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選挙の投票時に、選びたい立候補者も、支持政党がない場合はどうしたらよいでしょうか。
どう考えてもどの立候補者にも納得がいかず、またどの政党に対しても支持意欲が沸かない場合があります。
その場合、「該当なし」が適当なので、そのように意志表示したいです。しかしながら、現在はその選択肢はありません。
これはどうしてなのでしょうか。
確かに、該当なしがあまりにも多かった場合、その後の政治はどうなってしまうのか、という不安側面もあります。が、多数決ですよ、という前提だとすると、何度でもやり直してもらいたい、とも思うのです。
現在では、白紙投票をしています。行かないのは嫌だし、かといって該当なしなどと書いて棄権扱いになるのもまた嫌です。
ですが、白紙投票ではなんら影響を持たず、投票率が高くても有効票が少ない、という数字に出るのを期待しています。
皆さんはどうしておられますか?
※そんなにいやなら自分で出ろ!というのはナシでお願いします。
話が違うと思いますので。

A 回答 (6件)

すでに、回答が出ていて私の出る幕はないかもしれませんが。



>政治は『ベスト』でなく『ベター』で選びます

というのが、民主主義では重要となってきますね。
で、白紙票が考慮されなかったり「該当無し」欄が無いのは、単純に扱いに困るからだと思います。
ご存じかもしれませんが、選挙では莫大なお金がかかります。
候補者の選挙活動だけでなく、なるべく公平になるようにポスターを設置したり、有権者に投票を呼びかけたり、不正を防止するために監視活動したりと、なにかとコストがかかるモノです。
そんなところに持ってきて、白紙票や「該当無し」が得票率NO1だった場合、その選挙区の当選者をどうするのかが問題となります。
当選者無しとなると、当選者が出た選挙区と政治的な不公平が生まれる可能性がありますし、2番目の得票率を獲った人を当選とすると、有権者の意向が無視されたように感じますし、、、。
かといって、やり直しとなると莫大な費用がかかる上に政治的空白期間が長くなってしまいます。
結果として、白紙票や「該当無し」は考慮せず、NO1の得票を得た人を当選としたほうがスッキリするという訳です。

でも、ここで悲観してはいけません。
日本というのは、民主主義とともに言論の自由も認められています。
「選挙で投票」という意外にも、デモや集会を開いて政治に圧力をかけたり、「監査請求」や「情報公開」を求めて活動したりと、色々と政治参加の方法はあります。
もちろん、それらは直接政治に反映されるというよりは、間接的であり効果もあまり表面化しませんが、民主主義を機能させる上で重要な要素であることは間違いないと思います。
(※ここで間違ってはならないのは、デモに名をかりた暴動や犯罪行為は民主主義に反する行為であるということです)

上記の行動をひっくるめて「市民政治」という言葉がありますが、日本の民主主義に決定的に欠けてる点であろうと個人的には思っています。
「選挙での投票」だけでなく、「選挙後の監視活動」も重要な有権者の責務ではないでしょうか。
そのことによって、「ベター」を「ベスト」に近づけることになるのではないでしょうか。
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そろそろ、ノーベル賞の季節で日本人はノーベル賞学者がいるのに比べて韓国人にはノーベル賞学者がいないというのが、非常に大きな嫉妬なのだそうです。


韓国人にはノーベル賞に該当する学者がいないということですね。いくらプライドの高い韓国人も「ウリナラの国にはノーベル賞に該当する学者はいないニダ」と言うことは絶対にありません。
それを言ってしまえば自分たちは○○です言ってるのに等しいからです。

よく選挙になると白紙投票の質問が出てきてだいたい似たような問答がなされます。質問者ご自身がそう思われてるのだから、質問者のお住まいの選挙区には国政に送り出すのにふさわしい人物がいないのですね。

質問者のアイデアは決して不可能なことではありませんし、「該当なし」を数えて発表すればかなりアイデアに近づくことになります。でも
そういう制度がない理由は制度というものは国政に送り出すのにふさわしい人物によって決めらるからです。

誰も言わないからいうけど(おそらくほかの回答者もそう思っているでしょうが)
○○の話に聞く耳はない
ということです。

ちなみに、どこなのでしょうか?その該当者がいない選挙区というのは。
補足をお願いします。(・∀・)ニヤニヤ

質問の答えとは少し違いますが、白紙投票を何らか制度化するというのは陶片追放という故事があり、そういうことをすることはないでしょう。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E7%89%87% …
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基本的には#2さんと同意ですが、あえて違う視点で。




まず、この世界中に理想的で完璧な政権などありません。
非の打ち所のない国家運営をしてる民主国家なども存在しません。

私たちの国の制度から見れば望ましく目指すべき国家運営と思われる、英国議院内閣制や北欧あたりであっても、
国民が全てにおいて満足してるわけがありません(それでも私たちの国よりも遥かに遥かにずーと先を行っていますけど)。

国民がより良くしようと常に努めてるんです。
常により良くしようと監視し続け注文し、そのための行動を起こし続けているだけです。
間違ってもどっかの国の一部の国民のように、
ある日どっかから颯爽と文句の付けようがない正義の味方が登場するだろうなんて待ってはいませんし、
面白そうな人気ある人に預けて、あとは知らない関心ない、などと自ら主権者として最低限の責務を放棄したりすることはありません。

