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「言葉の悪用」
これを説明するのはなかなか難しいのですが、何か気づいてもらうことがあると思うので、まとまりがないかもしれませんが書いてみます。

一種の政治的技術(悪意とか作為性のあるもの)で、ある言葉が本来の使うべき意味合いから離れたところで利用され、使用者にとって都合のいい解釈、用法を植えつけられ、それがまかり間違うと世間の常識にまでなりえてしまう。そんな恐ろしさがあります。

卑近な例では、最近の企業の「管理職」規定に対し、残業代を払わずに働かせるという利用法をあくどいやつがでっち上げました。「管理職」という言葉の重みなどつゆほども考慮せずに、ただいかに利潤を上げるかということだけのために言葉をどぶに捨てるようなものです。あるいは交通規則の「法定速度」やらなにか憲法解釈に結びつけるような「違反が常識」的流れを助長しているようにも思えます。そのほか、戦前の「統帥権」問題を軍部が悪用して、実際は天皇の大権が飾り物であることをわかっていながら、自分たちの都合のために、都合のいい言葉を選び出し理屈をこねて言った。

このような流れ、「目的のためには、言葉などへだ、利用できるだけ利用してやれ」と言うような精神、社会構造というものを、どう考えたらいいのでしょうか?そこには、どのような腐敗、あるいは必要性その他が流れているのでしょうか?

A 回答 (6件)

#4です。


>ただ、これはいたちごっこで、人類の歴史上、この方策から逃れられなかったためろくなことはありませんでした
:確かにそうかもしれません。
雫の一滴もいつかは岩を穿つこともあろうか、ということを信じるしかないでしょうし、そう信じること自体、結果がどうあれ、そう信じるものの精神性に良からぬ作用を引き起こすことは少なくともないような気はしますね。
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この回答へのお礼

そう思います。信じることで少なくとも秩序維持に役立ちますね。

お礼日時:2008/03/11 23:18

こんにちは。


何故このようなことが平然と行なわれるかといいますならば、それは我々人間には言語を扱うことができるからです。
「言葉の悪用」とは「利益獲得のために情報を操作する」ということです。では、言語を持たない他の動物にはこの「情報操作」ができません。
情報を操作するのは結果を変更するためであり、これが行なわれない限りそこに発生するのは蓋然的な結果だけです。ですから、果たしてこの場合は自分にとって不利益な結果も甘んじて受け入れなければならなくなります。従いまして、複数の利害が対立する社会行動ではこれ以上に有効な手段は他にありません。このため、人間の社会では必然的にこのような行為が蔓延することになります。

欲求に基づく利己的な行動選択といいますのは生物の宿命です。
言葉を使って情報を操作することができるのは、我々人間には未来の結果を予測することができるからです。そして、悪徳と批判されるのは、人間の社会ではこれが道徳観と比較されるからです。
では、どうしてなくならないのかと言いますならば、それは我々人間は自分にとって不利益となる結果を選択することができないからです。ですから、このような行為を倫理的な観点から否定するというのは、それは全人類に対して仏様になれと言うようなものです。馬の耳に念仏ですね。
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この回答へのお礼

たいへん良く分かりませいた。
目的にためには手段をという浅ましい構図が分かります。それがあるから人間ここまで来たということもできるでしょう。しかし、ここまで来たのだから何とかできないか?という気もします。利害よりも「こんなことしたら気持ち悪くて」という道徳観がもっと生きないものか。個人レヴェルでなく、社会レヴェルで。つまりは、個々人の意識民度の向上によってあるいは標準化によって。その「気持ち悪い」が不利益だという価値観が支配的になることが大事なのではないかと考えます。

お礼日時:2008/03/11 09:31

言葉の意味についてどこまで私たちが認識しているのか、ということと無関係ではないように思われます。


日常の些細な事柄から、憲法の条文などに顕著なように非常に重大な事柄にまで曖昧性はつきまとっているようです。
この曖昧性、ある局面では必要であるという部分も持っていることが、この問題をさらに複雑にしているとも感じます。
無論、法律や規定などにそのような曖昧性が含まれていてはならないわけですが、曖昧性ということをあまりに考慮しなさ過ぎる、というか、その曖昧性に基づいて物事を解釈してしまう習慣が我々についてしまっているのではないか、ということです。

