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因果倶時について質問です。
佐渡御書に「人を軽しめば、還って我が身、人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報を得・・・・是は常の因果の定まれる法なり」とあります。
つまり、簡単にいうと人をバカにすれば、かえって我が身、人からバカにされ、又人の見栄えや姿形をバカにすれば、我が身に、みにくくなる報いがある。という意味ですが、これは過去の行業の果報を現在に受け、現在の行為が未来に影響するなどの因果異時の立場であります。
ここまでは理解できます。
これに対して因果倶時は仏法の極理ですが、これは瞬間の生命に原因と結果が備わっている(具している)ということですが、たとえば火に触れるは因で、熱いと感じるのは果で、一瞬間の因果であります。同じく又怒ると人相が変化する結果はほとんど同時の所作であります。が、これも厳密にいうと極めて短時間のおくれがあります。これも因果倶時とはいえません。
春に種をまいて、秋に実がなるといっても、種をまいた時にすでに実がなる。という結果を含んでいるのであると。すでに結果も含んでいるのであるということなんですが、途中、鳥などが食べてしまったらという屁理屈なしに純粋にですが、生活に約した場合善行の行為の因は、すでに結果もはらんでいるということになります。結果はいつになるかわかりませんが。もし途中で気が変わって善行をやめた場合、最初の因果倶時はどうなったのでしょうか。その善行の結果は消えてなくなったのであれば
因果倶時は証明とならないのではないかと思います。ご意見ご感想をお待ちしています。

A 回答 (6件)

>>因みに霊的世界(宇宙に生命が冥伏している状態)所謂、空の概念でしょうか?


ちょっとわかりづらいのです。

○霊界とは心の世界のことです。心は不死・不滅です。これが仏教の前提条件ですね。
この「心は不死・不滅」を前提に悟りを求めよというのが釈迦如来の教えです。この教えに従って、
一念三千論、十住心論などがあるわけです。「心」を「思いまたは念」と置けば一念三千論、十住心論が同じ土俵の教えだとわかります。

>>それと空海の十住心論がでましたが、この世界は具体的にどういう世界でしょうか?教えてください。

○心が住む世界です。天台はこれを三千に分類したわけですが、空海はそれを十に分類しただけです。
わかりづらければ職業を例に取ればいいですね。職業の小分類と大分類の違いというものです。
生きている時も死んだ後も心が「不死・不滅」と考えればあなたは何をしているかということですね。

>>空海の著で、内容は大日経、菩提心論を依所として、十住心を立て顕密二教を判じ、特に第八住心に法華経を立て、第九住心に華厳を立て、第十住心に真言を立て、

○ これはその通りですね。当時の空海には経典の悟りがそのように見えたのでしょうね。
十住心論は悟りの階梯を心の状態で表したものであり、経典とは関係ないことは明らかですね。
すべての仏典には多少とも悟りのヒントは入っているものです。空海も他宗と比較したかっただけでしょうね。

>>法華を大日に劣る第三の戯論と立ているとのことですが。これは本当ですか?。教えてください。よろしくお願いします。
○仏教には自力と他力があるのです。自力を重んじると他力を軽んじ、他力を重んじると自力を軽んじる傾向がありますね。釈尊の教えは「上求菩提・下化衆生」で表されるように「自力と他力」は同等に持つものなのですね。当時、特に悟りを求めた空海は、救済を求めた当時の叡山の天台法華経を軽んじたということはありますね。しかし、天台ちぎは法華経をもとに一念三千論を説いたのですから、大日が法華に勝るということはありませんね。ただ言えることは伝教大師の悟りが天台ちぎの悟りに至らなかった故に空海に揶揄されたということでしょうね。その程度のことです。
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この回答へのお礼

大変参考になりました。ありがとう御座いました。

お礼日時:2012/03/15 14:47

 こんにちは。



 ★ 春に種をまいて、秋に実がなるといっても、種をまいた時にすでに実がなる。という結果を含んでいるのであると。すでに結果も含んでいるのであるということなんですが、途中、鳥などが食べてしまったらという屁理屈なしに純粋にですが、生活に約した場合善行の行為の因は、すでに結果もはらんでいるということになります。
 ☆ 因果関係というのは モノゴトについてのその部分的な要素ごとに・そしてそれらのまとまりとしてひとつの事象が どういう結果につながるかを明らかにしようとするものです。

 もしこの因果関係の考え方にもとづいて《因果倶時》というのであれば おっしゃるようにその要素がどういう経過を過程的にとるかを問い求めて得た成果としての その法則的な方程式のことであり それを具体的にひとつの善行なら善行に当てはめたということになります。原因としての事象にすでにのちのちの結果がつくられているといった見方をするのでしょう。


 ところが その方程式は やはりおっしゃるように
 ★ 途中、鳥などが食べてしまったらという屁理屈なしに純粋に
 ☆ 探究したその成果であることを表わしています。

 しかも そこで取り上げられている要素は 部分的であると同時に 《善行》ならその《善》としてきわめて主観的な判断のもとに捉えられ規定されたものです。

 おそらくそれでよいとは考えられないでしょう。経験科学として妥当性があるとは見られないでしょう。




 では それでも 因果倶時と言いたいとすれば どう捉えればよいのか?




