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前回の質問「人殺しと正義」ではみなさまから多くの解答を寄せてもらいました。ありがとうございます。http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3521969.html

何を正義とするかは時代や場所により異なるものだとの御指摘をいただきました。例えばキリスト教徒の正義とイスラム教徒の正義は異なるし、我々日本人でも第二次大戦中と現代の正義は異なるということがいえます。

私は「困っている人を助けるのは正しいこと」だし、善だと思います。ここで正義が相対的だとするなら、「世の中は弱肉強食なので社会的弱者は死ぬべきだ、他人を利用し騙すのも正しく善いことだ。」という主張と「困っている人は助けるべきだ」という主張とに優劣はありません。

では正義が相対的なら善もまた相対的なのでしょうか。相対的な宗教や文化に依らずに、さまざまな背景(歴史や宗教や文化)を持つ社会全体が受け入れることのできる善は定義できないのでしょうか。

A 回答 (2件)

前回はお返事ありがとうございました。

今回も気になってしまったので、回答してみました(笑)

vlaskoさんが「困っている人を助けるのは正しいこと」だと考えれば、困っている人を見て助けると「正しいことした」になり、困っている人を見捨てると「正しくないことをした」になります。

他の人が「困っている人を助けることは、その人の為にならない」と考えていれば、困っている人を助ける人を見て「余計なことをしている」と思います。困っている人を見捨てると「その方がいい」と思います。

「困っている人を助けること」は、善でしょうか?悪でしょうか?それとも、どちらでもないし、どちらでもありえるのでしょうか?

どんな行為でも、たいていの人は、自分の世界モデルの中では間違ったことをしていないと思っています。

ヒトラーの命令によって沢山の人が殺されました。でも、彼は「ドイツ国民のために行っているのだ」と彼の世界観の中では正しい行いだと思ってしていたはずです。

ヒトラーの視点から見ればその殺人は「正義」であり、殺された人の家族の視点から見れば「悪」です。同じ行為に対して、別の価値が与えられます。

「善悪」という考え方がある限り、争い(戦争)はなくならないかもしれません。

殺された人の家族に対して、「殺人という行為は善でも悪でもありません」と言って納得させるという話ではありません。どんな行為にも元々「善悪」など存在しないというただそれだけの話です。

でも、人は自分の中でいろんなことを「善悪」に定義することによって、自分らしさというものができるのではないでしょうか。つまり、善悪の定義を作ることによって、はじめて「正しい行為」「間違った行為」ということの選択を可能にするからです。

>相対的な宗教や文化に依らずに、さまざまな背景(歴史や宗教や文化)を持つ社会全体が受け入れることのできる善は定義できないのでしょうか。

「困っている人を助けること」が社会全体が善として受け入れたら、社会はどうなるでしょうか?

個人が定義するのは自由ですが、社会全体が善として定義するものが増えれば増えるほど、生き難い社会になり、自分らしさがなくならないでしょうか?
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この回答へのお礼

解答ありがとうございます。「個人が定義するのは自由ですが、社会全体が善として定義するものが増えれば増えるほど、生き難い社会になり、自分らしさがなくならないでしょうか?」には
同意です。確かにタリバンの支配下にあるアフガニスタンなどは、生活が息苦しそうです。

お礼日時:2007/12/08 23:39

なぜ、善悪ありきなんですか。

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