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私は私の頭で考え、私の記憶をたどり、私の意志で行動します。それは私の脳の働きによるものです。他人にも同じように同じ仕組みの体や脳があります。
私が以前から疑問に思っているのは、人間はみんな同じ仕組みなのに、なぜ「私」は私であるか、ということなのです。
他人はこの世に大勢います。他人は「他人」が動かしています。
それならば、私も「他人」として生まれてきてもよかったはずです。私の体も脳も同じなら、考え方や感じ方も同じはずですから、この世に何の影響もないでしょう。
しかし、なぜ「私」は私の感覚を受け取れて、「私」が意志を決定できるのでしょう。
私の感覚を受け取っている「私」とは何なのでしょう。

うまく説明できていないかもしれません。伝わらなかったらごめんなさい。
このようなことは研究されたりしているのでしょうか? また関連する文献などはありますか?
もしご存知の方がいましたら教えてください。

A 回答 (23件中1~10件)

利己的遺伝子の働きによっているのではないでしょうか?

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自分がいるから、他人がいる。


他人がいるから、自分がいる。
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人の自我は、個性があるので、人の数だけ、自我があります。

だからこの世界は、不完全で争い事ばかりです。しかし神の世界は、完全調和です。この世界は、日本人が言う、諸常、無常の、仮の世界です。だから不完全でもいいわけです。脳と自然がぶつかったらどうなるか?と言うシュミレーションの世界です。本当の世界は別にあります。人は、神の世界から、脳に誘惑されて、一人一人が違いと言う、個性に魅力を感じて、この世界に来ました。しかし2012年に、この世界も終わり、また元の神の世界へ、人は帰ります。
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 NO7、NO14ですが、NO14よりもっとハッキリと科学的に魂の存在を証明した事例を記載した文献がありました。



 「神秘の法」(大川隆法)という本の168~171ページに、真空管製作者として有名な科学者達が、死者霊を物質現象化させて写真を撮ったり話をしたり髪の毛を切って顕微鏡で調べたり等々の様々な実験をした件についての記述があり、更にそのことを取り扱った文献を多数参照掲載されています。
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人間誕生時についての、私の推理では、こんなことがあったのではという想像力が働きます。



動物の脳が 笑いを知らないのは、ある「希望」とかユトリとかが本能にしばられた状態の脳には存在しないからだという考えが私の中にはあります

丁寧な毛づくろいも 本能的な権力関係からの中でのこと、そこには「仲間」という感情はあっても またさびしさ?いう言葉にあたる何かはあってもそれもまた 本能にしばられたユトリの無い意識状態の中でのことでしかなかった「友」という概念に似たものも無かったという推理が私の中には働くのです。

これは 私が子供の頃 いじめられることからの恐怖で、長い過程をへてとうとう気が狂ってしまった体験を何度かしたことからの推理です。

気が狂った状態というのは、むしろはっきり覚えていますし、忘れようにも忘れられないような体験の一つとなるかと思います。

覚えているからこそ はっと我に帰ったときの惨めさは、子供であるほどに(物心ついばかりでもそれは理解できますから)大きなものだったのだと思いますが、  その最中が苦しいということではありません。

二度ほどの体験ですが、一度目は 電車の中で急に自分が人の足をボンボン踏みつけながら走り回り始めたことですが、  周りの人たちが一人を除き目をいっしょうけんめいそらそうとしてる姿まで全部覚えています。

たった一人、年配のご婦人が一生懸命目を覗き込み笑いかけようとして顔を引きつっていた姿まで覚えているのです。 61歳の今でさへです。

その次の二度目が、ちょうど、他の人にも動物の意識状態と近いことを説明しやすい意識状態でした。  やはり電車の中でですが、私は私に少しでも触れた人がいると  恐怖におびえた獣か 自分の子供を守ろうとしている親猫のようにクルッとふりむきざまフゥゥゥゥッとうなり声をあげて睨みつけていたのです。(もちろん、はっと気がついたばかりの時が、一番惨めだったことは人に語りたくなります。 惨めさという言葉がこれほどこの世であてはまる瞬間は無いのではと思うからです。)

わたしは、ぎりぎりのところで美しい海辺の虚弱児施設に入ることが出来助かったのですが、(そうでなければ私は廃人となって死んでいたでしょう。)   その後 青年期には 五感無感覚状態を何年か体験したことがあります。

それは徐々に快復しましたが、川原でたまたま何時間かぐったりとねそべっていた体験が快復の因となっています。  やがて小川のせせらぎがその音が自分を癒してくれていることに気がついたからです。  そうしたら始めて すこしですが、青空や白い雲を自分が上に見上げてることにも気がつきました。

でも 気が狂った時の意識はさらにさらに、人間の通常の意識とは別のまったく虚しいというか 人間としての感性なんて全く無いような状態でした。  そこからの、推理で すべての動物心理が解かるとは思っていませんけれど、 動物脳の状態を推理するよすがにはなると思っているのです。

その中に「わたし」は存在するでしょうか?   

