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よく、投資の哲学とか、
経営の哲学とか、
遊びの哲学とか、
宗教の哲学とか、
政治の哲学とか、
○○の哲学という言葉が世の中に氾濫していると思うのですが
どうでしょうか?
哲学=思想 なのでしょうか?
皆様の意見をお聞きしたいです。

A 回答 (7件)

哲学の研究範囲は広いので、仰るとおり人生訓=哲学という誤解が一般的にされているでしょう。



哲学は思想を含みますが、宗教、美術、科学、倫理など多くの分野を構成する学問なのでそういった人生訓とはあまり関連がないのではと思います。
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論理の帰結の一つが哲学とも言えるかもしれませんが、そういった基準や規範がないから


言葉だけが濫用されてしまうのではないだろうか。一部では、「哲学」=「わけわかんね~」という
認識なんだろうね。

思想の、論理の帰結先が哲学でいいと思いますよ。
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八年経過していますね


言葉:哲学

人生のコンセプトプロトタイピング

読みかえると沁みる気もします
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 これ私も前から気になっていました。



 日本では中、高校で哲学をやりませんよね。
歴史の中に情報として哲学、哲学者がちらっと
出てくるだけ。

日本で
「きみの考えは哲学的だね」
などと言われたら、それは
「きみ何が言いたいのか良くわからないよ」
と皮肉を言われていると考えていいと思うんですよね。

日本語では
哲学=何か難しい考え。よく分からない考え。
になっていると思うんですよ。

 でも実際、哲学とは「何々とは何か?」といった
問いかけの連続とその、問いかけとその答えを
表現する客観的手法(言葉、数学の論理)の固まりだと
私は考えているんです。


>経営の哲学
と日本人が使ったとき、意図するところは
経営を難しく(深く)考え表現することという
ところなんでしょうが、哲学の本質を考えたとき
経営の哲学という言葉の意味するところは
経営とな何だろうかと思い悩むことになると
思うんですよね。
 企業経営者が「経営とは何だろう?」と思い悩んで
いたら経営などできないわけで、これが私の
経営哲学ですなどと言っている人の掲げているのは
「わが社は生産活動を通じて社会に貢献し~」
のような単なる経営方針なんですよね。

>哲学=思想 なのでしょうか?

 人間あっての哲学ですから、広い意味では人間の
思想の1つでしょう。プラトンのイデア論など宗教では
ありませんが、この世には目で確認できなくても何か理想的な
存在があるという人間の1つの考え、思想ですから。
でも主体は分析にあると思います。

ですから私は
哲学=高度な人間の分析手法(演繹法、帰納法、・・・数学)
と考えます。
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これは、まず間違いなく、英語(とりわけアメリカ英語だと思います)での使用法を、日本語に翻訳しているうちに、こういう表現が氾濫して来たのだと思います。

「哲学」というのは、「philosophia(ピロソピア)=愛智」の訳語として日本語としては造語されたもので、この場合、形而上学や哲学史における哲学体系などの「哲学」の意味の言葉として造られたものです。従って、形而上学や深い思索体系=哲学というのが、日本語では、普通考えられる意味です。

しかし、英語の場合、「経営の哲学 philosophy of management」とか、「我が社の哲学 our philosophy」などと、企業実務での、企業の経営方針や、企業・会社の社会におけるあり方・使命などは、どういうものであると考えているか、などの「理念・思想」を、上の例のように、philosophy という言葉で表現します。

日本語の場合、「哲学」というと、そもそも「哲」とは何のことか、あまり他の熟語では使わないので分かりません。「学」の方は、「学問」だと分かりますが、「哲」の意味が、今ひとつよく分からないので、「哲学」というと、学者が研究している、人間のありようや世界の存在や、価値や倫理に関する、高度な思想の体系だというようにしか、意味がとれなくて、それ以上だと、No.1 の方も言っているように、「個人哲学」としての「人生観・世界観」のような意味に転用する程度であったのです。

しかし、英語だと、これは philosophy で、「智慧を愛する」ということだというのが、日本語での「哲学」よりも、一般的に何のことか理解しやすいのです。

それ故、英語(だけでなく、西欧語)では、philosophy の意味が、日本語での訳語の言葉よりも、もっと広くなるのです。例えば、mental philosopy というと、「心の哲学」ですが、これは「心理学」のことです。

西欧の思想や学問の歴史では、哲学から、天文学や物理学や数学や、化学や、また近代以降だと、政治学、心理学、社会学、宗教学、経済学などが「文科科学」として分かれ出たという事情があります。日本に、「哲学」という概念が入って来たときは、すでに分化した後なので、「哲学」というと、形而上学や、「世界や人間についての思索の体系」というようなものに限定されてしまっていました。

しかし、西欧の哲学の歴史では、宇宙の哲学や物質の哲学が、天文学や物理学や化学になったのであり、社会の哲学、心の哲学、宗教の哲学、政治の哲学が、社会学、心理学、宗教学、政治学などに文科したのだと言えるのです。

そこで、元々哲学が扱っていた、宗教学や社会学や政治学などにおいて、哲学の方から、または哲学の方向へ、原理的考察などを行った場合、それらは、宗教哲学、社会哲学、政治哲学という風になるのです。

