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自然や芸術作品を見て美しいと感じるメリットはなんですか?
進化する上で便利なことでもあったのでしょうか。
また、黄金比というものがありますがなぜあの比率なのですか。

その他にも「進化論視点からのメリット」以外のアプローチも聞かせて頂けたら幸いです。

A 回答 (3件)

私は母方の家系から美的センスを受け継いでおり、絵画の良し悪しが分かるほか、芸術の理論もある程度は理解できるという自負を持っていたのですが、Tarou_Y様の質問は、あまりにもストレートな剛速球で、一瞬、頭が真っ白になってしまいました。



が、良い刺激をいただいたものと考え、気を取り直して、出来る限りのことを書かせていただこうと思います。

まず進化論的アプローチですが、結論から述べますと、哺乳類の場合は美しさのメリットはゼロ、鳥類の場合は美しさのメリットあり、だと思います。鳥類は嗅覚が退化して視力が進化しており、色を認識する能力も高いという傾向があります。したがって、鳥にとっては美しさや色の鮮やかさは健康状態が良好であることを示す指標であり、クジャクを頂点として、異性の獲得には美しさを競い合うことが多く、それにより、健康状態が良好な子孫を残していくという実利があるように思われます。他方、哺乳類は極度に聴覚が発達した生き物であり、色彩を認識する能力は低いという傾向があります。人間は哺乳類の中では少数派の優れた色彩感覚を持っている動物ですが、哺乳類の枠から外れるほどの特殊な生き物ではありません。哺乳類の場合、異性の獲得は、直接的な体力勝負で決まる傾向があり、極端な例ではオットセイは一番強いオスが多数のメスのハーレムを作るという生物だし、昨日NHKで放映された「ダーウィンが来た」によれば、もっとも人類に近い類人猿のチンパンジーにしても、メスや群れのリーダーの座を争う際は、体力の誇示が基本だそうです。

次に、自然と美という観点についてですが、自然を美しいと感じるのは、癒し効果があるとかリラックスするとかいう程度のメリットしかないと思います。かつては自然の模写がもっとも優れた美術であると考えられていたこともあるのですが、ヨーロッパ文化の場合、近代の始まりと共に強い自我を肯定的にとらえる傾向が出てきて、単なる自然の模写よりも、人間の内面を描いた精神的作品のほうが優れているという方向に考え方が変わってくるわけです。この傾向は、シュールレアリズムやドイツ表現主義において頂点に達し、フロイトの内面心理分析とも密接な影響関係を持ちながら勢力を拡大させていきます。また、カメラの登場により、写実の価値が激減してしまい、美術には写実を超えた何かが求められるという傾向が強まります。その結果、人間性を描いた作品をさらに乗り越え、美の基準が分からなくなってしまった時代において、純粋に色彩や形態だけで強く心を刺激するという象徴絵画や、写実性の残滓を示しつつも、人間などの形態を極度にデフォルメして描くキュビズムなどが登場してくるのです。この傾向を極端に推し進めたのは実験的絵画やダダイズムに分類されるマルセル・デュシャンという人物で、単なる目に優しいだけの絵は「網膜的」なものに過ぎないと言う主張をしています。

美術が算数と大きく違う点は、答えはひとつではない、ということです。一般論からいえば、こういった空間配置や色彩感覚が望ましいという古典的な基準はいくつかあり、黄金比もそのような基準のひとつだと思えばよいでしょう。なぜ黄金比を見て人間が美しさを感じるのかというと、おそらく、黄金比が木の葉や巻貝など自然界で見られることが多く、それを見て美を感じるという、自然の癒し系効果の延長上にあると思います。つまり、黄金比は古典的な絵画理論であり、現代において最新の理論であるわけではありません。

