人を殺してもよいという考え方を、世界全体のレベルまで広げていくと…地上から人はいなくなるでしょう?


2.個人のレベルで
殺人を個人レベルで許容すれば、未熟な者は些細な理由で殺人を始めるだろう。自分の意に沿わない相手を、どうせ最後には殺せばいいんだ、と思うようになるだろう。本来なら、相手を圧倒できるだけ、自分が成長すれば済む話。それをせずに、相手の命を奪うことで、お山の大将でいたいということは、成長を止めたということ。
そうやって短絡的に考える者は奪うばかりで、何かを生み育むことはできない。非生産的で社会の役に立たない。


3.スピリチュアルな感じで
普段自分は周りの人を「モノ」と見ているか、「人」と見ているか。
戦争状態に陥ると、兵士は敵を「モノ」として見るようになる。
だから相手を倒すことができる。相手を「人」として見てしまったら、「人を殺した」という重圧で、心が潰れてしまう。

心が育っていれば「人を殺す」なんてことは、絶対にできない。
「人を殺してよいか」という質問ができる者は、自分の周りの人間を「モノ」としてしか見られない、かわいそうなコドモである証拠。
いくら年齢が上がっても、人を「人」とも思えないコドモに、正常な判断なんかできるわけがない。


4.養老孟司 風に
人が元通りに復元できるものなら、いくら壊してもよいだろう。
ブロックや積み木を崩しても、同じように組み立てられれば、なんら問題ない。
車やプラモデルなど、一度壊してしまうと戻らないものでも、どうにか元の状態に近いところまで復元できたり、同じ規格で作られていて、買いなおせば済むものなら、被害は少ない(もちろん、許せないという人もいるだろうが)。

だが、人の命は、一度失ってしまえば、絶対に取り返しがつかない。例えクローン人間を育てる技術が開発されても、全く同じ経験を積ませることはできないし、同じ人間には絶対にならない。

かけがえがない。だから貴重なのだ。
だから、失ってはいけないのだ。
だから「人を殺してはいけない」のだ。


と、そんな感じでしょうか。
私には、養老さんの回答が、一番単純で、絶対的に正しいと言えるような気がします。

参考になれば幸いです。
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もし僕がそう聞かれたらこう答えます。



「殺すというのは、その人の明日を奪うということ。
殺された人は明日、告白するはずだったかもしれないし、もしかしたら何時間後には新しい命を産むはずだったかもしれない。」
殺すということは、そんな人たちの先の幸せを壊すことなんだよ。」と。

簡単に言えば「目の前にあるケーキを奪いとる」感じでしょうか。

「人のものをとってはいけない」
これは多分当たり前のことだと思うので・・・。
分かることを理由にしたらいいんじゃないでしょうか^^?

自分もよく分かりませんが・・・
お役に立てれば幸いです。
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たまたま、2000.11 の文藝春秋の特集に


『なぜ人を殺してはいけないのか』と子供に聞かれたら   14人が答える  「子供の愚問」では済まない時代に親はどうする? 
 がありましたので興味があれば図書館等でお取り寄せ下さい。それぞれ、表題の数文字ですが下記に記します(表題=内容 ではありませんのでご注意下さい)

瀬戸内寂聴     仏教第一の戒律「不殺生戒」
山折哲雄(大学院長) トラに食われる覚悟はあるかい
重松清       一言で答えてはいけない
乃南アサ      なぜだと思う?と問い返す
野坂昭如      殺しなさい。ただ君も殺される
野田正彰(精神病理学者・作家) 愚問を生む深刻な社会の病理
久田恵       問われてからでは遅すぎる
黒沼克史      被害者遺族の苦しみを知れ
岸田秀(評論家)  仲間を殺す動物は人間だけ
立川談志      人を殺したら、即死刑
谷沢永一(評論家) 論語の最も有名な一節を
高山文彦      思い出を奪わないでくれ
三田誠広      人間というのは愚かな存在だ
藤原智美      また造ればいいじゃん


『なぜ人間は生きるのか』如く、いわば正答の出にくい哲学的?な問答になってしまいますし、
個人的には上記の記述(複数)に影響されていますので控えます。
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 一般論で言うと、逆に“人を殺しても良い社会”を想像してもらえば子供にも理由は自ずと知れると思います。

自分が気に入らない人間を自由に殺せる代わりに自分もいつ命を狙われるかしれない世の中を快適だと感じる人間はごく少数です。
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単純明快かどうかはわかりませんが。