 おそらく それは ひとつに要素ごとの時間過程的な行方については問うていないと思われます。もうひとつには したがってその倶時というひとつの時点にあくまでとどまってものごとを捉えるという観点の問題だと思われます。

 どういうことか? 
 おそらくは その時点において 《わが心にさからうかどうか》 これを問うているであるし それのみを問題にしているのではないかと考えられます。
 《わが自然本性ののぞむところを われはまもる》というその時点での選択 これを そうするか否かと問うて 問題にしている。こう考えられます。
 言いかえると 《わが心の思うところにさからって》考え振る舞うとすれば 心は動揺し鼓動は乱れ顔を赤らめ言葉はしどろもどろになる。という事態も ひとつの可能性として すでに因果倶時だと思われます。
 ですから そうしない場合の 自然本性をまもるという選択 これも 因果倶時だと見ます。

 ところが 話はまだその先へとつづきます。



 たとえばわが心の命ずるところに逆らって ことを考えそれを実行したとします。
 ところが だからと言って――そのときすでにただちに顔の表情がゆがんで来ているとしても そのことをもみづからの意志によって隠し通すという場合もあるように―― その因果倶時なる出来事が 絶対の法則だというわけではありません。いわゆる悪人は 或る程度においてのさばっているのが だいたい世の中の―― 一部分においては――実態です。 

 でもそのときにも やはり因果異時として――つまり長期の視点をとれば―― むくいはあると考えるか?
 どうでしょう?

 もはやわたしの結論をそのまま提出します。
 因果関係は経験事象について取り出して捉えることが出来ますが 因果応報というかたちで――つまりは 善因善果(または善因楽果)と悪因悪果(悪因苦果)という明確な方程式のかたちで―― 因果倶時も因果異時も われわれ人間には ついぞ分からない。分かるか分からないかが分からない。

 ということは 主観においては その因果応報なる見方が分かる場合があるかも知れない。とはなります。ですが おそらくその主観は その内容を人びとと共同化することは はなはだ困難なことかと考えます。もし仮りに共同化しえたとすれば それは ただ社会力学上 有力な勢力を形成してその力に乗っかって成ったに過ぎない。それ以上の共同化は 無理だと考えられる。という意味です。
 ですから 因果応報という意味での 因果倶時は 因果異時とともに ちょっと仮りに考えてみる思惟の一形態だということになりましょう。思弁的な考えにとどまるという意味です。それ以上の意味は 主観を超えては 現われない。
 こう結論づけられます。

 この相対性において 人間は生きます。この相対的な世界に生きることが 人間にとっては 絶対であるとなります。
 この絶対としての制約を知ること および さらにそこから《絶対》の側から あたかも認められ愛されて その絶対の制約をすら突き抜けることのできる心の眼がさづけられる場合が ときとして あるかも知れません。
 といったところで おあとがよろしいようで。お粗末でした。
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この回答へのお礼

大変参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/15 14:45

>嫌いではありません。


そうですか、よかった 疑問を持つことはいい事だと思います

>ことはどの経文にのっていますか?

  私も若い頃は良い事をしたら良い結果がでるのかってその疑問を持ちました。
  残念ながら私は勉学かでないので知りません  私の50歳半ばの人生経験則です

   いい事やったから必ず良い結果が出てますか。。  


 釈迦を神格かしない方がいいと思います、私たちと同じ人間であると思って仏法に触れたほうが
 いいと思います。


   >キリスト教は外道です

     いらぬお節介だとはおもいますが宗教的本質は同じです



   禅ではお経は便所の紙ですつまり役に立たない(文字で理屈で仏法は解らない)



   絶対無(事を執するも、元是れ迷い。理に契うもまた悟りに非ず)

    物事に囚われているのは迷い理屈に叶うのも悟りではない   悟りは=法です



  >釈尊が”法に依って人に依らざれ”

     人は善悪の中に生きてますから二元ですね、本来善悪がないと悟るのが法です
     人の善悪の判断は変わりますから法が変わりませんからそうなんでしょうね


     

この回答への補足

追記です。
外道を完全否定していません。儒教でも立派な格言があります。私も借用しています。キリスト教他ありますが部分的には良いことがたくさんあります。
今私は、仏法について色々確認、判別している最中です。
何事も全体、総合的に判断が重要ですので、色々質問しているわけです。
ですから仏法以外のこと又個人的な意見をいれると、膨大な内容になり、進みませんので。割愛したいと思います。もう一度いいますが、釈尊が説かれた経文について確認したいだけです。以上です。

補足日時:2012/03/13 23:54
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この回答へのお礼

>釈迦を神格かしない方がいいと思います
・神格化していません。”仏”です。仏法上の生命論からすれば仏界です。
 
>キリスト教は外道です
・仏教以外はすべて外道といいます。悪態に聞こえましたか。
いわゆる、キリスト教、バラモン教、イスラム教、天理教、儒教その他色々のこと。

>禅ではお経は便所の紙ですつまり役に立たない(文字で理屈で仏法は解らない)
・そう聞きます。禅宗の依経は楞蚊伽経です。禅宗始祖 達磨大師は「この経のみが人を救うことができる。汝は(第二祖のこと)これによって世を救え」といっています。自分の親、始祖をばかにしている言葉ですよ。

お礼日時:2012/03/13 23:19

   


 >因果倶時は証明とならないのではないかと思います。

   そのとおりです証明になりません!