しかし、美術だけではなく全ての分野について言えることですが、何事も基本をマスターした上で、自分のスタイルを貫くのが最強の王道です。絵画の場合、感情のおもむくままに色彩を塗りたくるロマン派の傾向に対して、基本を理解しつつ、それからの逸脱を柔軟に許容する新古典派という一派が出てくるのは、必然的な結果であると思います。たとえば、新古典派の巨匠はアングルという画家ですが、古典派のレオナルド・ダ・ヴィンチと同様、人間の体についての解剖学的知識を持っており、どういう体勢をとるとどこの筋肉が盛り上がるはずだとか、どの部位はここまで曲げることが出来るが、それ以上曲げると脱臼するだとかいう知識を持っているわけです。にもかかわらず、それを無視してでも、「多少の嘘っぱちが混ざっているが、こっちのほうが説得力がある」という理由でデッサンを決めてしまうのです。彼はデッサンの天才と言われていますが、たとえば力強い老人男性の肖像画を描くときは、どのようなポーズを取らせたら最も効果的に、この老人の力強さや精神力を表現できるか考えた結果、いすに座った男性が両手でひざをがっしりつかんでいるポーズを採用、この腕を描くために、解剖学的正確性を無視して、腕がうなっているように描いてあるのです。解剖学的正確性にこだわるより、人間の内面を的確にとらえるには、そちらのアプローチのほうが向いている、という良い例だと思います。

これが、問題のアングル作品です。腕だけでなく、いすの形も不自然な構図だと思います。隠れている側には表に出ている側とはちがって、ひじかけ部分が存在しないという特殊ないすでないかぎり、この体躯の人物が狭いひじかけの間に入れるわけがないように思います。
http://www.izo.com/images/2007/09/09/070909ingre …

以上、なんとか説明しましたが、分からないことがあれば、お気軽に質問ください。絵画のよう感覚的なものを説明するには、言葉は適しておらず、あなたが意味を理解できないこともあれば、私が適切な表現を思いつかないときもあるでしょう。出来る限りで、なんとか回答したいと思います。

このたびは、めったにない、すばらしい文化的刺激を与えていただき、まことにありがとうございます。

以下は雑文で、興味がなければ読み飛ばしていただいてもよいのですが、私はもともと、大学生の時に、ドイツ人哲学者ヘーゲルという人の社会科学を勉強していた人間です。ヘーゲルは芸術も結構分かる人で、美学についてもいろいろと深いことを言っていたのですが、学問は細分化が進んでおり、彼の美術論については、私は教科書的な知識しかもっておりません。今回、Tarou_Y様のご質問に返答させていただくに際して、あわててヘーゲルの美学の解説を読み返したのですが、ほとんど参考にならなかったどころか、突っ込みどころばかり見つかりました。彼はイスラム教の詩を評価していましたが、偶像崇拝禁止のイスラム美術については言及がみつかりませんでした。おそらく、本物のモスクやカリグラフィーは見たことがなかったのだと思います。また、古代ギリシャの美術を高く評価するのに対してローマは嫌いという特徴を持っており、ローマ的な建築やモザイク画やイコンへの言及も見つかりませんでした。この思考の枠組みだと、ローマ帝国が東西に分裂した後、東ローマ側ではギリシャ化が進み公用語がラテン語からギリシアに切り替わったという史実は説明できません。これも多分、モザイク画やイコンは見たことがなかったのでしょう。また、彼は西欧旅行は何度かしているのですが、彼がアングルを見る機会があったか、非常に興味深いところです。彼の説明の体系上、新古典派の出番は本来は存在しないのですが、彼は現実感覚に富んだ人物であり、多少の体系上の不整合があっても、優れた作品と判断したものは、なんでも取り込みます。ドイツではフランスと違って、ロマン派と新古典派の争いという現象が明確でなかった可能性があり、アングルの「基本は守りつつ、人間性の表現のためなら、多少の逸脱やデフォルメはやる。絵画全体としての予定調和を壊してしまうことはせず、全体としては調和的にまとめる」というのは、ある意味、非常にヘーゲルに近い態度で、興味が尽きないところです。
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この回答へのお礼

色々勉強になりました。たしかに写真がある以上、写実性のみの追及は厳しそうです。
また、進化論的に色の識別で健康状態を見られるという実利があることは知りませんでした。
直接的な体力誇示のほうが「生き残る」という点で優れていそうに見えますが、
誇示の時点で怪我をする可能性やエネルギーの浪費がありそうかなぁとも考えました。

