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昭和16(1941)年12月、日本はアメリカ、イギリス、オランダに戦争を仕掛けました。日本はイギリスとオランダとの戦闘には圧倒的に強かったけれどもアメリカにはやられました。そもそも日本は、なぜアメリカに戦争を仕掛けたのでしょうか。

当時、日本は鉱物資源が不足しており、殊に石油の需給は逼迫していました。そのため、オランダ領東インド(現、インドネシア)から石油を輸入したかったのですが、オランダ政府が対日供給に消極的でした。そのため政府と統帥部は、武力を行使して当地方を支配下に置く方針だったのです。

しかし、それならば、オランダにのみ戦争を仕掛ければ良いはずで、アメリカとイギリスにも同時に戦争を仕掛けた理由が分かりません。

A 回答 (10件)

#7です。



>北朝鮮の軍艦が対馬海峡や津軽海峡を航行したら、マスコミと国民は大騒ぎになるでしょう。しかし、だからと言って、日本政府は北朝鮮に抗議できるでしょうか。まして日本の軍隊(自衛隊)が北朝鮮の軍艦の航行を妨害できるでしょうか。その軍艦を攻撃できるでしょうか。両海峡とも国際海峡なのです。日本に危害を加えない限りは、我々は北朝鮮の軍艦を見物するほかないのです。

>蘭印(オランダ領東インド)の資源を積んだ日本の商船がフィリピンやマレーの近海を航行する際には日本海軍の軍艦が護衛しますが、その場合も、フィリピンの米軍もマレーの英軍も手が出せません。公海だからです。日本の軍艦を見物するほかないのです。

現代の方が例えとして分かり易かったと判断した私が間違っていました。例えとして出した、現代の、国連や国連安保理がその機能を如何なく発揮し、国際公法も遵守され仮に違反した場合には国際司法裁判所で裁かれる「平和な」時代と当時とでは、時代背景も国際関係も全く異なるのです。例として不適切なものを提示してしまい、申し訳ありませんでした。

確かに、現代であれば、質問者様の様に「日本の軍艦を見物するほかない」という結論に至ることに対して異議を差し挟む余地は全くありません。しかし、当時、既に日独伊三国軍事同盟(枢軸国)vs.ABCD包囲網(連合国)という国際関係上の対立の構図は出来上がっていました。ただ、そうした中でも「日米諒解案」はデリケートな国際関係の間隙を抜ってできた産物と言えましょう。

それを機能不全にしたのが松岡や近衛達であることは昨日ご説明した通りですが、さらにそれを追い討ちにかけるように決定的にした動きドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)とアメリカの対独参戦及び対ソ援助の開始で、これによってもうアメリカは日本に対して宥和策に出ないと「腹を括った」わけです。

昨日書き落としてしまったことがあります。細かいことですが、もう少しこの後の日米関係をみていく上で重要ですのでお付き合い下さい。

アメリカの対独参戦の後、7月25日、アメリカが在米日本資産の凍結令を公布。7月28日、日本軍が南部仏印に進駐。8月1日、アメリカは直ちに対抗措置として対日石油禁輸に出る。これはもう今のアメリカの北朝鮮に対する制裁措置どころの話ではありません。既に日本は軍隊を南部仏印に進駐させており、南部仏印で軍事衝突の可能性がある。フランスには当時ナチスの傀儡のペタン率いるヴィシー政権とは別に、ロンドンにド・ゴールの亡命政府があり、フランス国内ではナチスに対する地下でのレジスタンスに必死という時代で、連合国側は当然ヴィシー政権を認めていませんから、これは連合国側領土に対する進駐と同様と映るでしょう。

アメリカの対日石油禁輸とは、要するに資源のない日本にとって艦隊や商戦を動かせる燃料の補給を断つ意味がありますから、それでも強引に日本の商船と護衛の艦隊をオランダ領東インドに差し向ければ、今度はアメリカは自衛のためという口実で日本の商船と護衛の艦隊を沈めにかかるでしょう。公海を航行していようと何だろうと最早関係ないわけです。

なぜ自衛目的でアメリカは日本の商船と護衛の艦隊を沈めることが認められるのか――。その理由は、当時、既に遠く大西洋で、アメリカからはイギリスへの援助物資を満載した輸送船が多数就航していました。各船団には駆逐艦の護衛がついており、これをコンボイと呼んでいました。もし輸送船団がドイツ潜水艦に攻撃されれば、護衛の駆逐艦と潜水艦は戦闘状態に入り、それは米独戦争の開始ということになります。アメリカは、そうした戦闘を「自衛権の発動」とみなしていたのです。全く同じことが太平洋にも当てはまるからです。