これは、曖昧なままにしておくことを嫌う属性とでもいうものを人間が持っているためだと私は思うのですが、属性というのはあくまで生来的な性質であって、後発的に獲得される性質によって修正されたり、超越的に改訂されるべきものも数多くあるでしょう。
曖昧性を嫌うということの本質は、結局は怖れではないかと思いますが、つまり、どっちつかずであるがままに維持される状態を許容したり、判断する能力が人間にはまだ欠けている、そこまでは進化していない、ということなのでしょう。
ここに「~ねばならない」という思い込みなりスローガンなりが幅を利かせる余地が出てきます。
以上述べてきたような土壌がまず社会に存在する、ということが前提にあるのではないか、と思うわけです。

あるものは必然的に利用されるわけですが、上のような土壌において咲く言葉というものはしばしば徒花にならざるを得ません。
無論、種を蒔くほうが悪いわけですが、(現段階においては)あまりに正確無比な言葉の種が、果たしてこの土壌において芽を出せるのかどうか、ということは考慮される必要があるかもしれません。
個人的には蒔く種を一気に替えることを目指すのではなく、土壌側を少しづつ改良していくのが良いのではないか、という気がします。

その視点からすれば、garcon2000さんのこの質問自体が、その土壌改良のための一方策になり得ていると言って良いのではないでしょうか。
さらに改良が進めば、いくら「>悪用」的な種が蒔かれても、土壌の側がその種を拒絶するようになるでしょう。
悪い種を蒔く人がそう減ることはありませんから、その意味でも土壌改良のほうが長い目で見ると実効性があるように思われます。
よくはわかりませんが、国際的にみて、この土壌改良が成功的に進行している国々では、(優良なる)国民性という収穫(評価)が上がっているところもあるような気がします。

件の店長さんの行為は非常に勇気あるものだったと思います。
「管理」という言葉の持つ暗黙的な(しかし曖昧な)了解を、力の差で強引に認めさせてきた企業側に一矢を報いた形になりました。
ただ、根本的には、先に触れましたように、店長という職に抜擢された段階で明確な言語によって明確な契約が結べるような雰囲気(土壌)が企業内に醸成されていることが重要ではないか、と思います。
企業が一番怖いのは顧客の総意ですから、ここにおいても、社会全体における個人個人の意識的な、しかし地道な自己変革にその活路を見出すのが順当なのでしょう。
 

この回答への補足

お礼文が、引用をそのままにしてしまい失礼しました。

追加です。
悪い種をまく人、私はここでは「無理に理を通そうとする」人たちでなく「そのために言葉や人間を軽視する」という風に解釈しなおしてますが、その存在自体が問題じゃないかと。つまり、やっぱり「愛」になってきます。だから、「愛」が足りない限り無理ですね。いわば肥料や水のようなもので、これを注がれて育つか(別に子供時代というわけではない)それとも注がれることがないか。それにかかっています。消滅させるには、「愛」レヴェルの常識を変革する必要がある。

なので、二番煎じ的な「土壌改良」が一般論になるんですよね。ただ、これはいたちごっこで、人類の歴史上、この方策から逃れられなかったためろくなことはありませんでした。

ヨーロッパ先進はやっぱり民度が高いでしょうか?ほかにお手本の地域があるでしょうかね。

補足日時:2008/03/11 09:24
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この回答へのお礼

たいへん濃いご回答、ありがとうございます。

あいまいなものを本当は許したくはない本能と、それを許容した方が楽だというせめぎあいがあって、結局は後者に譲るという構図なんでしょうかね。おっしゃるとおり、すべて曖昧でいいんだということで割り切る意識を人間がもてたなら、かえって摩擦はなくなるかもしれません。そして、矛盾ということも消滅する。ただし活動のエネルギーは残っているかどうかは分かりませんが。

その、「矛盾があってはならない」という意識は仕方ないとしても、そのために言葉をでっち上げるというスーパーな矛盾を犯すというのは、なんとも愚かしく浅ましいことといわざるを得ません。こんなことが必要なのか?
悪い種を蒔く人がそう減ることはありませんから、その意味でも土壌改良のほうが長い目で見ると実効性があるように思われます。
よくはわかりませんが、国際的にみて、この土壌改良が成功的に進行している国々では、(優良なる)国民性という収穫(評価)が上がっているところもあるような気がします。