そもそも民主主義制度自体ベストでも完璧でもないのです。
ただ人類がこれまで築いてきた制度の中で最もマシで、最終的には広く多数の国民が納得できる制度であるということではないでしょうか。
憲法前文にもあるでしょう、
『日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を上げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ』 と。
(いうまでもなく、憲法とは立憲主義的民主国家における民主制度の骨格です)
『国民が育て活用し創り上げてゆくもの』でしょう。
逆に言えば、どんなに素晴らしい立憲主義的民主制度があろうとも、それを国民が活用できなければ絵に描いた餅にもなります(先進主要国で最も遅れた民主国家、どっかの国のことですね)
まさに『その国の政治は、その国の国民以上にはならない』は、民主主義の真理を突いています。

それから最近(かな?)よくこのようなセリフ聞きますけど(これは揚げ足取りでは断じてありません)
「批評だけなら誰でもできますね」
これ、って誰が言いだしたんですかねぇ^^;
申し訳ないですが、
『できませんよ。批判というのは物事の本質(問題点)を総合的に的確に見極める(判断する)事ができて初めて出来る、のです』
なぜなら、そうでなきゃ正しい方向に導けない(修正できない)からです。
何でもとにかく自分側の意見と違うのが気に食わないで文句をいうことは「非難」というのです。

野党議員(政党)やメディアや時には国民が、時の政府与党を批判することは至って当たり前のことで、
世界中の民主国家で至極当たり前にあるべき健全な状態です(権力者への批判の出来ない世界を想像してみてください)。
権力を持つ側の主張およびその結果と、それのない側の主張(批判内容)および提案のどちらを支持するか、国民が決めればいいだけの話です。

政治権力とは国民に行使されるのです。
だからこそ常に権力は監視されるべきで、(一方向だけでない)多様な見方や批判されることにより初めて民主主義とは健全に機能するのです。
(もっと言えば、健全で、しかも徹底的な批判が出来て=問題点・欠陥部を詰めて初めて、政権を取るべき野党政党はそれを上回る政策を選挙時に提示できるのです)
自国の政府を監視し批判することを、「反日」やら「右だ左だ」なんて短絡的に情緒的に反応すると思考が停止します。

この国はいつからか(ごく一部だと信じたいが)野党政党やメディアや国民が、時の政権を批判するという民主国家の当たり前の機能を、
「ただなんだか文句を言ってる」が如くレベルにその意義をすり替え、それに疑いも抱かず、自ら確認も納得もせず会ったこともない他人のセリフを鵜呑みしてしまうようになってしまったのでしょうか。



最後に、あえて言わせていただきますが。
>※そんなにいやなら自分で出ろ!というのはナシでお願いします。
話が違うと思いますので。

これも認識を改めるべきです。

同一線上の話です。
いやむしろ、初めに思い浮かべるべきことです。

民主主義とは本来、
自らがやる→無理なら誰かを応援の行動を起こす→無理なら誰かを支持する
大ざっぱで申し訳ありませんが、これが本来の取るべき優先順位であるはずです。

偉そうに言いながら私自身その覚悟も能力も度胸も現状ないわけで、だからこそ現実に自ら行動している方々をむやみやたらに非難することないよう心掛けているつもりですし、だから常にそれ(自ら出来るか)を念頭に置いて除外した位置にいてはいけないと確信しています(将来的にその予定も希望もないとしてもです)。
*自らには初めからそれを除外した位置にいることを前提にモノをいう態度は、民主国家の主権者たる国民の端くれとして卑怯な姿勢だと思います。


もう一つ、白紙投票には何ら意味はないと思います。
はっきり言いますが、たんなる自己満足です(これに意味を見出そうと屁理屈つける健気な国民は、世界中の民主国家の中で日本人だけではないでしょうか)

本当に大変長文失礼いたしました、参考にしていただけたなら幸いです。


憲法第12条
『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の普段の努力によって、これを保持しなければならない~~
~~常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う』
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民主主義がそもそもペテンだからです


我々は代表者を選んでいるのではなく選んだ気にさせられてる
だけです 該当なしがあるとペテンがばれるので作らないわけです
ですから
「誰がやっても同じ」はまさに真理です
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既に仰っている方が居ますが個々の政策を見比べてより良いほうを選ぶしかありません。



自分にとって、より良い候補者を望むのであれば多少のコストを支払うのは仕方ないのことです。
本来であれば、自分の一番重視している政策(景気対策や福祉など)の考え方が近い政治家の後援会に参加する。
応援する代わりに意見は言わせてもらうよ。という形が常道なのだと思います。選ぶというより育て上げるというのでしょうか。

それも少し・・・ということであれば、それぞれの候補者に質問・意見を出してみてください。これは電話でもメールでも可能です。
メールの方が手軽ですが無視されることの方が多いので電話のほうが確実です。(代議士本人らしき人が返信メールをくれることもあります)

本筋の政策の話も大きな判断材料になりますが、応対の仕方も一つの判断材料になり得ますので、こうした点を踏まえて投票されるのは如何でしょうか?
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この回答へのお礼

さっそくありがとうございます。
No1の方のご意見、政治は『ベスト』でなく『ベター』で選ぶ、という考えをすっかり失念していました。そのとおりです。
また、No2さんのご意見の、候補者の考え方の不明点を質問する、というのも当たり前のことですね。
能動的に参加しないで並べられたものを比較するだけの考え方に硬直していました。批評だけなら誰でもできますね。
次回の選挙ではもう少し動いてみようと思います。

お礼日時:2008/09/02 13:44

政治は『ベスト』でなく『ベター』で選びます


貴方が立候補しない限り貴方の理想と100%会う政治思想はないので
よりよい物を選ぶのがよいと思います
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