この回答への補足

>当時、既に遠く大西洋で、アメリカからはイギリスへの援助物資を満載した輸送船が多数就航していました。各船団には駆逐艦の護衛がついており、これをコンボイと呼んでいました。もし輸送船団がドイツ潜水艦に攻撃されれば、護衛の駆逐艦と潜水艦は戦闘状態に入り、それは米独戦争の開始ということになります。アメリカは、そうした戦闘を「自衛権の発動」とみなしていたのです。

アメリカは非常に身勝手です。当時、英独は(国際法上)正式の戦争状態にありました。この場合、戦争に巻き込まれたくなければアメリカは中立を守らなければならないのです。にも拘わらずアメリカはイギリスに軍事物資を援助しました。アメリカは中立を放棄したわけです。このアメリカに対してドイツは攻撃する権利があったのです(アメリカの輸送船団のみならず米本土を攻撃しても良い)・・

>もし輸送船団がドイツ潜水艦に攻撃されれば、護衛の駆逐艦と潜水艦は戦闘状態に入り、それは米独戦争の開始ということになります。

大西洋でアメリカ輸送船団がドイツ潜水艦の攻撃を受け、護衛の駆逐艦が潜水艦に報復攻撃を加えるという場面は実際、頻繁に発生しました。アメリカ軍民の犠牲者も出ました。その都度アメリカのマスコミも報道しました。しかし、アメリカの世論の多数は、依然として欧州戦争への参戦に消極的でした。ドイツとの本格的な戦争に反対だったのです。だからルーズベルト政権は対独宣戦布告できなかったのです。

(1)万が一、バシー海峡で日米両軍の戦闘が発生しても、それは局地的な紛争に終り、日米の全面戦争に発展する可能性は低い。
(2)仮に全面戦争になるとしても、アメリカが日本に第一発を発射するか、または宣戦布告するかのいずれかのケースが発端となります。つまり日本は、国際社会の場で、「日米戦は日本の自衛戦争である」と主張できる明確な根拠を確保できる。アメリカと戦争するにしても、アメリカ側に第一発を打たせるべきです。

補足日時:2008/02/24 13:53
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#9です。



まず、昨日私の書いた回答を補足説明することから始めます。ABCD包囲網が存在するということは、アメリカとオランダとの間に既に同盟関係が存在していることを意味します。また、フランスもナチスに占領されていたとはいえ、ロンドンにド・ゴールの亡命政府があり、連合国側はこちらを正式なフランス政府と認めていましたから、フランスも事実上連合国側にあったわけです。但し正確に連合国という名称になったのはルーズヴェルトが連合国宣言(Declaration by United Nations)を発した1941年12月だそうですから(下記参照)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88% …
フランスは連合国側ではないと言われるかもしれませんが、これは単なる名称の問題であって、事実上は連合国側にいて枢軸国側ではない、ということを明らかにしておきます。

こうした情勢の中で、1941年7月28日、日本軍が南部仏印に進駐したことは、当然のことながら後の連合国の母体となるABCD包囲網にとって連合国側への領土への侵攻であることを意味します。日本側の目的は、当然、オランダ領東インドを伺い、その資源(石油、ゴム、錫、ニッケル等)を獲得するための海上輸送を陸からバックアップすることにあった行為であると言えます。海上輸送を安全に行うためにはもちろんこれだけでは不十分で、そのためには米国領フィリピンの占領が必要となります。事実、後の1942年1月、日本軍はマニラを占領し、その後、4月にバタアン半島、5月にコレヒドール島の米軍を降伏させ、まもなく在フィリピンの全軍を降伏に追い込みます(フィリピンの歴史―下記参照)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3% …

さて、時間の針を逆に戻して、1941年8月1日、アメリカはこの日本軍の南部仏印進駐に対する対抗措置として対日石油禁輸に踏み切ったのは昨日も書いた通りです。つまり、アメリカは日本の艦隊や商船を動かす燃料の補給を断とうとしたわけです。

こうした情勢の下、もし日本がオランダのみに宣戦布告したら、果たしてアメリカ、イギリスは黙っているでしょうか。もしそのまま沈黙を守って日蘭戦争が始まったなら、アメリカ、イギリス、特にアメリカは同盟のよしみで必ず助太刀に来るのは当然です。そうでなければ、アメリカが対日石油禁輸措置に出た意味がなくなってしまうからです。アメリカ1国で対日石油禁輸措置を行っても、オランダ領東インドを日本に奪われてしまったのでは、そこから石油等が日本に輸送されることとなってしまうため、それでは元も子もなくなってしまうからです。

