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哲学よりボランティア

哲学は、何の役に立つのでしょう?
たとえば「自分と何か?」という問いに対し、深い認識を得たとしましょう。
しかし、それが、(社会の、)何の役に立つのでしょうか?

「哲学する時間があれば、ボランティアをせよ!」

そう言う人がいたとします。

あなたなら、何と答えますか?
 

A 回答 (40件中1~10件)

 多くの回答と、それへの返事を見て思いました。



 哲学とは思索する世界。行動以前。

 行動は哲学的思考の停止状態。

 哲学そのものは具体化できず、具体化されたものを哲学とは云えない。

 また実践哲学なんて言葉も出てきてましたが、『哲学』も捉え方にレベルがあるようで。

 kunobouさんの受けとめている『哲学』は“純哲学”と云いたい。

 社会に役立たせるためにする“思索”は『哲学』ではない、と。

 ☆ただ、そう思ったということであって、決め付けているわけではありません。

 
 
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この回答へのお礼

 
回答、気に入りました!
 

お礼日時:2010/05/28 11:05

>>ボランティアも、慈愛の心から出る行為で、哲学が直接支配ていると断定できないと思いますが・



哲学は仏教哲学も含めて、人生哲学、生命哲学と広いものです。

あなたは机上の空論の議論や考えをこねくり回す禅問答の枝葉の一部だけを哲学と思っているんでしょうが、低級なレベルだけを見て哲学とするのは知識不足の偏見になります。

確かに考えは大事ですが、そのメンタルの進化、意識の向上で行動が変わり、行動が変わることで原因が変わり、原因から結果が変わり、ひいては人生が変わる。
 つまり根本の人間が変わるから人生も変わるんですが、そこには教育や知識を身につけることで、自己を成長させているのも、自己の変化として含みます。
 しかし知識だけで行動がなければ、幸福追求の考え方や、因果の考えでは何も変わりませんし、科学すら発展はなかったでしょう。
 生命哲学では、真理を聞く段階や真理を生きる段階など、また方便によって低い意識の人を導く方便などもあります。
 ですから、机上の空論に終わる議論で終わる低いレベルの哲学ははなはだ方便であり、導く段階であり、方便です。
 一流選手などの高い意思力などは、哲学からの発想です。 それはある種信仰心で鍛えられる部分ですね。
 バッシングや失敗など、そういう不の部分と精神的に戦いながら、前向きになるというのは特別な能力であると思いますし、
石川リョウ選手は最年少で賞金王に輝いてから、予選落ちなどが出てきてるのも、六道の考えからすれば、無意識の慢心によって落ちるということと同じで、勝ってかぶとの緒を締めよという言葉通り、一流を続けるにはそれなりに考えや哲学、意思などを持たないと心が簡単に風のようになびいて原因から結果につながるということです。
 これは生命哲学なども含んで、またその考えを学んでない人も、その哲学を実行して生きているということです。
 ですから石川選手などを見ていると、賞金王と予選落ちという2つの世界で戦っていると思います。
 哲学とはあなたが思っているよりも広いということを知ってくださいね。
 行動哲学に変わらないと、議論や考えは机上の空論で終わってしまいます。それはひいては生き方につながります。
 
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この回答へのお礼

 
それほど哲学に詳しいなら・・・・

色々な書籍を参考にできるでしょうから、それらを総合的に考えて、
                            ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
「哲学とは何か?」「哲学の定義」を述べてもらえませんか?

