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命名は古来より制度にまでなる人間の慣習です。
しかし、ちょっと考えてみると、その「利便性」とか「道徳性」「尊厳性」といったものの影に、「記号化」「存在そのものの軽視」という危険が常にあると思います。
たとえば、何でもいいんですが、ニュースでアナウンサーなり芸能人なり出てきます。そのとき、名前のテロップが出るということもありますが、「~~さん」が出ているという、その「標識」を常に意識します。その音声化され後に文字化されたその「存在」を表象するものを常に介さないと「存在」を認識できなくなっていないだろうか?もちろん仮に世の中に人名がなかったとしても、その人物の姿かたちは認識され、認知されえますが、そのときかえって、新鮮な「存在感」が漂ってくるのではないでしょうか。
この考えで行くと、名前でインパクトを与える(芸名、偽名、改名)などは、もっともその「記号性」を利用した例です。それによって、存在感そのものさえ凌駕してしまうこともある。
あるいは、野生(飼いならし)動物を見ます。そのときいちいち「~~」だ「○○」だと頭の中で、表象の音声を繰り返しています。頭の中の百科事典にどうしても整理しないと気が済まず、その中毒症状から抜けられません。どうして、「おお、この形態!この動き!」だけではいけないのでしょうか。

。つまり、これほど「存在」と向き合わないでいいのか?という疑念がどうしても湧きあがってきます。

なぜ、「命名」という行為が、利便性という条件を差し引いてもなお、人類古来より行われなければならなかったのでしょうか?その心理的傾向欲求あるいは必要性はどういうものなのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

本来の「名づけ」は、他者への伝達欲求が発祥元ではないでしょうか。


当たり前と言えば当たり前ですが、ではなぜ伝達欲求が生じるのか、といえば、最終的には自分というものをわかって欲しいからではないか、という気がします。

自分が見たもの聞いたこと知ったことを伝えたい。
そのようにして私の伝えたいことをあなたに受けとってもらう、ということが私の欲求。
私の記憶をあなたに伝えたい。
つまり、あなたに私を知ってほしい。
これが伝達欲求の底流にあるのではないでしょうか。
伝統や文化文明なども、その系列に含まれるのかもしれません。

いわゆる、他者へのリビドーの纏綿という解釈が可能ではないかという気がします。
ご存知でしょうが、この場合のリビドーは性的よりもむしろ生的欲求と解釈するほうが自然でしょう。
人間はなぜ誕生するのか。
生まれる、すなわち、この世に存在【しようとする】エネルギーの根本は何か、ということは私にはわかりませんが、とりあえずそのエネルギーをリビドーと、敷衍してに呼ぶことは可能だと思われます。
このエネルギーの延長として、自分という者を受け入れて(愛して)欲しい欲求がわくのでしょう。

こうして、他者への伝達をより広範に、あるいは詳細に可能にするために名づけが行なわれる(た)。
結果として、それによって与えられた「名」はコミュニケーションというシーソーの基点にならざるを得ない。
つまり、[名]は「主体を表わすもの」ではあるが、それ以上に本来は「人をつなぐ基点」としての役割も持っていた(る)。
そのため、ある主体の本質よりも他者とのつながりを重視しようとする場合、その主体の本質は薄れてしまう、ということになるのかもしれません。
あるいは、私たちは本質よりもつながりのほうを重視してしまいがちな社会で生を営んでいる、ということもできるかもしれない。

本質を見極める方は、たぶん、(根本的には)つながりを求めず、語らずに悟り、語らずに知らしめる、のではないか。
そういう気がしてきました。
 
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この回答へのお礼

そういう気がします!
見事なご回答ですね。

コミュニケーションとはすなわち何であるかと言う問題に立ち返るのかもしれません。そこには「生存」のための欲求あるいは必要性の問題と、心理的な孤立感を緩和し共同意識、共鳴同情その他もろもろの「社会的本能」を満足させようと言う動きと、同時並列的に進行していたのではないだろうかと感じます。
そうなると必然的に、コミュニケーションのほうに重点がいくのか、それとも本質論のほうに重点が行くのか、または、純粋性はどこへいくのか。利便性や金銭獲得性のほうに、本質が屈することは容易に想像でき、それが現代特に顕著になっている気がします。