そこで出てくるのが、アメリカ得意の論法、質問者様が「非常に身勝手」と非難されている「自衛権の発動」です。より正確に言えば「自衛権の拡大解釈」です。

昨日は私の頭の中だけで書いたつもりになっていましたが、要は大西洋で行われていた「自衛権の発動」のロジックが太平洋でも出てくるということを書いたつもりでいましたが、よく読んで見ると書いていませんでした。大西洋と太平洋とでは、登場人物は異なりますが、その関係はまさしく相似形を呈しています。大西洋の登場人物(左側)を太平洋(右側)ではこう読み替えて下さい。
「ドイツ軍の潜水艦」→「英米蘭連合の海軍、またはアメリカ単独の海軍」
「アメリカからイギリスへ援助物資を満載した輸送船と駆逐艦の護衛(コンボイ)」→「オランダ領東インドから日本へ資源を運搬する日本の商船と日本軍の護衛艦」

ではこういう関係になると、大西洋でアメリカが「自衛権の発動」としてドイツの潜水艦に報復攻撃を加えたことが、今度は日本が「自衛権の発動」として英米蘭連合の海軍、またはアメリカ単独の海軍に対して報復攻撃できるではないか、と思われますが、いかがでしょう?その答えは既に質問者様自らこうお書きになっています。

>このアメリカに対してドイツは攻撃する権利があったのです(アメリカの輸送船団のみならず米本土を攻撃しても良い)

普通、「自衛権」というと、現代の日本では他国から侵略を受けた場合のみ発動される、いわゆる「専守防衛」という概念を想定しがちですが、満州事変でも日中戦争でも第二次大戦でも、当時は全て「自衛権の発動」あるいは「自衛のための戦い」として自国が戦争を行うためのロジックとして使用されています。満州を守るために中国に侵攻する戦争など、例はいくらでもあります。現代の我々から見れば、これはもう「自衛権の拡大解釈」としか言いようがないのではないかと思われます。もっともアメリカは今でも「自衛権の拡大解釈」として「テロとの戦い」のためアフガンやイラクを攻撃したと言えなくもありませんが、それは今回の質問から逸脱しますのでこの辺で止めて置くことにします。

話を元に戻して、このように「自衛権の拡大解釈」が戦闘行為を合目的化することが可能になるとすれば、もし日本が「自衛権の発動」として英米蘭連合の海軍、またはアメリカ単独の海軍に対して報復攻撃すれば、今度は英米蘭連合なりアメリカも「自衛権の発動」として再報復攻撃することもロジックとしては可能になるわけです。こうして今度はアメリカがオランダ領東インドから日本へ資源を運搬する日本の商船と日本軍の護衛艦を攻撃するわけです。これは詭弁でも何でもなく、歴史上の事実です。質問者様が大変いいヒントを下さいました。バシー海峡(↓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B7% …
を調べてみたところ、このような記述を見つけました。
「山本七平は著作『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』にて、大東亜戦争おける日本の敗北が決定付けられた要因をミッドウェーの戦いやガダルカナル攻防戦に求めず、「輸送実績を重視せず、輸送しようとしたという判断のみで評価するようになった」という点より、1944年以降、この海峡で輸送船が連合国軍の艦船によって、ほぼ100%沈没させられた事件を上げている。
後に小説家となる柴田錬三郎が乗り組んでいた輸送船が撃沈され、7時間に渡り漂流する経験をした地点としても知られる。」
つまり、先程書いた、1942年5月の日本軍による在フィリピンの全軍降伏以降、1944年までは、フィリピンは日本に占領されていた(実際には日本の軍政期は1943年までで、同年、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン共和国という日本の傀儡政府が建国された)ため、安全にオランダ領東インドから日本へ資源を運搬することが可能だったわけですが、それも1944年までであったというわけです。1944年というのは、米軍がレイテ沖海戦を経てレイテ島上陸を果たした年です。
>大西洋でアメリカ輸送船団がドイツ潜水艦の攻撃を受け、護衛の駆逐艦が潜水艦に報復攻撃を加えるという場面は実際、頻繁に発生しました。アメリカ軍民の犠牲者も出ました。その都度アメリカのマスコミも報道しました。しかし、アメリカの世論の多数は、依然として欧州戦争への参戦に消極的でした。ドイツとの本格的な戦争に反対だったのです。だからルーズベルト政権は対独宣戦布告できなかったのです。