 残念ながら必ずしも良い事を行ったから良い結果が出るようには出来ていません
 必ずしも悪い事を行ったら悪い結果が出るようにも出来ていません


  本当の仏法は因果を越えることです、是非を超えることです


  お嫌いでしょうが禅、親鸞、キリスト教を少し触れたほうが良いと思います
  大変な作業でしょうがその答えが見つかります。
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この回答へのお礼

嫌いではありません。釈尊の説かれた経文に関心があるのです。
キリスト教は外道です。仏法は内道です。私は内道の勉強をしているのです。
貴方の言っている、ことはどの経文にのっていますか?
まさか人からきいたことで、適当に書いているのではないですね。
No.1の回答者にも補足しましたので、見てください。

お礼日時:2012/03/13 16:35

もし途中で気が変わって善行をやめた場合、最初の因果倶時はどうなったのでしょうか。

その善行の結果は消えてなくなったのであれば因果倶時は証明とならないのではないかと思います。ご意見ご感想をお待ちしています。

○天台智顗の一念三千論は仏教真理として正しいものです。心の針は因果倶時です。だから因即果は正しいのですね。あなたの質問の要点は途中で変わればということですが、因即果の連続が因果の理法ですので、瞬時瞬時の念い(考え)は消すことができませんので善念に対する善は残っています。途中で悪念に変われば悪しき思いも残っているのです。因果の理法は一念三千論も含みますし、もっと時間的スパンの長い因果の理法も含んでいるのです。つまり悪しき思いと良き思いの時間的積分値で評価する場合を因縁果として一般的にわかりやすく因果の理法としているのです。
仏教の本道は心の統御ですから、天台智顗の教えのとおり、因果倶時で心を管理しないといけないのです。
悪しき思いが出たときは瞬時に修正をいれないといけません。それにより前の因即果に上書きして消していくのです。これは心の時間的な積分値を善あるいは仏の方向に常に向けていくということなのです。
菩薩や如来という方々は心の針が仏に向かう時間が普通の人より十分に長いということと考えれば良いと思いいます。
因即果が正しいことは、肉体生命的思考ではなかなか理解できないと思いますが、霊的世界では悪しき想いは即地獄に通じ、良き思いは即天国に通じてしまうのです。だから一人一人の心のあり方の平均値で住む世界がちがっているのです。それが天台智顗の一念三千の世界ですし、空海の十住心論の世界なのですね。
キリスト教での話では、イエスは盗もうと思うだけでも泥棒と言っています。実際の肉体世界では実行しない限り泥棒にはなりませんね。でも、思うだけでも泥棒が正しいのですね。それが因果倶時ですね。
参考になるといいね。
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この回答へのお礼

ありがとう御座います。大変参考になりました。
因みに霊的世界(宇宙に生命が冥伏している状態)所謂、空の概念でしょうか?
ちょっとわかりづらいのです。
それと空海の十住心論がでましたが、この世界は具体的にどういう世界でしょうか?教えてください。
又、空海の著で、内容は大日経、菩提心論を依所として、十住心を立て顕密二教を判じ、特に第八住心に法華経を立て、第九住心に華厳を立て、第十住心に真言を立て、法華を大日に劣る第三の戯論と立ているとのことですが。これは本当ですか?。教えてください。よろしくお願いします。

お礼日時:2012/03/13 23:36

宗教の1つの本質はモラル=自己中心的に陥りがちな人の


意識をして、社会行動に導くものである。
人類は、社会生命として分業化=助け合って生きており、
短絡的に利己行動をとれば、長期的には社会性の劣化に
よって自分も損をする。
しかし、社会が大きくなるほどに、その「長期的」が長くなり、
“やったもん勝ち”になりがちであるが、実際に誰もがそうすると、
その『長期』はあっという間になる。
それを戒めるためには、その因果の“果”の部分を「やったもん
勝ち」で勝ち逃げできないように、すぐバチが当たるとか、
結局来世で苦労するとか、方便を使う必要があるのだ。

この回答への補足

質問は因果倶時です。
何も個人的な宗教の意見をきいていませんよ。
よく読んで、質問の答えをしてください。
仏法は、釈尊が”法に依って人に依らざれ”と50年の説法のうち最後の涅槃経で
説いています。ですから、因果倶時は、仏法の法門上どうですかということです。
ついでだからいっときますが、すぐバチが当たるとは、どの経文にでていますか。
個人的な意見はいりません。何度もいいますが”法に依って人に依らざれです”

補足日時:2012/03/13 05:11
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この回答へのお礼

返答にはなっていませんが、とりあえず、”動執生疑”にもなるとしまして、お礼もいれておきます。

お礼日時:2012/03/13 05:17

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