お礼日時:2008/03/13 09:31

 No14さんのご回答の中の、≪そのため、ある主体の本質よりも他者とのつながりを重視しようとする場合、その主体の本質は薄れてしまう、ということになるのかもしれません。

≫という意味を私が誤解しないで理解できたとすれば、之に関連してお話させてください。
 命名の機能は区分ですね、命名する側も自らをそれで区分してしまいますが、命名の客体objectを斉一なる全体から意識化して区分するという機能もありますね。そしてそれは斉一なる全体を仮に、本質・実・存在自体だとすると、やはり命名という知的意識機能で、斉一なる全体から、客体objectを剥離して、wakeful意識での主体のつながりの世界に連れ込み、wakeful意識を更にwakefulにしていくのですね。それはもうもの自体、存在自体とは方向的に正反対の性格なんでしょうね。
 しかもそれはつながり、社会性という月の明るい半月面の世界と不顕現で超越している意識界の隠されているかのような浸透世界との関係なのでしょうね。
 そんなこともNo14さんのご回答は分析、提示されておられるのかもしれませんね。
 たいへん示唆的なお話として拝読しました。独善的ですが。
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 1. 命名は人間特有の慣習(ありよう・仕方)でしょうか。

人間にどのようにして、為され始めたのでしょうか。
 夢の筋が目覚める瞬間の後付編集であるのと同じように、聖典というのはどうも後付編集のような気がしていた仕方ありません。
 私も一生懸命、日日聖典を学び、精進はしているのですが、経、シュートラ、バイブル。みなどうも最初からその形であったとはどうも思えない。
 シミュラクラ的な作業があるような気がします。
 そういう聖典では、最初に誰が何に命名したか。
 一神教や多神教の最高神を誰が最初に命名したか。
 神の創造行為と創造になる全てに、誰が最初に命名したか。
 これらは多分、相当後世の聖者方という、人類の目覚めの瞬間の作業であって、命名がこれに始まっているとは思えないですね。そうでないとしたら、そのことを教えてください。
 2. 利便性やその他の効果、機能、そして人間や人間社会のありようなどは、ある意味で結果論ですね。そんなことを目的、あるいは意識をもって命名がおこなわれ始めたとは思えない。せいぜい併行的な進展ではないでしょうか。
 3. ですのでご質問が、この現今の人間とその社会、生活においての命名の機能と意義。ということの分析になるのでしょうか。
 そしてその功罪などとか、性格の分析とかの問題でしょうか。
 なかったら、とか、もしこうであったら、とか。の問題も含めて。
 4. 命名という行為は現今眼前にしている人間という存在、意識に必然かどうかの問題も問うておられるのでしょうか。
 5. 聖典の編纂以前に命名という行為はあったと存じます。
  それは対象から自己を分別する一歩、その意識の歩みだと存じます。創造者の意識の延長として、命名はシミュラクラ的に、其処に見る。形成する。自己の中を映す、リフレクトする、見つめる。
 ということであったと存じます。
 それは創造行為であったと存じます。
 だから命名もことばも、そして自己という意識も、(カント的な)対象もの自体との間の離間、介在の者だと存じます。
 命名もことばも、そして自己という意識も、これらは同根、同じ作業の各側面ではないでしょうか。
 だから、これらがあるうちはもの自体の認識は不可能なのは当然なのだと存じます。しかしこれらがなくなれば、知的認識、中華思想的認識、近代ヨーロッパ文化高位認識、中央上位認識などなどは雲散霧消することはいうまでもないでしょう。別の側面からいえば、近代社会とここにいたる歩みは、この、知的認識、中華思想的認識、近代ヨーロッパ文化高位認識、中央上位認識は、ことばと命名という僭越にして高慢な、そして創造権の僭奪高位に依拠しているものではないでしょうか。人はことばを知ると対象をしったつもりになる。
 士大夫三日遭わざれば、、、。という故事が人口に膾炙しているのに、古い友人は百年自分の個的観念・枠組みで、いやそれをおしあてて、親しい人たちを見、交流している。
 その観念・枠組みは、所詮自己の存在の確認とためのもの、それに連関しているものであって、所詮は周りを、自己のことばと命名で、自家薬籠の中にして、自己を中心に、高く据えるものでしかない。
 これが人のことばであり、命名だということではないでしょうか。
 だから尚引き続き、私故人にひきつけていうならば、ことばも知識も経験もないところから出てきて、そんな経験やなにやらを経て、今は言葉も知識も経験もない、馬鹿に戻ろうと、日日努力しているのですが、質問者様や、ご回答の皆様にご助言をいただければ幸甚です。
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この回答へのお礼