人間以前に 「わたし」とはこの宇宙や あるいは脳に存在したでしょうか?  

という問いに関しては koneko200さんはどう思いますか?


その概念は 人間以前には存在しなかったと私は思っています。

で、

ここからが人間誕生時についての私の推理ドラマの世界となります。

まず、人間の脳に進化した時に、人間が動物の脳と最も本質的に大きく変わったのは「自他を見つめる脳」ということです。 「物事を見つめる脳」と言ってもいいですが、本質を説明しにくいので「自他をみつめる脳」に変化したと便宜上からも表現しています。

だから、反省することが出きるようにもなりそれによって進歩という形も始めて大きく人間は手に入れたとも言えるのですが、 またそれによって、やがて人間は言葉も手に入れるのですが、   それ以前言葉以前にでは感性の部分はどうだったのか?  あたりも含め、最初のドラマを描写してみましょう。

動物の状態では、まず友という意識が無いことはすでに語りました。その意識のユトリが無かったということです。

それが ゆるやかな進化によってもたらされたものか 突然変異なのかは私には解かりません。  しかし、ともかくそこまで脳が発達した時に人間がそこに見たものが  始めてそこにいるのが「友」であるという自覚の意識です。  友として手を肩にかけ、友としてリスペクトを持って痛みがあれば友の体をさすり、友として始めて笑いかけもしたということです。

しかも うれしくなって それだけでうきうきした気分とかの感情にもなったはずです。 うきうきという言葉以前にです。

そのへんの感情史論とかの 最初の頃の森の中での私たちへの推理については 詳しい考えは、今回は略しますが、

実は その脳が見たのは、友と同時に、始めて日の光も 緑も小川の音も、海の潮風も音色も、青い空も 雲の流れも、それがやがて赤くなることも、そこに
一番星が光始めることも、   おそらく私たち以上に新鮮に 始めて脳がゆとりとともに、それを新鮮に感受したのだというのが私の推理で一番言いたい点です。

意味という言葉以前に、意味自体が誕生した瞬間があったということです。

始めてその生物は、 その一番星にまだ名前はつけてなくても目をあげ、そして友の目をみつめ、もしかしたら指差し、もしかしたらいっしょに手をつないでそれを いっしょに見つめたのです。

始めて 「わたしたち」としてです。 「わたし」と「わたし」との出会いとしてです。

それも、また、現代の文明と言葉の世界では考えられないような新鮮な気持ちと感性でです。

それを現代人が 逆に再び知り感じるには、 愛が必要だったりします。

愛という言葉がすでに 垢にまみれているなら、その実態の理論も必要となったりもするでしょう。 ともかくそれを獲得しなければ、 その原点には帰れないということがひとつ大きな問題としてあります。

文明病の克服とも言えるかと思います。  言葉をとおし理論をとおし、今度こそもうゆるぎのない新鮮な感性への目覚めを獲得する闘いの旅が必要なのだとも言えます。

文明を逆戻りすることが その克服への道とは思っていません。

でも、ほんとうに心や頭が整理されるならそれだけでも、これは私たちが 私たちであるという原点をじかに感じる感性をとりもどすチャンスでもあったりするのです。

詳しく書けば あらゆることを書く必要がでてきそうな回答なのですが、
私の方からは  

「私」イコール虚しいという現代病を克服しらた、

この「わたし」という謎は、 疑問としては消えて当たり前のことになってゆくという答えを提示しておきます。

あくまで、 こうして語り、 以前 私の時代に戦後を経験し、始めてのテレビドラマに、虚弱児施設にて涙をながして感動し「わたし」が別の人でありえることが   その謎の前提でありつつなのです。

愛だけが、この答えへの道だと思っているのです。

やっぱり わたしも うまく説明できていないと思いますが、 精一杯 ともかくまとめてみました。

関連文献は、おそらくですが、 これからこそこの情報化時代にこのへんもっとまとまったものが出てくるのではないかとも 推理している者です。

参考になればと思います。
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回答ナンバーNo4の arayata333です。



コメントをいただければ、 再回答するお約束をした者です。

遅くなりました。(時間がなかなか取りにくい上に 今、メール機能が壊れていてることも原因です。)

今も、きちっとした回答をする時間はとれません。  でも今週中にはかならず回答をします。  どうか、まだ閉じないでいてください。

よろしくお願いいたします。



前回の文で、最後の段に“間違い文章”がありましたので、それだけ急ぎ訂正しておきます。

<「私」のごく当たり前の感性の進歩と関わること、あるいは充実とか幸せと関わるアイデンティティとは別な世界のことです。>

の部分です。

「 「私」のごくあたりまえの感性の進歩に関ること、あるいは充実とか幸せと関ることであり、 それはアイデンティティとは別な世界のことです。」 というふうに訂正します。

