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天皇家と藤原氏についてあなたの意見を聞かせてください。

A 回答 (5件)

どちらも貴族です。


でも、現代では天皇家の末裔ははっきりしているのに、
藤原家の末裔ははっきりしていないのが謎。
天皇家があれほどに報道でとりただされているのなら、
藤原家も同様であった良いのではと思う。
逆に、藤原家同様に、天皇家の報道をひかえるとかね。

って、質問の答えになってます?
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『逆説の日本史〈4〉中世鳴動編―ケガレ思想と差別の謎』


を読んでみてください。

天皇家と藤原氏の関係(藤原氏の寄生虫主義)については、
著者の井沢氏の主張にほぼ同意します。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094020 …
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No.2の補足です。



質問が「あなたの意見を聞かせてください」でしたので、
逆説の日本史で主張している、藤原氏の寄生虫主義について
説明します。

奈良時代から平安時代にかけて、一時期を除けば藤原氏が
政治の実権を実質的に握っていました。

これだけ長期間政治の実権を握っていれば、舞台が中国で
あれば前王朝を倒し、自分で王位につくような動きになります。

しかし、日本の藤原氏はそういう行動は取りませんでした。
なぜかと言えば、自分の主人をやっつける「革命理論」が
日本にはなかったからです。
自分の主人を打ち倒して、自らの権力の正統性を主張する
には、それなりの理論武装がないと誰も付いてこれないで
すよね。

中国には「易姓革命」といって、革命を起こして自分の主人
をやっつける理論体系があります。儒教の孟子という人が
この説を説いています。

けれども日本には儒教は伝わりましたが、「易姓革命」の
思想はまったく普及しませんでした。

それで天皇家に代わって藤原王朝を樹立できなかった藤原氏
は、天皇家と一つになることで、自らの権力の正統性を主張
します。それが「摂関政治」であるわけです。

自分の娘を天皇家に嫁がせることで、藤原氏が国家の最高
権力者(立場上は)である天皇家と一つであることを誇示
することで、自らが握る権力の正統性を保とうとしたわけ
です。

細かい話は、逆説の日本史を読んでみて下さい。
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No.1さん、藤原氏の末裔がはっきりしていないって...


全国の藤原さんが怒りますよ。(w

姓が伝えられず、明治になってから、旧主や土地の名前を姓にした家は別にして、まず、藤原さんは、その姓の通り、藤原氏です。

そのほかにも、加藤、安藤と言った物も、地方に流れて土着化した藤原氏が、その土地の名前と藤原の一時を姓にしたもので、多くが、藤原氏です。

また、そのほかにも、近衛、一条、二条、三条、西園寺、鷹司等、多くの藤原氏の末裔が今でも残っています。

定家の藤原家も、その姓を冷泉と変え、今でも、京都きっての名家の一つとして残っています。

藤原氏族は、おそらく、祖を唯一人の人間に求められる氏族の内では、日本最大級の物です。

直接の回答ではなく、ごめんなさい。
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天皇家と藤原氏の関係という時、日本の天皇家はどういう家系かということが問題になります。天皇家のような立場は、世界の文化上では珍しいものではなく、これは「シャーマン王」と呼ばれるもののヴァリエーションになります。

しかし日本のシャーマン王家・天皇家は非常に特殊なわけで、どこが特殊化というと、成立発端の時点で、すでに相当に大きな民族のシャーマン王で、初期は世俗王もかなていて、その後、世俗王でなくなってからも、非常に長い期間、家系が永続したことと、シャーマン王として君臨する民族の人口が、莫大なものだったということです。現在では、1億2千万になっています。

人口数万とかの部族のシャーマン王はいるのですが、人口1億を超える民族のシャーマン王は日本にしかいないのです。(ヨーロッパの王家も、シャーマン王家的要素はあるのですが、西欧では、霊的・精神的な中心は、ローマ教皇が古くからいるので、シャーマン王家としては、非常に弱いものになるのです)。

天皇家と藤原氏は、血縁的に見れば、また遺伝子的に見れば、区別がありません。平安時代の中期・後期になって来ると、天皇家の当主と藤原の氏の長者の当主は、天智・天武などの血をどれぐらい受け継いでいるかという点では、同じになります。天皇と藤原の娘の子である天皇が藤原の娘の子を次の天皇にしてゆくということな繰り返したので、天皇家固有の「血」などはなくなったのです。

日本では、天皇に弓を引くことは、ある程度の教養があればできないことだったのです。「古事記」「日本書紀」で、天皇は、天照大神の子孫で、日本を統治するため天から派遣された天の子孫だと書いてある訳です。奈良時代や平安時代初期に、この記述を反復して伝える文書が多数できあがり、人々もそう信じていたので、藤原氏が幾ら権力を握っても、天皇に取って代わることはできなかったのです。

天皇家が世俗王家であれば、藤原氏も取って代わることができたかも知れませんが、シャーマン王家で、「霊力」を持っているのが天皇なので、霊力などない藤原氏には、取って代わることができなかったというのが事実です。

また、藤原氏が、「成り上がり者」だという事実は、奈良・平安を通じて常識でした。藤原不比等が権力を握っても、彼の死後,別の氏族が有力になっていれば、藤原氏の特権性はなかったのですが、不比等に劣らず、政治謀略に長けた、藤原四兄弟を不比等は残したので、彼らが、四つの家に分かれて藤原氏の優越性を作った後、通常の氏族では、太刀打ちできなくなったのです。

しかし、大伴などの古代の名門に比べれば、藤原氏は、不比等が恐るべき有能でしたが、その祖先は、名門などではありません。中臣鎌足が有能であったのは有名ですが、それ以前はというと、記録がありません。飛鳥時代に、中臣勝海という人物がいたとされますが、こういう人物はいなかったという説もあります。鎌足で名を挙げ、不比等で権力を掌握しましたが、鎌足以前は、中臣という氏族は無名であって、実は、氏族としてもなかった可能性が高いのです。

少なくとも、こういう二つの大きな理由(天皇家はシャーマン王家であったと、藤原は成り上がりであった)から、藤原氏は、天皇家にとって代わることはできないし、せず、変わりに、外戚として権力を掌握し、それも代代外戚として、シャーマン王家の外戚家系としての地位を占めたのです。

天皇家と藤原氏は、互いに巻きついた二本のつるのような関係で、天皇家がシャーマン王家、藤原氏は、外戚家で、世俗王の地位を藤原氏が独占したのです。この関係はずっと続くのであり、武士が権力を握って、世俗王の立場に立ち、藤原氏が世俗権力を失った後も、藤原氏は、シャーマン王家の外戚家としての地位に留まり、天皇家と藤原氏は、先に述べたように、互いに絡み合う、二本の蔦のような関係にあったと云えます。

天皇家はあくまでシャーマン王家ですが、血で見れば、藤原氏と天皇家は同じようなものだということになります。違うのは、天皇家はシャーマン王家で、元々霊的に不可侵なのですが、藤原氏が自己の権力保身のため、天皇家をますます不可侵にしたので、鎌倉、室町、江戸と幕府が世俗王の地位についても、天皇家を廃することはできず、戦後、GHQも廃することができなかったのです。

ここ半世紀はともかく、1400年にわたって、藤原氏と天皇家は、シャーマン王家とその外戚家として、互いを支えてきたのだとも云えます。
 
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