利便性もそうだが、やはり、なにか精神性を人は古来から求めると言う観点からのご回答ですね。私もそういう気がします。そして、今回いわれて気づきましたが、古来の政治形態支配形態で、どんなに「命名」と「認識」の問題が重要であったら、人の思考回路をどう利用するべきであったかと言う問題も非常にあったのだと感じます。中央上位思想なんて、裸の王様じゃないですけど、おんなじ人間がほかのおんなじ人間を支配すると言う「幻想性」以外の何者でもないわけですが、それをやるために「名づけ」は本質を離れて必要でした。

カント的というものあまり浅学でよくわかりませんが、所詮「記号化」でしかこの世の中は認識できず、ましてや共同認識もできないという宿命があると思います。

お礼日時:2008/03/13 09:35

重要な問題のように思います。

人間は自分の頭の中に言葉によって構成されている記号の世界を持っています。記号の世界をもっていないと存在を認識できないのではないですか。虫は記号の世界を持っていないと思います。あるいは持っていてもそのことを認識はできないと思います。虫が、餌を見つけて捕まえるときでも、はじめから終りまでその餌と密着して反応していますから、その餌から支配されているというか、不変の自己を持っていません。不変の自己をもっていることが存在を認識できる前提ですから、虫は餌の存在を認識しているとは言えないと思います。これは虫は、自分が存在していることを認識していないということになります。一方人間は自分をも対象として存在を認識しようとします。私は、命名というのは存在を認識するためには不可欠なことだと思っています。もっとも命名されたものがはたして実際に存在しているかは別の大きな問題になるとも思いますが・・・
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この回答へのお礼

そうなんです。やはり重要な気がします。
そして、虫はやはり、「記号」は持っていないと思う。虫どころか鳥も一般哺乳類もない。なぜなら、それらを「音声化」しませんから。犬が人間を指して「ウー」ち鳴くとか猫を見て「オー」と鳴くとかないです。音声化でなくてもほかの方法でも記号化はしていない。本能の支配です。記号化は大脳の支配です。それは「自己」ですね。

お礼日時:2008/03/13 09:20

「学問における呼稱と実体」という講義を受けたことがありました。


これは、暦学と本草学の講義だったんですが、その前フリとして、第一日目の講義でした。
あんまり覚えていませんが、
名前のない学問で、個別情報自体を研究する公儀隠密や庭方役や軍隊で発達したもの、とか
名前は不変でも内容が変化した学問とか、
名前が分裂増殖する学問とか、
名前も内容も変わらないが手段が変わる学問とか、
名前は消滅しても実体は散逸して残る学問とか、ありました。
こうして長い歴史のなかでは、名前というのはゆるゆるしたもので固定観念ではないというところが面白いと思います。
というか、存在と向き合うからこそ、長い時間のなかで変わるのではないかと。
そこで思い起こすのは、中世から近代にかけての、化学元素の名前の変遷。ラテン語ですね。
これは面白いですよ。
光るもの、とか、臭う石、とか、時代によってころころとかわるのですが、つねに特徴を名前にしていまして、
へんてこりんな名前の並んだ年表を眺めると、過去の人間がどれほどこの物そのものの存在と真剣に向き合ってきたかを感じます。
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この回答へのお礼

同じ名前でも、内容がぜんぜん違ってくるものがありますね。漢字は違うにしても「無尽」とか。「貴様」「老中」ちょっといいのが思いつきませんが、そんなに昔でないのにね。ほんとに「名前」はゆるゆるしています。大して、「観念」「実態」はそのままです。
これは、いかに実態をありとあらゆる考えで呼ぼうという苦心、あるいは無駄骨だったような気もします。非本質化の典型ともいえます。

お礼日時:2008/03/13 09:14

どうしても必要な行為だからじゃないでしょうか?