おっしゃる通り、確かにアメリカの直接の対独宣戦布告は1941年12月11日、つまり真珠湾攻撃後のことであり、ドイツ潜水艦(Uボート)の攻撃を契機に行われたものではありません。しかしながら、1940年にはイギリスの孤軍奮闘が伝わるとアメリカ世論も対英支援へと傾き、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻の結果、同年11月にルーズヴェルトの三選が決まるや、すぐさま対英軍需援助が発表され、やがて「武器供与法」として成文化され、イギリスやソ連に対する援助が行われています(下記参照)。
http://www17.ocn.ne.jp/~senshi/eidokukoukusen1.h …
つまり既に1941年11月の段階でアメリカはイギリスやソ連に対する援助という形で「間接的に」対独戦に参戦していたと言えます。
>万が一、バシー海峡で日米両軍の戦闘が発生しても、それは局地的な紛争に終り、日米の全面戦争に発展する可能性は低い。

それは一連のフィリピンでの日米での戦闘、つまり日本軍のマニラ占領(1942年1月)、にバタアン半島占領(同年4月)、コレヒドール島占領及び在フィリピン米軍降伏(同年5月)を単に「局地的な紛争」と評価するか、それともマッカーサーをして“I shall return.”と言わしめ、後のミッドウェー海戦敗北への伏線と評価するかで、大きく見方が変わってくることでしょう。

>日本は、国際社会の場で、「日米戦は日本の自衛戦争である」と主張できる明確な根拠を確保できる。

それは不可能です。まず先程も書いたように「自衛権の拡大解釈」が自国の戦闘行為を合目的化する概念になってしまっていることと、1931(昭和6)年の満州事変勃発と翌1932年のリットン調査団の報告書を受け、1933年、国際連盟で同報告書が承認されるやこれを不服としてその場で国際連盟から脱退してしまった日本は、既に国際社会に対して自国の主張をアピールする場を失っています。

この回答への補足

>こうした情勢の下、もし日本がオランダのみに宣戦布告したら、果たしてアメリカ、イギリスは黙っているでしょうか。もしそのまま沈黙を守って日蘭戦争が始まったなら、アメリカ、イギリス、特にアメリカは同盟のよしみで必ず助太刀に来るのは当然です。

私は日蘭開戦後、アメリカが直ちに対日参戦するとは必ずしも思いません。米英蘭が同盟関係だったにせよ、それは日独伊の同盟関係に比べれば、その緊密度は弱いものでした。日独伊三国同盟条約には、もしアメリカがドイツに宣戦したら日本は直ちにアメリカに宣戦するという『自動参戦条項』がありましたが、米英蘭の同盟関係はそれほど強力なものではなかったはずです。

ですから、ハル・ノートを突き付けられた直後の昭和16(1941)年12月1日、日本は御前会議で対米英蘭開戦の国家意思を決めましたが、私は、ここは対蘭宣戦布告に留め、米英については、戦争を売られたら受けて立つと決めるべきだったと考えます。これが一億の民を擁する日本の安全保障を担う国家指導者(統帥部、行政府)に求められる冷静沈着な判断です。

>ルーズヴェルトの三選が決まるや、すぐさま対英軍需援助が発表され、やがて「武器供与法」として成文化され、イギリスやソ連に対する援助が行われています。

その通りです。しかしイギリスへの武器援助は、ルーズヴェルトの三選の前から活発に行われていました。アメリカ国民は、武器の援助は良いけれど、アメリカの参戦には反対でした。第一次世界大戦終結から未だ20年しか経っていないのに、また息子達を戦場へ出さなければならないのか・・と。

補足日時:2008/02/26 00:44
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 11:53

オランダのみを攻撃する、という戦略はあり得ません。



なぜなら、もし首尾よくインドネシアを占領できたとしても、英米が参戦してきたらたちまち補給路を断たれ、窮地に追い込まれるからです。

この戦略が成り立つためには英米が絶対に参戦してこない、という確信が必要です。

じっさい、当時のアメリカ国民は反戦主義に傾いていたようですが、日本はそこを読み違えたのだと思います。
いまのように世界情勢がパッとわかる時代ではないですし、軍部は驕りのために、情報収集に力を入れようとしていなかった感があります。

この回答への補足

>軍部は驕りのために、情報収集に力を入れようとしていなかった感があります。

軍も外務省も、諜報態勢は弱体であり、情報分析能力も高くなかったと思います。

補足日時:2008/02/26 12:04
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 11:56