納得できる定義を述べられるなら、あなたの意見も認めましょう。

(注、可能なら、狭義の哲学、広義の哲学も述べてください。)
 

お礼日時:2010/05/28 08:02

哲学になっていますね。

「哲学する時間があれば、ボランティアをせよ!」と挑戦状を送りつけることが、哲学の問いになっていますね。この言葉は、ボランティアを励行しているようでいて、実のところ、哲学ベースで考えているのです。

役に立つ、というのは、役に立つから、それをやる、ということに聞こえます。でも、役に立つことがどれであるかは、わかりません。飢餓の子供に、一粒のエサをやることが、その子供にとって、いいことかどうかもわかりません。その点、農業教育は、より飢餓の子供を助けることになります。でも、いずれ、人は死ぬことになっているようです。何だか、無意味な気がしませんか?楽しいことをすればいいのです。これが、なかなか難しいのですが、そのようなボランティアのような偽善から離れた方がいいのではないでしょうか。もちろん、ボランティアをしたいと思っているのであれば、話は別ですが。

ハンドルというものは、基本的に存在しないかもしれません。実は、ブレーキやアクセルもないように思ってきました。何かをしているということなのですが、世の中は、勝手に、物事が進んでいくというイメージが私にはあります。私は、時々、心というものは存在しないのではないか、と思ってしまいます。世界の回転に対して必死にしがみつく、それが人生であるのかもしれません。
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この回答へのお礼

 
>心というものは存在しないのではないか、と思ってしまいます。世界の回転に対して必死にしがみつく、それが人生であるのかもしれません。

必死と感じるのは、心です。

心がなければ、「必至」も「余裕」も認識できません。
 
 

お礼日時:2010/05/28 08:04

私の答えは言わずと知れたこと、



   「人の道」を歩みなさい

です。
「人の道」を歩む、これが人類最大のボランティアです。

 

参考URL:http://www.geocities.jp/g3452sgp/hitonomiti
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この回答へのお礼

 
>私の答えは言わずと知れたこと

それじゃ、何も言わなくていいから・・・・
 

お礼日時:2010/05/27 08:04

>哲学する時間があれば、ボランティアをせよ


この言葉を質問者様の主旨に沿って分かりやすく言い換えたらこうなるのでしょうか。
「絵を描いている暇があれば、雑草を抜け」? いや、「考え事をする間に少しでも前へ進め」?
この方が近いかもしれませんが、やはり貴方は「哲学」というものに深い不信感を持っておられるような気がします。どうもそれは誤解ではないかと思うのです。

私の考え方としては、哲学というのは広い意味で価値観の創造と金額計算以外のものごとの良し悪しの判定の役割があると思います。

哲学はあらゆる人間の活動に関わっています。一概には言えませんが、いわゆる哲学者たちだけが哲学をしているわけではないのです。会社などのトップに近い、単なる歯車ではない立場のひとたち、何らかの創造的な仕事をしているひとたちは皆それなりの哲学を必要としているといっていいと思います。彼ら自身が(意識せず)哲学する場合もあり、ひとつの既成の哲学に沿って、それに基づいて行動している場合も多いと思います。
実業の世界でも必要なのがそういった哲学です。
戦後急成長を遂げた日本の多くの実業家が西欧の知識人から「エコノミックアニマル」といわれたことを記憶しておられると思いますが、それは日本人には「金儲けにまい進する」ということしか頭にない、いわば哲学がないと誤解され、軽蔑されたことが多分にあったと思います。
プロの哲学者たちは、いわば科学における最先端のような、まだ人類が結論を出していない思想(安楽死はどこまで許されるか?など)の構築に懸命になっていますし、日本の再軍備は必要か、どうか とかいうナウい問題なども懸命に考えていると思います。科学研究の最先端にも、この研究はどこまで許されるか?など難しい問題が山積しています。
そんなことを思えば、私などは「ボランテァをする暇があったら、少しは哲学しなさい!」といいたいほどなのですが、どうでしょうか。
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この回答へのお礼

 
それは、「哲学とは何か?」という、定義の問題に関わってきます。

それは、それで、難しい問題なので、今回は言及を避けます。

また、ある程度、疑問が煮詰まったら「問い」として、取り上げる予定です。

その時に、十分に、回答ください。

ちなみに、「竹田青嗣氏」http://www.phenomenology-japan.com/takeda.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0% …
は、