そして、アングルのじーさんの絵を見て「おお」と思いました。なんかいいですね。
でもたしかによくよく見ると形は不自然ですね。現実的すぎたら「おお」と感じないのかもしれません。

現実に自然に存在する美しさや人の内面を描画した現実性を超越した絵画、
美しさにも色々あって模索していくときりが無いのかもしれませんね。

ヘーゲルは後で読んでみたいと思います。
「矛盾」という存在への違和感はなぜ起こるのか不思議なので、
体系上の不整合があっても取り込むというのは興味深いです。
もしかしたら違和感を感じる矛盾と感じない矛盾があるのでしょうか。
色々考えてみようとおもいます。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/22 07:32

なんでしょうかねー・・・?



「芸術作品」は「自然」を美しいと感じた人のフィルターを通した表現ですから同じ物と言えますよね。

メリットというと良く分からなくなりますけれど、私は「進化」とはあまり関連づける感じにはならないですね。
「黄金比」というものが様々な遺跡にみられる事からの連想でしょうか?

その歴史に詳しくは無いですが、あれは私のイメージではとても数学的な画一的なものに思えてしまうんですね。

例えばアフリカのお面なんてそうした規格から完全に自由ですよね。
そして真似の出来ないエネルギーと人の原初にある躍動感を感じさせてくれる。

「自然」に直面したときのその圧倒的な存在に震えてしまう事が「芸術」の元と思いますが、その「自然へ飲み込まれる」感覚を「美しい」と表現するのはちょっと違和感を感じますね。

そうした「芸術」という表現を通して、「自然」って素晴らしいのよ。っていう肯定的な考えが蔓延したところから生まれた「自然とは美しい」」という「言葉」なんじゃないかと思います。

だから「自然」は愛すべき物、という押しつけ的な考えは近代化から生まれたんじゃないでしょうか?
それは「近代化」という「進化」とは言えない人の「幻想」の教訓みたいなもので、実際の「自然」に「圧倒」されてしまう感覚自体は何も大昔から変わっていないと思います。

そもそも「人」という現在の「ホモ・サピエンス」から特別何も「進化」というものはしていないに等しいと思いますよ。

石器時代から現代まで「文明」は大きく変わりましたけれど、それは「ホモ・サピエンス」という種が「進化」したという事ではなくて、「ちょっと合理的に変わった」ぐらいの変化と思います。
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この回答へのお礼

私は夕焼けをみて「おお!美しい!」と恥ずかしながら感じてしまいます。
たしかに純粋な美しいではなく圧倒的な情動感覚なのかもしれません。

進化に結びつけたかったのは人間独特といわれている複雑な感情や利他主義に近い行動ですら、
利己主義に支えられているという話を聞いた事があり、
ほとんどの感覚になんらかの進化上の意味があるのではないかと思ったからです。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2008/02/22 06:59

「美しい」というのは、私の考えでは、思想や思考力です。


たとえば、「夕陽」だの「海」だの「山」だのを美しいと感じるのは、私たちが誰かから「それが美しいことなんだよ」と(おそらく無意識的)に教えられているからにすぎません。だから、たとえば「吐瀉物」が美しい、と感じないのは、そう教えられていないからです。そう感じるのも、異常なことではないはずです。
ですから、美しいと感じることは「ものを考えたり」することと等しいです。ものをきちんと考えなければ、人は一般に美しいと思われているもの以外の美しいものにであったとき、「わけがわからん!」とか「きもちわるい!」とか言うしかないからです。

ですから、メリットとして、「ものをきちんと考えられるようになる」ということが挙げられると思います。

というのは建前で、美しいものを見て自分が気持ちよいと感じる、だけでよいのではないでしょうか。

黄金比、進化論についてはわかりません。あしからず。
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この回答へのお礼

教育によって美しさの基準が植えつけられるわけですね。

たしかにそういった基準を作っておくことにより、
社会体系を成す事が楽になるのかもしれません。


ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/22 06:51

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