>オランダ領の資源が欲しければ、相手国をオランダに絞って戦争すべき



戦略的には全くおっしゃる通りです。実は私も最近偶然読んだ下記のサイト(オンライン書籍)に書かれていたことで、ようやく日米開戦の経緯が分かった次第です。それは、橋本惠氏の『イワクロ.COM~岩畔豪雄(いわくろひでお)と日米諒解案~』(↓)です。
http://www.iwakuro.com/index.html

まずオランダ領の資源(石油、ゴム、錫、ニッケル等)を運搬するには、当然のことながら、資源を載せた船舶が太平洋を航行しなければなりません。また、その船舶が安全に航行するためには、日本の海軍が護衛する必要があります。つまりそれは太平洋に日本の軍隊が展開することを意味します。

ただ、地図をご覧頂ければお分かりになりますが、その航路の傍にはフィリピンがあります。ここは当時アメリカの植民地でした。上述のサイトでは、第三章「日米諒解案の全貌」の「1.ワシントンに着任して」の「―悠長な話―」に詳しいことが書かれていますので、一部引用します。

「ABCD包囲網により戦略物資の輸入を絞られた日本では、石油を始めとした戦略物資の備蓄が日々確実に減少していた。
 「このままでは、今に、艦隊も動かせなくなる」
 そんな心配がまことしやかに囁かれ、軍部は水面下で南方資源地帯への進出を計画していた。
 「必要は全てを正当化する」
 日本にとってそれはもはや是非の問題ではなくなっていた。いかなる事態にも即応するのが軍人の本分である以上、それは当然のことでもあった。しかし、日本が資源を求めて南下すれば事態はさらに悪化する。何故なら、それはアメリカが自他共に認めるアジアにおける唯一の聖域、フィリピンを脅かすことになるからである。」

アメリカ側の視点に立って考えてみて下さい。自国の植民地であるフィリピン近海に日本の軍隊が展開するのを指をくわえて黙って見ていられるものでしょうか。当然何らかの軍事衝突が生じる危険性を感じるのではないでしょうか。現代風に言えば、北朝鮮の軍艦が対馬海峡を航行したら、日本政府や国民は黙っていられるでしょうか?

また、上記の説明にもありますが、既にアメリカはイギリス、中国、オランダと共にABCD包囲網により対日戦略物資の輸出を絞っていました。(Aはアメリカ、DはDutchつまりオランダです)。ただ、アメリカが日本に対する石油の全面禁輸措置に踏み込むのは昭和16年8月1日ですから、まだ完全にストップさせていたわけではありません。例えて言えば、日本、アメリカ、ロシア、中国、韓国の5ヶ国で北朝鮮に対する重油輸出を核の完全無力化がなされるまで輸出量を極端に制限しようという対北朝鮮政策のようなものが行われていた、とご説明すれば、理解し易いのではないでしょうか。なお、これは現実の話ではなく、あくまで例え話です。

ところで、このサイトに出てくる「日米諒解案」というのをご存知ですか?これは昭和16年4月22日、つまりハル・ノートが出されるより前にできた「たたき台」だったのですが、この内容はそもそも下記の契機で出てきたのを引用するとこうなります。
「神父(注:昭和15年11月25日に来日した、ウォルシュとドラウトの2人のアメリカ人神父のこと)達の呈示したシナリオはこうである――。
 日中戦争は既に泥沼化し、日本の陸軍も疲労困憊(こんぱい)している。日本が中国大陸から撤兵することを条件として、アメリカは日本と中国の和平交渉を斡旋しようというのである。まず、日中両国の停戦を実現し、日米中3ヵ国間で包括的な取り決めを行い、日本軍は中国本土から撤収、以後の中国市場の開拓は日米共同してこれを行おうというのである。
 もちろん、日本への資源輸出制限は即刻解除し、その上で対日借款を行い、大陸開発のための資金まで用意しようというのである。不況に苦しむ日本にとって申し分ない話であった。一方、欧州諸国と比べてアジア進出に出遅れていたアメリカにとっても、この話は十分にメリットがあった。
 しかし、アメリカにはもっと重大な関心事があった。アメリカにとって最も肝心だったのは日米間の緊張緩和そのものだった。ヨーロッパではナチスドイツが世界の盟主の座をうかがう勢いを示している。アメリカにとって、ヨーロッパをこのまま放置しておくことはできなかった。この頃既に対独参戦をある程度決意していたルーズベルトにとって、唯一の気掛かりは日本だった。日独伊三国軍事同盟が存在する今、日米関係をこのままにして対独戦を開始すれば、アメリカは太平洋と大西洋の両方から挟撃されかねない。アメリカ指導部にはそれだけの危険を冒す覚悟はまだなかった。
 相手がドイツ1国でも反戦運動が高まっているというのに、同時に日本をも相手にする両面作戦で国民の賛同が得られるなどとは誰も思っていなかったからである。太平洋に脅威がある限り、ヨーロッパ救援には向かえない。ルーズベルトにとって、太平洋に平和を確立することが焦眉の急だったのだ。
 他方、イギリスもアメリカ以上に太平洋の安定化を願っていた。日本の脅威が除かれない限り、アメリカがヨーロッパ戦線へ参入してくることは考えられなかった。」(第二章「風雲急を告げる日米関係」「3.シナリオ」「―申し分ない提案―」より)