また、第二に、英語の哲学には、「ある知識・学問などの根本原理・哲理」というような意味があります。「経営哲学」とか「我が社の哲学」とか「投資の哲学」などは、「経営の方針」とか「我が社の方針」とほとんど同じ意味だと考えてもよいと思います。

ただそれを、「ポリシー」ではなく、「哲学」と呼ぶのは、この「方針」のなかに、社会との関係や、つまり社会での役割、貢献や、社会のありように対する考察・原理方針や、人間の幸福などについての理念が前提として考えられており、そういった考察や原理基盤の上で、「方針」を立てているという意味の表示で、こういう表現になるのです。

「投資の哲学」も、「投資」という経済行為が、社会や人間にとって、どういう意味や位置づけを持つかを深く洞察し、原理的に考察した基盤に立って、投資の方針を提唱するというようなニュアンスがあるのです。

「投資の哲学」「経営の哲学」などは、上の第二の「ポリシー」の原理的に深いものとしての「哲学」の意味で使われていて、「宗教の哲学」「政治の哲学」などは、元々の哲学の持っていた学問分野としての意味に近いのだと言えます。「遊びの哲学」は、「遊び」は人間にとって本質的であるとして、「ホモ・ルーデンス」などの言葉を造ったホイジンガーを初めとして、「遊び」の考察は、人間の存在の解明につながるので、「遊び」も哲学の対象であるということで、こういう言葉があります。

しかし、哲学の歴史や、哲学という言葉の原義から、自然に出てくる、哲学的原理的方針としての経営の哲学などはともかく、日本の企業や、その他評論家の人々が、「哲学」という言葉の重みや伝統を知らず、ただ、キャッチフレーズとして聞こえがよいとか、実に安易な理由で、こういう風に「哲学」を濫用しているという実状も、日本ではあるのです。

日本では、宗教法人の設立が容易で、中小企業などの税金対策として造られているという現状もある訳で、「宗教」も、その本来の重みや意味を離れて濫用されています。同様に、「哲学」本来の真理を探究するというような姿勢などと無縁に、企業や評論家などが、宣伝コピー的に、「哲学」を濫用するのは、確かに問題と言えるでしょう。

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追記:芸術などを例にすると、「あの人の絵画、または小説には、哲学がある」という場合、その作品を通じて、世界や人間の問題に対する「深いロゴス的洞察や広い知見」が伺えるという意味です。他方、「あの人の絵画、または小説には、魂がある」という場合は、「ロゴス的洞察」ではなく、「魂に感応する深さ、広さ、感銘」があるということです。

従来だと、「魂が感じられる」だったのが、「哲学が感じられる」というのは(本当にそういう場合は別ですが、それはきわめて稀なはずです)、言葉の誤用であり、濫用だとも言えますが、「哲学」という言葉が、そういう風な意味を持って行くというのは、言葉の意味・用法の変遷で、それは仕方ないことです。しかし、元々の意味からすれば、日本ではやはり「誤用・濫用」なのです。

言葉の誤用というのは、大勢の人が使っているので、「誤用でない」とはならないのです。「現在、一般に使われいるが、誤用」というのはあるのです。(「人生についての深い考えや信念がある」という、「人生哲学」としての意味で使っている場合は、従来からもあったので、誤用とは言えませんが、どうも、そういう用法も逸脱している使い方が多いと思います)。
 
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僕は氾濫しているとは感じません。


企業も個人も、もっとしっかりと哲学を持つべきです。
この場合の哲学とは、その基本概念を構築している価値観、美意識みたいなものの
代名詞だと思っています。
これは非常に大事なことで、方法論では片付けられない問題も、
その背骨に沿っていけばいい、と理解させてくれます。

たとえば、表現者は、その技術や方法論が問われているわけではなく、
そこに映し出される個人的な哲学が問われているのです。
もしそれが音楽家なら、彼らのつくりだすメロディー、リズム、
音の質感、アンサンブル等・・・
その表現の仕方に集約されますが、
僕らはそこから醸し出される”匂い”に反応し・・・・
その音楽を好きだとか嫌いだ、と判断しています。
そう、つまり”気分”を味わっているのです。
その気分は、まさにその表現者の持つ個人的な哲学の結晶みたいなものでしょう・・・

こういった個人的な哲学に限らず、企業も”原則”といってもいいような
哲学をしっかりと持つべきだと考えています。
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【哲学】という言葉を辞書で調べてみると


1)世界・人生・事物の究極のあり方や根本原理を理性によってきわめようとする学問
2)自分自身の経験から得た人生観や世界観。「人生-」

…とありました。

世の中に氾濫している『哲学』は、この2番目の意味のものが多いのではないでしょうか。
人生観や世界観というのは、人それぞれですからねぇ~。
人それぞれの『哲学』があるといっても、おかしくはないのでしょうね。

ちなみに『哲学』という言葉は、西周(にしあまね)という方が
「philosofphy」という言葉を訳されて出来た語であります。
(西周さんについては、参考URLをどうぞっ♪)

余談ですが、私が「世の中に氾濫しているなぁ~」と思う言葉は「貴公子」です。
あれも、なんとかなりませんかねぇ~。(笑)

参考URL:http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/ …
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