命名をしなかったせいで命を落としたとか怪我したとか
そんなようなことが日々繰り返されていけば残っていくでしょ?

もっとシンプルに考えてはいかがですか?
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この回答へのお礼

必要性という観点ではそのとおりですね。

お礼日時:2008/03/13 09:10

命名は世界の分節化と共同幻想としての所有のための当為です。



分節化は世界構造のツリー化のため。所有は「私」の安定のためです。

逆に命名しないとどうなるかをお考えになればいいでしょう。

根源は時空内にいる「私」の心理的な安定のためでしょうか。
さらには「私」の属する社会集団の持続的安定のためでしょう。
ひとは言語を獲得した瞬間から命名により世界理解を確実なものに傾向があります。それは意識してそうなるのではなく心的な志向性と理解したほうがいいのだと思います。
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この回答へのお礼

共同幻想と所有、その認識過程において、どうしても命名は必要です。それが純粋な行為だった。人間が生きるための必要でもありました。しかし、そこへ「文化」が絡んでくるとおかしなことになるのですね。それがわかってきました。

お礼日時:2008/03/13 09:10

No.6の回答のとおり認識のためです。


カラスでもゴキブリでも記号化しているはずです。

難しい話ではありません。ごちゃごちゃ書くといかにも
説明しているように見えます。しかし、その本質は短い
指摘で足りることがしばしばです。

私にいわせると、ごちゃごちゃ書く人は自分でもよく
分かっていません。
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この回答へのお礼

そう思います!
発生は本当にそれ以外にはないですね。

ただ、それ以後の「文化」が絡んでくると、この「命名」は時に悪用されるにいたります。純粋さを存在そのものを覆うような働きさえ起こす。

お礼日時:2008/03/13 09:08

何人かで「××をして○○になった人の名前」「あー、なんだっけ、ここまで出てるんだが」という会話をしていることがあります。

この名前が出てこなかった人は、標識が出てこないだけの話で存在が軽視されているのでしょうか?
また、大抵はこの種の話は「でその人がね・・・」と名前は無視されて進むのですが、その場合は存在が、名前を使った場合よりも重視されたのでしょうか?

この例から考えると、名前によって存在と向き合っていないのではなく、単純に伝達の利便性のみの問題であるように私には思えます。


後に、名前が個人の尊厳を表すという「文化的コード」が発生するわけです。
例えばアメリカインディアンなどでは、個人のとった象徴的な行動などによって名前が決められ、ころころと変わっていきます。
例えばある映画には、集会で拳を握って立ち上がって発言したことから
「拳を握ってたつ女」
という名前に変更される場面が出てきます。

この回答への補足

名前失念の話題は、まるで日食のつきのような効果をもたらす。コロナが見えてきます。

補足日時:2008/03/13 09:05
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この回答へのお礼

名前を使った場合の会話より、失念して「あのひとのこんなところがあった」とか「あのひとの」を連発しているとき、よっぽど「本質的」な気がしますね。言い換えると「尊厳性」さえある。名前と言う記号を取り去ってなお、いや、取り払われたからより「本質化」します。
名前があると「記号性」「利便性」が本質を少なからず奪います。たとえば、変な珍しい名前の人いますね。別に人間そのものが変わった人でなくても印象にちょっと差をもたらしますね。それは弊害ですよ。

文化的コードということで、こういう混乱が起こっていたのだと感じます。

お礼日時:2008/03/13 09:05

>なぜ、「命名」という行為が、利便性という条件を差し引いてもなお、人類古来より行われなければならなかったのでしょうか?その心理的傾向欲求あるいは必要性はどういうものなのでしょうか?




識別のためだと思います。
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この回答へのお礼

そのとおりだと思います。

お礼日時:2008/03/13 09:02

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