最終的な「日米諒解案」では、日本が欲する石油、ゴム、錫、ニッケル等の輸入をアメリカが協力、支持することや、日本の満州国占領をアメリカが認めることなど、日本にとってかなり有利な案でした(第三章「日米諒解案の全貌」「2.「諒解案」策定に着手」「【日米諒解案全文】及び「3.これがその主要内容」より)。

ですから、もしこの「たたき台」を基に予定通り昭和16年5月にホノルルで日米首脳会談が行われていたなら、質問者様が言われる「オランダに絞って戦争する」ことさえなく、日本は正々堂々とオランダ領の資源を輸入することが可能だったわけです。

実はこの「日米諒解案」、当時訪欧中の外相・松岡洋右を除き、閣議では近衛首相以下陸海軍首脳も全員賛成だったのです。せっかくのこの好機を握り潰してしまったのが、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンとの友誼を重んじた松岡外相と外務省であり(第四章「挫折、そして日米開戦」「1.三国軍事同盟と松岡洋右」より)、また、松岡の暴走を食い止めることができなかった首相・近衛文麿の優柔不断さでした(同)。

そして、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻→アメリカの対独参戦とソ連への援助決定→近衛の日米首脳会談開催申し出とアメリカ側の拒否→ハル・ノートの提出→日本側、これを最後通牒と受け止める→真珠湾奇襲へと、歴史の歯車は日本にとって不利に不利にと回っていってしまったわけです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>北朝鮮の軍艦が対馬海峡を航行したら、日本政府や国民は黙っていられるでしょうか?

北朝鮮の軍艦が対馬海峡や津軽海峡を航行したら、マスコミと国民は大騒ぎになるでしょう。しかし、だからと言って、日本政府は北朝鮮に抗議できるでしょうか。まして日本の軍隊(自衛隊)が北朝鮮の軍艦の航行を妨害できるでしょうか。その軍艦を攻撃できるでしょうか。両海峡とも国際海峡なのです。日本に危害を加えない限りは、我々は北朝鮮の軍艦を見物するほかないのです。

蘭印(オランダ領東インド)の資源を積んだ日本の商船がフィリピンやマレーの近海を航行する際には日本海軍の軍艦が護衛しますが、その場合も、フィリピンの米軍もマレーの英軍も手が出せません。公海だからです。日本の軍艦を見物するほかないのです。

補足日時:2008/02/23 18:55
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リットン調査団からハル・ノートまでの長い経緯の裏には、19世紀後半南北戦争で、アジアの覇権争いに出遅れたアメリカの戦略があると読む人もいます。


南北戦争を終結し、人種問題を国内で解決する流れがあったアメリカで、ヨーロッパのようにアジアに自国領土を求める植民地化ともいえる政策には、人種問題に敏感なアメリカは大手を振って参加できなかったはずです。
アメリカがしかけたシナリオに、欧州も乗り、日本はその最後の幕(真珠湾という暴走と、アメリカの参戦への大儀名文の付与)を自分で開いてしまったのだと思います。

現在北朝鮮問題でも、同じことをしようとしていると指摘する書物もあります。
北朝鮮には資源はありませんが、韓国が反米&新北政策を90年代後半からとるようになり、北朝鮮の核実験を支持するなど、アメリカはもう韓国を西側とはみなしていません。朝鮮有事の際のアメリカの指令権(統制権、現在アメリカが合法的に韓国軍を動かせる)を、韓国に委譲し、在韓米軍の多くを撤退させようと、双方で交渉をもっています。

歴史的にみても中国は朝鮮半島になにかあったら軍を進めるでしょうが(国境防備という名目で)、韓国に米軍がいなくなった中で朝鮮半島に火がついたとき、日本が買うであろう軍事関連の費用は、米国にうまみがあるとのことです。
たとえば、北朝鮮は1000kmクラスの射程距離のミサイルを200発はもっているらしいです。1艦1500億円とも言われるイージスは一度に10コのミサイルを同時に狙え、現在5艦(でしたでしょうか)ありますが、連射できるにしてもまだイージスを買うでしょうし、それ以外にも庁から省にあがった防衛省は、有事を理由に軍備を増やすでしょう。
このビジネスでのうまみを米国は考えていないわけはないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 11:55