「殺人を問題にしない社会」と「殺人を原則として許容しない社会」だったら後者のほう自分を守ることに割くエネルギーが少なくて済みますので、他のことを沢山できるようになるんですよね。
なので、あとはどこまで殺人という行為を社会が許容するかが問題になるのではないかと。現代なら正当防衛が認められることもありますし、中世なら決闘で死者が出ますし、それより前なら神様に捧げる生贄なんてのもあります。そういう意味では「人を殺すことはいけない」というのは絶対的なものではないのかもしれません。私自身はには「その行為(殺人等)は社会の存続に対しては明らかに脅威なので、社会は貴方を容認しないよ。」という風に解釈してます。
ただし、どこぞの人が言う「有名になりたかった」「人を殺してみたかった」なんてのは2000年前でも許容されるものではありませんので、その辺は注意が必要です。
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 宮台真司氏が書いているように「人を殺してはいけない理由は存在しない」というのが社会学の結論です。

反対する人は多いですが、その反論は数千年に渡り、数多の哲学者(または法哲学者)達が、真剣に議論してきて、「正義とは手続的なものでしかない」との考えに至っているとの歴史を無視したものです。
 「悪いことをしたらお巡りさんに捕まるから」は方便ではなく、核心的な答えです。あらかじめ定めた手続に従っていないから悪いのです。死刑も戦争も手続に乗っ取ってなされている限り、正しいと考えられています(正当化の説明も手続以外の実体的説明は難しいでしょう)。

 それ以外のどんな説明も、突き詰めると破綻します。
 歴史的に見ても、日本や欧米で名誉を守るための決闘が禁止されたのは最近のことです。アメリカで今日でも銃が禁止されていないのは、自分の生命・身体・財産が危険にさらされたとき、相手を殺して自分を守ることが許される」という考えに、過半数の人が賛成しているからです。
 古来、英雄という人も、人殺しの中で勝ち残ってきた人たちです。人気が高い人達も例に洩れません。劉備然り、西郷隆盛然り、山本五十六然り。そもそも我々の先祖も100パーセント他人と戦って、勝って生き残ってきたのではありませんか。
 東洋の最も重要な思想である儒教の教えでは、親や王が空腹を訴えたら、我が子を殺してその肉を差し出すことが善とされています。

 最近のニュースに対しても、人を作為・不作為に関わらず殺すことが悪いと言い難い結論がほとんどです。
 血液製剤でのエイズや肝炎感染でもも、誰も処断されていませんし(安部英氏も一審無罪のまま終わっています)、救急者からの受け入れ要請をにべもなく断った病院の中で処断されたものもありません。
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社会が成り立たないことが多いからだと思います。

覆いというのは絶対的なものでないという意味です。戦争とか部族間の争いで敵になるヒトは殺人の対象になりむしろ殺人が奨励されます。つまりなぜ人を殺してはいけないかという絶対的理由はないと思います。例えば詐欺などで多大の経済的損失を与えて、人を死に追いやっても罪は殺人に関するものではないですが、これも殺人です。絶対的理由がないから根絶することはできないともいえるのではないでしょうか。
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人一人(個人)が、人間社会の中で平和で安寧に暮らしたいと考えるなら、友達仲間も、社会全体の人も同じ思いであり、その基を揺るがす殺人は許しがたい悪です。

人殺しが許されるなら、自分が殺されても
文句が言えない。単純明快です。子供に対する教え方も同じです。
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こんばんは。


面白い質問ですね。

僕は、人を殺してはいけない。という概念は、「平和な国で作られた、平和を維持する為の概念」だと思っています。

だって、紛争のある国やイラクに派兵された兵士はいまでも人を殺していますが、彼らは罪に問われているのでしょうか??

キリスト教の信者達ですら、「十字軍」と称して、侵略、殺戮をしてきた歴史があるのに・・・

ようは、治安がよく、「人を殺してはいけない」という概念が浸透している国が、レベルの高い「先進国」の証では?と思います。

そんなこと、子供に言ってもわからないでしょうけど・・・
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって本当にすみませんm(_ _)m

「人を殺すかどうか」ということが平和維持などの手段でしかない・・と考えると、
なんだか寂しくなってきます;;
おなかがすいたからご飯を食べる、眠たくなったら寝るというふうに、
人間の本能の中に組み込まれていないということなのかな・・とおもうとやっぱり寂しいです。
打算性が道徳を決定付けるというのはなんて人間を象徴しているのでしょう。。

回答ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2007/11/16 00:41

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