アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

私の勉強不足のせいで、この様な質問をしてしまいましたが
申し訳ありません。

質問なんですが幕末の薩摩藩の動向について分からない事が
あり質問しました。

元々、薩摩藩は「公武合体派」であり幕府を生き残らす
事が目的であったのにも関わらず何故、西郷隆盛は
倒幕を決意し、また他の薩摩藩の人間達も彼に着いて行こうと
考えたのでしょうか?

元々、西郷隆盛は公武合体に反対しており薩英戦争
などの影響で開国論(攘夷論はないと思いますが)
が強まったと思いますが、それが何故統幕に繋がったのか
理由が良く分かりません。

徳川慶喜も「家康の再来」とまで言われた聡明な人間ですし
異説もありますが篤姫を大奥に送り慶喜を将軍にする
為に働いた事もある西郷隆盛なので疑問に思いました

A 回答 (5件)

薩摩は公武合体派というのは正しくありません。


島津斉彬は徳川幕府を助け富国強兵策を推進しこの間に薩摩の発言力を高めようとしていたのです。  列藩同盟派とでもいえるでしょう。
西郷はこの斉彬の思想の忠実な実行を推進する立場でした。

しかし斉彬の急死によりその役目を失い、さらに島流しにされその間の社会の変遷を見て独自の考えを持つようになったのです。

既に弱体化した幕府の体制では日本は保てないという考えから統幕維新に進んだと思います。
諸外国の強力な武力を見せつけられ富国強兵が急務と考えたのです。

徳川慶喜個人はまだ徳川幕府の存続を主体に考えていましたから西郷にとっては邪魔な存在だったのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅れてすみません

ありがとうございます

元々、島津は徳川よりも自分が上という誇りもありましたし
純粋に幕府を応援していたわけではないんですね。

ありがとうございました

お礼日時:2008/08/07 15:05

 一つの動乱の時期で、個人も情勢も一貫性を見ていくことは困難なことなのでしょうから、一定のご回答の中の諸事情とご指摘の中で歴史と個人は行動したと存じます。



 ご回答の中の天皇の地位をめぐる陰謀については、拝読してもにわかに否定も論駁も、そして肯定や受け入れも控えております。
 そのどの立場でもないからです。

 西郷さんの行動には不可解なことが多々ありますが、歴史の中での行為も、そういう個人のご人格、お人為りやご性格の面からのアプローチも必要ではないかと存じております。
 
 時流にのったというのは、乗ることを意図したのではなく、後世や外部の見方としての結果論的あり方かもしれません。

 剣術などもそうでしょうが、ことの判断や処理のことでは有能な器、道具ではなかったという認識を持たざるを得ないものです。
 そういう方というのは有能な輔弼、補佐の方がおられないと、どうも支離滅裂な行動選択をするという、評論を読んだことがあります。
 私のことでは何か長く事務やを生きて、身につまされる思いでおります。
 無能なのに、正に許されて生きてきたわけですので。

 でも朝鮮出兵の主張は、侵略というより、欧米のアジア侵略に備えるという意味では、自分は理解できるのですが。間違いかも知れませんが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅れてすみません

ありがとうございます

お礼日時:2008/08/07 15:05

徳川(一橋)慶喜を将軍にしようとしていたのは、西郷隆盛の主君でもあり、かつ師匠的な存在でもあった島津斉彬でした。


西郷は完全に島津斉彬に従っていましたので、慶喜を将軍にしようと動いたのだと思います。

その後、薩摩藩(西郷)は長州藩と薩長同盟を成立させるまで、表面的には幕府に従うような行動をとりながら時勢を見守っていたように思います。
薩摩藩は第二次長州征伐では陰で長州藩を支援していましたが、もしこの戦争で長州藩が敗北したなら、薩摩藩は長州藩との同盟を裏切り、幕府に従ったかもしれません。

ところが、実際には長州が勝ったために、薩摩藩はそこで完全に幕府に見限りをつけ、倒幕に薩摩藩の方針が決まったのでないかと思います。

そして、最後の最後、つまり鳥羽伏見の戦いの直前に長州とともに幕府に対し戦端を開いたのではないでしょうか?

また、西郷になぜ、あれほどの人が従ったか、なぜ西郷は倒幕を決意したかは、南朝の再興が目的であったと思います。
これはいわゆる歴史のタブーに属する話ですが、非常に長文となりますので、「大室寅之佑」(おおむろとらのすけ)、それに「明治天皇のすり替え」という言葉で検索していただければ概要はお分かりいただけるとおもいます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅れてすみません

ありがとうございます

やはり謀略が凄いですね

お礼日時:2008/08/07 15:01

そのあと、朝鮮を攻めろと言ってみたり、


新政府に戦争を仕掛けたり、すごい人です。
人気はあるが、これがこの人の本性です。
坂本龍馬はただの商売人ですし。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

遅れてすみません

ありがとうございます

お礼日時:2008/08/07 15:00

要は時流に乗っただけではないでしょうか?



西郷隆盛についてこういった場合特に鹿児島を郷土となされるような
方はお怒りになるかもしれませんが、それほど死後に小説家が描いた
様な私利私欲がないだけの人とは思えません。。

例をあげればきりがないのですが、親分肌な人間なんだとは思います。
西郷隆盛という人間がいくら崇高な思想を描いていたとしても
ほとんどの薩摩の武士は長年の幕府の圧政に対して恨みしかなかった
のではないでしょうか?
結局たくさんの子分の意見というのは無視できない・・・。
それに動かされていったただの神輿だったのかもしれませんね
    • good
    • 0
この回答へのお礼

遅れてすみません
ありがとうございます

やはり恨みなんでしょうね

お礼日時:2008/08/07 15:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!