太平洋戦争(第二次世界大戦の一局面で太平洋上で日本と連合軍との間で行われた戦争)が勃発した経緯については、


(1) 日本がアジアの近隣諸外国に対して行った侵略・植民地化を目的にして起こした戦争だった、とする見方と、
(2) いや逆にアジアを欧米諸国の植民地支配から解放し、自立した共存共栄のブロック経済圏(大東亜共栄圏)の建設をしようとする構想に基づいた戦争だった、とする見方、
(3) 更にABCD包囲網(1941(昭和16)年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限につき当時の日本が付けた名称で、アメリカ (America)、英国 (Britain)、中華民国 (China)、オランダ (Dutch)の頭文字を並べたもの)によって日本が圧迫され、これを 打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとする自衛戦としての見方等があるようです。

直接的には、前の回答者の皆さんが言われる通り、上記3のABCD包囲網が引き金になったと思われますが、戦争に至るには、当然多くの伏線があると思います。後世の人はもっと他の道があったのじゃないか、と色々言うでしょうが、その時代の空気が戦争に駆り立てたのでしょうね。政治家もマスコミも機能せず、国民も大きな歴史のうねりに抗する程強くはなかったでしょうから、その時代としては不可避だったのかもしれません。

日清・日露の2回の戦争で思いがけず大国を相次いで撃破し、すっかり自信を得ていた日本は、昭和初年から大陸に触手を伸ばし、太平洋戦争前は日中戦争(1937年~1945年)で中国(当時は「中華民国」と称していた)と交戦していました。有史以来外国に攻められても敗れたことがなかった(唯一、侵略の危機にあった「元寇」の時も「神風」(台風)が吹き、侵略軍を危機一髪で防ぐことが出来た)日本国民は、敗れる怖さ、退くことを知らず、前進するのみでした。

そのような折、オランダとの抗争とほぼ同時期に、アメリカ、イギリスも日本に対して中国からの撤兵を求め、アメリカは戦争継続に必要な石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとり、イギリスも仏印進駐をきっかけに経済制裁をはじめたため、追い詰められた日本はついに自ら戦端を開く決心をしたのです。
ABCDの各国は、既にドイツ・イタリアに対すると同様、日本に対しても彼らの国益に基づき共闘体制を組んでおり、否応なく、彼ら全体と戦わざるを得なかったのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

>ABCDの各国は、既にドイツ・イタリアに対すると同様、日本に対しても彼らの国益に基づき共闘体制を組んでおり、否応なく、彼ら全体と戦わざるを得なかったのだと思います。

それにしても、次のような疑問が頭を離れません。
(1)オランダにだけ戦争を仕掛けるという私の案は、ABCDの共闘体制に楔を打ちこむ意味では、戦略における常套的な考え方と思います。グッドアイデアです。
(2)アメリカもイギリスも、日本の軍事行動に警戒はしても、日本に戦争を仕掛けると決まった訳ではない。なぜ自ら米英戦を求めたのか。
(3)結果として対米英戦が避けられないとしても、なぜ自分から手を出したのか、なぜ相手に(米英に)先に手を出させなかったのか。
(4)最大の疑問は、なぜ、日米開戦劈頭にハワイ攻撃を行ったのか、です。私にはバカバカしい作戦としか思えません。

お礼日時:2008/02/23 01:59

『軍事板常見問題』から


http://mltr.ganriki.net/index02.html
「第二次大戦 アジア・太平洋方面FAQ」より
http://mltr.ganriki.net/faq08c.html#00832c
【質問】日本は,なぜ不合理としか思えないアメリカとの戦争を選択したのか?
http://mltr.ganriki.net/faq08h15.html#07379
【回答】それが最も生き残れる確立が高いと信じたから.
 以下,ナイ教授の文章を引用.

 日本の視点からすれば,日本が戦争に向かうことは完全に非合理というわけではなかった.というのも,日本の見るところでは,それは最も悪くない選択肢だったのである,
 もしドイツがイギリスを破り,奇襲攻撃を受けてアメリカの世論が揺らげば,交渉による和平の道もありえた.
 根拠薄弱な日本の指導者のムードを,塚田攻陸軍参謀次長は次のように表現している.

