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「自我は自我の中において、可分的自我に対して可分的非我を反定立する」とはどういうことなのでしょうか?

A 回答 (3件)

フィヒテの第三原則ですね。


第三原則を説明しようと思ったら、やっぱり一から順番に見ていくしかない。

わたしたちがなにごとかを説明したり理解したりしようとするとき、その「なにごとか」を対象としてとらえなくてはなりません。つまり、これを別の言い方でいうと「なにごとか」と「それを問題にしているわたし」はちがうものでなければならない、それがわたしたちの認識の基本的な構造です。

ところが同じことを「わたし自身」に対してしようとすれば、たちまち困ったことが起こります。というのも「わたし」と「自分のことを考えているわたし」は同一の人間です。けれども、一方では「~とは何か」と考えているときの「~」に当たる「わたし」を、対象としてとらえてもいる。同一でもあり、同時に異なるものでもある自分についての思考は、論理的に考えていこうとすれば、結局のところ自己言及のパラドックスに陥るか、「この文は正しい」式の空虚な命題に陥るかしてしまいます。

カントは自己意識を統一させる統覚を想定しましたが、自己意識それ自身としては空虚なものであると考えました。認識は直観と思考の統一によって成り立つけれども、自己意識はこの双方が欠けている。よって「わたし」は「現象としてのわたし」を知ることができても、「経験の主体としてのわたし」を知ることはできない、と。

これに対してフィヒテはまったく別の角度からこの問題を解決しようとします。
わたしたちは自己意識というものについて、根本的にまちがったとらえかたをしている。
従来の考え方は、思考や認識の能力を有した「わたし」があり、そうしてその能力を自分自身に振り向けることによって自己意識が成り立つというものだった。
けれども「わたし」に振り向けるためには、その「わたし」がすでに認識されていなければならない、ということになってしまうではないか。

「わたし」が存在するときには、「わたし」は常にすでに自己を意識しているのだ。自我はすなわち自己意識なのである。自我は単なる主観ではなく「主観-客観」なのである。
つまり、自我は自己自身の意識を伴って、いわば無のなかから自己を産出する、としたのです。

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自我が存在するのは、自我が自分を定立するからであり、自我が自分を定立するのは自我が存在するからである。したがって、自己定立の働きと存在とは一つのまさに同じものである。
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これが「知識学」の第一原則「自我は根源的・端的に自分自身を定立する」という命題です。

この「自我の自己定立」は、同時に「非我の反定立」でもある、とフィヒテは言います。
「わたし」が「わたし」であるという意識は、同時に「わたし」が「わたしでないもの」とは異なっているという意識です。「わたしはわたしである」という意識は、「わたしは“わたしでないもの”ではない」という意識と不可分のものといえます。ここから、第二原則が導かれます。

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〔定立する〕自我に対して端的に非我が反定立される。
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自我の内に「わたし」と「“わたしでないもの”ではないわたし」という区別が生じるということは、同時に、“わたしでないもの”の内のなかにも「“わたしではない”というありかたをするもの」と「“わたし”とは本来的に無縁のもの」という区別が生じるということでもあります。
これが第三原則としてこう表現されるのです。

> 「自我は自我の中において、可分的自我に対して可分的非我を反定立する」

以上参考になりましたら幸いです。
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この回答へのお礼

「物にあって自体とは、われわれがそのものを造り出すべきところのものである。」

「われあり」こそがわれを制限し、絶対的自我への無限な努力を強いる唯一の原理であった。

なんとなあくこれらの意味がわかりました。

哲学概論ではここまで詳しくは載っていないのでたいへん参考になりました。

次回も宜しくお願い申し上げます。

お礼日時:2008/11/02 00:17

訳が悪いのかフィヒテの理解が浅すぎるのか、意味不明のように思いますが、つまり、自我(心全体)には自我(独立の心)と非我(異なる独立の心)があるといいたいのでしょう。

西洋哲学も仏教哲学の悟りに近い線までいってるんですが、体系的に説明できてないので意味不明になってるんですね。自我と非我(仮我)または真我と仮我と言い換えればわかりやすいかもしれませんね。さて、真我と仮我とは何かの例を挙げるとすれば、よくある例で、あるきながら「今日は早く帰って勉強をしようという自分」を自我(真我)とします、あるいている途中に目に赤提灯が目に入ります「いっぱいのんで帰ろうよ」という自分を自我(仮我)とします。ちょっとまてよと冷静に、この二つの心に気づく自我がいます。これまですでに3通りの自我が出てくるでしょう。これをまとめるとフィヒテの第三命題になるんじゃない。 何故というよりそのまんまでしょう。フィヒテはその程度の気楽さでで読めばいいんじゃないかな。
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この回答へのお礼

ありがとうござい~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ま~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~す。

お礼日時:2008/10/27 17:42

桑木 嚴翼著 「フィヒテ 知識學」の


P.10以降に書かれているようですが・・・
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この回答へのお礼

ありがとうございま~~~~~~~~~~す。

お礼日時:2008/10/27 17:41

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