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私とはどこを指すんでしょうか?
切った爪や髪も私なんでしょうか?
あと、私はいつまで私なんでしょうか?
死ぬまでですか?
私が脳みそなら脳死も私が死ぬ事になりますか?

A 回答 (12件中1~10件)

私というものを、受精卵から死亡にかけて固定した一定のものという考えのによって発せられる問いであると理解しました。

しかし肉体について、人間の細胞は死滅と分裂再生を繰り返し、時間が経過するとすっかり入れ替わってしまう存在であるのが実態であるとすると、なぜ精子や卵子は自分ではないのか、自分の祖先は自分ではないと考えるのか不思議なことになってしまいます。

肉体的には、刻々と変化する死滅と細胞分裂の連鎖があるだけで、固定した一定の私というものを見つけることが出来ません。精神的にも、心というものは常に外部の影響を受け、ころころと変化していることは周知のとおりであり昨日の私は今日の私ではありえません。

しかし、私はここに存在しているかに見える。こころも私がここにいることを暗示している。そのため、魂とか霊とかなにか一定不変の存在を想定して、個別の私があることにしたいと考えたのではないでしょうか。

生き物は酸やアルカリやその他の環境から細胞を守るため反応をしていると考えられますが、高度な有機体となった人間は単純な反応だけではなく、こころとか意識とかいわれる環境に対する高度な学習機能を持つにいたり、守るべき有機体を一定の範囲に限定する根拠を必要とするにいたったのではないでしょうか。

それが私であると考えます。
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自然が人類を敵とみなす時。

。。


自然を離れて繁栄することはできない

必要に応じて発生し伸びていったマンモスの牙が
伸びすぎて自ら生きるために食べることにたいしては邪魔になり
その生命の維持に支障が出たように

人類は自らが生きるために獲得した脳と知識の集積によって
自らの手により人類を含む地球上の生命全体の生存を危うくする

天罰などというものがあるとすれば
人類全体に降りかかる
バブルのような今の日本で
成功したと脳天気に楽しんでいる

本当の意味での神無月
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心は脳によって生ずる


人が考えるのは脳があるからである
したがって
脳のない植物は考えることをしない
また心というものもない

そんなことは誰にも解らない

細胞の集積の結果なのか
細胞単体でも心はあるのかなど

思考回路の少ない単細胞生物は種同士で集積して何らかの感情や思考はするかも知れない

生命とは一体なんであるか
生きているとは
それをつなぐものとは

神を恐れよ。。。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

お礼日時:2007/12/04 17:13

私というのは自我に目覚めた人間の感覚ですから脳でしょうね。

脳が機能しなければそのような意識は存在しませんから。

したがって体の一部は私ではありません、【私の体の一部】と言う言い方が正しいでしょう。
当然脳死は“私”の消失です。

と思います。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
多分、その通りなんだと思います。
自我が目覚める前に死んでしまったら、私は最初からいないのと同じですね。

お礼日時:2007/12/04 17:12

私というのは私という身体を通して生ずる反応性なのではないかと思います


私という意識を生ずる身体を失えば私という意識も失われるでしょう
髪や爪は私の身体を構成する一部分ですが切り離されれば私の一部分であったということになるでしょう
私という意識は私という身体とそれを取り巻く環境を通して獲得した反応性であるとすると
身体の状況やそれを取り巻く環境は時々刻々変化し
それに伴って私という意識も時々刻々変化するでしょう
時々刻々変化する私という意識の中にあって
私と意識するまたは意識させるような特定的な反応性が生ずるだろう
貴方と私が違うと解るように。
しかしまたその私という固定化されたと思われるような獲得された反応性でさえ変化していくものである。。。五蘊皆空
時々刻々変化するがゆえに心には実体がない
実体がない私という意識が何処に有るとかどこを指すかを言うことはできない

私とはこの身体を通して知ることのできる全体性だと思う

私とはこの身体があってはじめて意識できるものであり
私というこの意識を生ぜしめるこの身体はこの空なる気やこの大地や太陽が在ってはじめて生ずることができ
両親がいて生まれ
育てられ
他の生物を食べることによってその生命を維持し
社会を構成する人々が生活するに必要とされる仕事をそれぞれしていくことで維持される
では私という意識を維持するものの構成から何を取り去っていったら私という意識を維持できなくなるのだろうか

私とはなんと微々たる存在であることであろう
私という意識はどれだけ多くによって支えられていることであろう
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

お礼日時:2007/12/04 17:07

1.あなたが認識している対象から、「自分で無いもの」を、どんどんと取り去った後に残るもの。

それが自分、自我です。
2.移り変わる現実の中で、「これだけは変わらない自分だ」と思えるものや、時間と共に変化する自己を統一するもの。
3.1、2の様な事をさらに外側から認識できる主体。思考できる自我ですね。

とりあえずは、今感じている全てを認識している(見ている)モノが、自分であると考えればいいと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

>時間と共に変化する自己を統一するもの。
これは何かすごく大切な気がします。
自己を統一できなくなった時に私はなくなる、という気がします。

お礼日時:2007/12/04 17:05

自分ではない他者を思いやったとき、人は自分自身を見つけます。

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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
あるか、ないかもまず考えなくてはいけないのですね。
私はすでにあるものと考えて、どこにあるのかという事から考えていました。

お礼日時:2007/12/04 17:00

仏教的な回答を試みようと思います。



視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚・意
に対象が触れ、何かしらの感覚が生まれますよね。

それを私と認識するのが理性的だと思います。

もう少し掘り下げると、五蘊が認識できる範囲として言えるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

お礼日時:2007/12/04 16:55

「私」とは、自分以外の人間に対する自分という存在を指す言葉だと思います。


会社がお客様に対して「私ども」という言い方をするのは、会社以外の人間に対しての「私」と言っています。
仲のいいグループが「今度私らで旅行行かない?」とか言うのも、グループ以外の人間に対しての「私」です。

>切った爪や髪も私なんでしょうか?
切った爪や髪は存在の主体となる体からもう切り離したものですので「私」にはならないと思います。
「私の(切った)爪」「私の(切った)髪」という言い方はしますが、爪や髪自体が「私」ではありません。

>あと、私はいつまで私なんでしょうか?
死ぬまでですか?
死ぬまで「私」だと思います。
もし死んだ後も生きていた時とつながる意識(生きていた頃の自分を「自分」と思える意識)があるのなら、「私」のままだと思います。

>私が脳みそなら脳死も私が死ぬ事になりますか?
脳死の状態で自分自身を「私」と認識する事はできませんが、自分の存在はありますので、脳死になったとしても「私」だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
その肝心の私の存在というのがわからないのです。
なので存在の主体もわかりません。
脳死状態になったからの自分の存在とは肉体以外に何なのでしょうか。

お礼日時:2007/12/04 16:54

>私とはどこを指すんでしょうか?


それは定義的な話だと思います、A~BだとAさんが決めればA~Bだし
D~Eだと決めればD~Eなんではないでしょうか?
>切った爪や髪も私なんでしょうか?
それはあなたが決めたらそれは自分だろうし自分じゃないと決めたら
それは自分ではないのでしょう、またどちらもありだと思えばどちらも
ありでしょう。そんなの考えようがないと思えば考えようのないものになるのでしょう。
>死ぬまでですか?
上記同様
>私が脳みそなら脳死も私が死ぬ事になりますか?
上記同様
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

お礼日時:2007/12/04 16:49

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