「全般に,開戦の場合の見通しは明るくない.平和的解決の道はないかと,皆が考えている.
『心配するな,たとえ戦争が長引いても全ての責任を取る』
と言える者は,どこにもいない.
 他方,現状維持は不可能である.
したがって,不可避的に,開戦やむなしという結論に達するのである」

 もとより,日本には中国と東南アジアでの侵略を改めると言う選択肢はあった.
 だが,それは拡張主義的,好戦的な見解を取る軍部の指導者たちには考えられないことであった.
 かくして1941年12月7日に日本は真珠湾を攻撃したのである.
 ※ 真珠湾攻撃は日本時間では12月8日
 まぁ・・日本らしいと言えば日本らしいかも知れない.
 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
・・・・・・・・・・・・・・・(引用終了)
同HPの回答集を見ると当時の日本には「清水の舞台から飛び降りる」、「一矢報いる」といった情緒的発送があり、本来必要な合理的判断が欠如していたと思える戦略が、蔓延していたように思えます。

なお、ハル・ノートは交渉のためのたたき台に過ぎず、これを「最終通告」と判断したのは日本側です。「ハル・ノートで追い詰められたから…」は所詮、えげつないまでも合理的判断が求められる国際戦略で、「戦略の失敗」から学ぶことのできない情緒的判断で、だだをこねているに過ぎないようにも思えます。
(心情的に納得できないということと、歴史を学ぶこととは別物という意味です)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>当時の日本には「清水の舞台から飛び降りる」、「一矢報いる」といった情緒的発送があり、本来必要な合理的判断が欠如していたと思える戦略が、蔓延していたように思えます。

同感です。山本五十六連合艦隊司令長官の「開戦劈頭、敵主力艦隊を撃破して米国民の士気を阻喪」せしめれば日本側に有利な形で講和交渉できるとの考え方は当に、合理的思考力欠如の典型と見えます。

お礼日時:2008/02/24 14:32

日本が戦争を決めた理由はハルノートですね。

ハルノートの条件は酷く、
これを出されたらどんな国でも武器を持って戦うだろうと言うものです。
日本が戦争を仕掛けたのではなく、アメリカがそうなる様に仕向けたんです。

因みに、アメリカ側がなぜハルノートを出したかというと、
まだ戦争を終わらせたくなかったからです。ではなぜ戦争を終わらせたくなかったと言うと、
原子爆弾の威力を黄色い猿に実験したかったからです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB% …

この回答への補足

ご回答、ありがとうございます。

文章力に欠けるため、意図するところが充分に表現できませんでした。私の知りたいのは戦略論です。一国を相手にするより三国を相手にする方が何につけリスクが大きくなります。

オランダ領の資源が欲しければ、相手国をオランダに絞って戦争すべきですが、最初から三国を相手にした戦略的な意味が分からないのです。

もちろん、オランダ領を攻撃すればアメリカもイギリスも対日戦に「参戦する可能性」はありました。しかし、「参戦しない可能性」もあったのです。米英が参戦すれば応戦せざるを得ないですが、なぜ自分の方から対米英戦を求めたのでしょうか。

補足日時:2008/02/22 20:58
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 11:59

国防の為です。



白人による植民地争いが激化し、有色人差別が現在より顕著だった時代です。
当時、独立を維持していた有色人国家は日本を含めて数国のみ。
白人国家は搾取対象として日本をずっと視野に入れていました。
ロシアなどが特にそうです。
現在、日本は第二次世界大戦敗戦国として勝利国である連合国の言い分を押し付けられている状態ですが、
大東亜戦争は間違い無く日本にとって国家の存亡をかけた防衛戦争です。
日本が「米英に戦争を仕掛けた」のではなく、「米英に戦わざるを得ない状況に追い込まれた」んです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 12:00

ABCD包囲網とか、聞いたことはありませんか?


資源の供給を渋ったのは、オランダだけではありませんよ。

アメリカ (America)、英国 (Britain)、中華民国 (China)、オランダ (Dutch)。

この回答への補足

ご回答、ありがとうございます。

文章力に欠けるため、意図するところが充分に表現できませんでした。私の知りたいのは戦略論です。一国を相手にするより三国を相手にする方が何につけリスクが大きくなります。

オランダ領の資源が欲しければ、相手国をオランダに絞って戦争すべきですが、最初から三国を相手にした戦略的な意味が分からないのです。

もちろん、オランダ領を攻撃すればアメリカもイギリスも対日戦に「参戦する可能性」はありました。しかし、「参戦しない可能性」もあったのです。米英が参戦すれば応戦せざるを得ないですが、なぜ自分の方から対米英戦を求めたのでしょうか。

補足日時:2008/02/22 21:01
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 12:00

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