ほんとうに充実した幸せは、 社会の目線とは別の世界だということです。

これが どうして「わたし」という存在と関ることなのかを 説明させていただきます。

「幸せ」→“「わたし」という存在”  ?。  そんな考えは 理論足りえるものでは無い、 ちゃんちゃらおかしいよ、感覚の問題じゃないか。  あなた(私のこと)の錯覚について聞きたいのではないよ。

 と言いたくなるかも知れません。   でも、もし最後まで読んでも そうかどうかを、 是非検討していただきたいのですが…。



>でも、こういうことを神様に頼るならすぐ解決しそうですね。<

そのとおりですね。   神だけが もしいるならですが、 《過去行く百億年、未来永劫、宇宙のはてまで探してどこにもいない「私」という存在》の尊さをすべて知ってるのでしょうからね。     

いつしか知らない間に 気がついたら存在していたこれを書いている「わたし」も 同じ大地に たった今これを読んでいる「あなた」という「(わたし)」も、          今 言葉という存在によって、同じ疑問の渦中を   たった 今 呼吸してるので笑ね。(ユモレスクより)

ユモレスクというクラシック音楽があります。  大好きな曲です。 「ユーモアのある悲しみ」といった意味もあるタイトル名の曲です。

神は、実は 存在しないかのような設定でこの世を作られています。 つまり、神を頼るのはけれど幻想になってしまうということです。

このつらい事実から、「私」たちは立ち上がれるのでしょうか?

この答えを書いてみたい回答者なのです。

よろしくお願いいたします。
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自分は何者か?と云っても人生は何なのか?と云ってもこれらは皆同じ処から発生している問題かと思います。

それは自分の心からですが此処に問題が潜んでいます。

自分に自分が疑問を抱いているところです。人間の心はお釈迦様の時代から変わっていないと思います。貴方の疑問の答えは貴方自身がもう既に答えを知っています。それは貴方を貴方らしく、或いは貴方として、或いは貴方の感覚として、貴方自身として成り立たせているものが居ます。

貴方は自分の自我意識が自分の全てと思っているのでしょうか?貴方にはもう一人の貴方が居ます。それは貴方を働かせているものと云えます。お釈迦さまが仏性と云ったものです。

それは無意識の貴方を司っています。貴方が今言った者に出会うとしたら「自分自身を知った」と云う事になります。見性したと言う事です。
悟りを開く事です。この事で貴方は自分とは何か?と云う疑問が氷解します。全ての疑問が氷解します。

禅の中にその答えの探し方が在ります。鈴木大拙博士の著作したものを学ぶと言う事ではどうでしょうか?禅問答が解けた時には、もう一人の自分と出会う事になります。
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思考的に単純な事が触れられていないことがありましたので、回答は持ち合わせておりませんが一言、戯言を



想像してみてください ”誰一人いない山奥に生まれたとしたら”
”私”いう意識は生まれるでしょうか

以下独り言
この結論から 本質ではなく対社会生活上から生ずる雑念?。
さらに拡張すれば、社会生活なくば自己おろか哲学もあらず。
群れをもって人と帰す。
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 私もご質問者さんと同じ感覚におちいることが多々あります。

最初は学齢期以前、それから古希過ぎの今日に到るまで。
 それでヒンドゥの思想などを勉強してきております、拙く精進をして。
 ここで私の40年ちょいとの勉強と精進の対象を書くと、一定の宗教団体とされるものを紹介することになるので、削除の対象になるでしょう。
 だから、AtmanやSelf-realization(自己=Atman=魂)という一般名詞で検索すると、いろいろ出てまいります。私の勉強しているfellowshipもあるかもしれませんが。どうぞご参考になさってください。
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 NO7ですが、参考の文献を、ということですので、肉体と別に魂があることを何らかの形で著した書を何冊か紹介させて頂きます。



●「さよならブラックバード」景山民夫(あとがき部分)
 生前盲聾唖として一度も会話できなかった著者の娘さんが亡くなられた際、肉体を離れた魂と初めて著者が会話を交わすシーンが本のあとがきに記述されていて、今読み返しても落涙しました。

●「顔面麻痺」ビートたけし
 かなり内容は忘れましたが、たしか事故でボロボロになった自分の肉体を見つめながら、「もう一度この肉体に入ってやって行くんだな」みたいなことをつぶやいているようなシーンがあったように思います。(正確には違うかもしれませんので、ご了承下さい。)

●江原啓之氏の本(色々あります)

●「永遠の生命の世界」大川隆法(その他も色々あります)

●「ティマイオス」「クリティアス」プラトン
 肉体と魂をつなぐ線について言及されている、とのことです。(私は原典を読んだことはないですが。)
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