結局はおっしゃるように、社会的な全体的意識、いってみれば民度というものの向上にしか解決はないようです。

お礼日時:2008/03/11 09:21

理想と現実との乖離というところですかね。


私たちが理想的な社会システムを考え付いたとしても
それを逆手に取る輩はいつの時代もいます。
言語によるコミュニケーションもその一つで武器にもなれば単なる
玩具で終わる事もある。

人間が考えつくものに完璧なものなどないのかも知れません。
しかし、完璧でないからこそ人間の手によって作られた証
とも呼べるのではないかなとも思います。

だから「どうせ一向によくならないよ考えるのやーめた。」と
してしまうのでは人間の進歩をやめてしまうのと同じことで
所詮いたちごっことあきらめずによりよくしていくことに
人々が尽力していけば改善はなされなくとも現状維持+αには
なるのではないでしょうか?
放っておけば尚悪くなるものをあなたは頬かむりして知らん顔
できますか???

あなたがこの掲示板を通していいたいことはこんなところでしょうか?
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この回答へのお礼

「悪」というものは、世の中の進展には一種の必要悪なのかもしれない。それが、悪意とか人間の軽視というものであっても、その存在があることで、それに戦う→モラルとか自警とか意識の高揚がある。しかし、こんなものまでなぁという気はしますね。これほど、人間をばかにする必要があるのかと。
最終的には「愛」の問題に突き当たるのでしょうが、大学入試に小学校レヴェルで当たっているような状況だと思います。

お礼日時:2008/03/11 09:15

そのようなことはどこでも起きますし、現在も起きています。


ただそれを知らないだけのことです。
社保庁の人間が老後のためにとせっせと窓口までお金を納めに
いくそばから、ネコババしていたのはあんな組織であれば、や
らない方がどうかしています。
それを規定するのが法や法令です。その運用はこれまたでたら
めで、裁判官だから聖人君子というわけではありません。書店
で万引きをしたり電車で痴漢をしたり下半身を露出したりという
ニュースは毎月のようにあります。それだって知らない人は知り
ません。
ま、世の中はでたらめです。車にのってガソリンを入れるたびに
それが何とか財団の社員旅行費になっているわけですから。芸者
やコンパニオンの料金までガソリン買ってせっせと上納している
のがわかれば頭に来ますが、知らなければそれまでです。
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この回答へのお礼

人間社会というのは、規制とうものがないと、自然的にまとまることは決してなく、無秩序と破壊、無道徳ということが支配的になっていくのでしょうね。その一端が、言葉の悪用ということにも表れているのでしょう。

お礼日時:2008/03/11 09:12

そこには、どのような腐敗、あるいは必要性その他が流れているのでしょうか?



「法律の下の平等」ということですね。「法律は言葉である。」と捉えれば「言葉」が法律であり言葉が力そのものですね。例えば、自由と平等と皆さんよく使いますが自由と平等は相反する言葉なのですね。自由は平等を阻害しますし平等は自由を制限しますからね。つまり完全な自由で平等な社会など存在しえないのですが言葉に操られるように叫ぶ人多いですね。ここまで書くと「なにかへんだな」と思えるといいんですが。つまりすべての言葉はそのまえに「精神」があるということを忘れているからですね。規範や法律が言葉になる前に精神があり、その精神をよりよく表現したものが言葉ということなんですね。言葉から精神をぬいて言葉のみにしたものを唯物論といいますね。言葉のみを学んで精神を学んでいない人が多くなったということですね。精神が理解できなければ言葉はロボットが使ってもおなじですから、そのようになっているのでしょうね。言葉が効率よくお金を産むわけですからね。詐欺ではないんでしょうがマルクスの言う人間ロボットの社会ですね。体を壊して文句を言うロボットがいる分けないと考えてもおかしくはないでしょう。・・・皮肉ですがね。
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この回答へのお礼

よくわかりました。
「体を壊して文句を言うロボットがいるわけはない」
この言葉はいいえて妙ですね。

マニュアル化したもの、精神の存在を考慮しないもの、表面的に処理できるもの、人間はそのような安易な方向にしか流れないようです。それが業だとも思うし、一種必要要件とも思う。が、なんと無味乾燥なものでしょうね。

お礼日時:2008/03/11 09:11

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