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キリスト教会で洗礼を受けたことがあります。果たして、神職に奉職することは可能なのでしょうか。

洗礼を受けた当時、信仰への誤解があって、自分のなかに閉じこもってしまいました。遠藤周作の「深い川」を読んでいて、主人公と同じく、真理というものに絶対というものがないことを感じております。すなわち、正しさのなかに間違いもあって、反対もまたありえると感じているようです。また、以前に信仰への悩みで寄稿したとき、アジア人が一神教の神様を受け入れることが難しいと指摘されたことがありました。

あるお宮さんへ神職見習いのことに相談に行こうと思っているのですが、どなたか回答をお願いいたします。

A 回答 (2件)

真理と言うものに対する「理性的な姿勢」を大事にするのであれば、サンガ出版の「仏法」を一度読んでみることをオススメします。



<<真理というものに絶対というものがないことを感じております>>

との事なので、きっと貴方も理性的な思考を重んずる人なのではないかと憶測いたします。

どの見解に納得がいって、どの見解にに納得反論が成り立つだろうかと考えて「仏法」を読んでみてください。

私自身はほとんどが納得がいきました。理性の塊と感じました。

正見の項目を見ればいかに他人の自由を大事にしながら理性的に真理なるものを探求する姿勢がわかると思います。

後の大乗経典がどの程度理性的論理的道徳的なのかは知りませんが、仏教の大元であるパーリ語の三蔵の理性論理道徳がどのようなものか、あなたの理性で読み解いてみてください。

きっと、貴方の人生に役に立つものが得られると思いますよ。
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この回答へのお礼

早速のお返事ありがとうございます。アジア人が一神教を信じる捩れということを、真言宗のお坊様から教えていただきました。そのとき、真言宗に関する書籍にふれ、曼荼羅のもつ真理の循環なるものに気づきました。そして、真言宗のお坊様は、私のなかにある森というものがあって、それを大切にするようにともおっしゃくてくれました。お返事からそのことを思い出したので、少し書かさせていただきました。今回、紹介していただいた本を探してみようと思います。

お礼日時:2008/05/14 14:26

神というのはもともと仏教が釈迦によって説かれるまで,国や衆生を守ってきたものです。

仏教が釈迦によって法華経が説かれてからは,法華経の行者を守護する諸天善神になっています。ですから神を拝んでも何の意味もないのです,真理はないといわれましたが遠藤周作さんは何も仏教・法華経について無知な方ですからそう言われたのでしょうね。貴方も少し勉強されたほうがいいと思いますよ。宗教は正か邪しかありませんから,人の根本の幸不幸は全て宗教に依って決まりますから。
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