哲学は、世界の「真理」をつかむための思考方法ではなく、誰でもが納得できる「普遍的」な世界の在り方を”作り出す”ための方法である。

と言っています。
参考までに・・・・・
 

お礼日時:2010/05/27 08:20

哲学をするというのは、確かに、ある問題から逃げていると言えるかもしれません。

例えば、戦争が起きているときに、哲学をしていること、あるいは、子供が不登校になっているにもかかわらず、哲学をしていること。愛する人が瀕死の状態でいるときに、哲学をしていること。これらは、人間としては、下の下であると言えるでしょう。このようなことが、俗に言う哲学の悪いイメージなのではないでしょうか。

それはともかく、哲学というものは、だからこそ、有閑階級、つまり、時間とカネのある人たちが営む生活スタイルなのだと思います。あなたも、そういうわけで、ボランティアということを連想されたのだと思います。時間とカネのある人間は、もっと人の役に立つことをすべきだ、ということです。時間とカネがあったときに、何を考えるかというと、その特権で、何かをやるということですね。もしくは、何もやらないかもしれない。でも、何かをしようとするときには、大きく分けて、ボランティアをするか、哲学をするか、ということが行動の選択肢になるでしょう。つまり、社会に目を向けるか、一人の世界に引きこもるか、ということです。でも、ちょっと待ってください。もし、このような議論をまともに提出しているのであれば、それは、哲学を擁護していることになりませんかね。哲学かボランティアかということを議題にしているのは、哲学の仕事です。つまり、哲学は、一時的なブレーキなのです。アクセルがボランティアであるのであれば、哲学は、そのボランティアの意義を吟味することではないでしょうか。こういう意味での哲学であれば、哲学にも活躍の場があると考えていいと思うのですが、いかがでしょう。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

>哲学は、一時的なブレーキなのです。アクセルがボランティアであるのであれば、哲学は、そのボランティアの意義を吟味することではないでしょうか。

これも、後の方で回答のお礼で書いていますが、「哲学の定義」に関わってくるので、その辺への深い言及は避けますが・・・・

具体的に考えてみたいと思います。

たとえば、飢餓に苦しんでいる地域があったとします。
そこへの、食料の配給が、ボランティアとして行われたとします。
結果、そこの人々が、食料の配給を待ち望むようになり、自らの自立を怠ったとしましょう。
そこで、あれって、疑問が出てきます。
それで、次は、食料の配給も行いながら、畑の作り方を教えたとしましょう。

ここで、出てきた疑問は、哲学でしょうか?
人間の、自然の疑問ではないでしょうか?敢えて「哲学」と言う必要はあるのでしょうか?
また、ボランティアの方法を変えましたが、これは、ハンドルを切る事に相当すると思いますが、
回答者様の話の中には、このハンドルのたとえが抜けています。
とても、大事な機能だと思うのですが・・・

再考して、書き込んで頂くと嬉しいです。
 

お礼日時:2010/05/27 08:37

哲学とはどう生きるかを含んでますから、ボランティアは哲学からの発想の行為です。


行動と考えだけして遊んでいるレベルと哲学にはいろんな種類がありますが、行動なき哲学は机上の空論で何の役にも立ちません。

>>「哲学する時間があれば、ボランティアをしたほうがいい!」
そのとおり
しかし考えをまとめる時間も必要、両方大事
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この回答へのお礼

 
>哲学とはどう生きるかを含んでますから、ボランティアは哲学からの発想の行為です。

そうでしょうか?

前回答者も述べていますが、哲学は基本的には、知的活動です。
現実の行動をすべて、哲学が、関与しているわけではありません。

寝る。食べる。排便する。性行為・・・・哲学が支配していますか?

ボランティアも、慈愛の心から出る行為で、哲学が直接支配ていると断定できないと思いますが・・
 

お礼日時:2010/05/27 08:48

「哲学」とは、広義には知的活動全般を含むので、諸科学(科の学問=枝分かれした学問、狭義の哲学『科』も含む)を丸ごと含んでいます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6

哲学は
philosophy = 智を「愛する」
であり、智(文字・記号として、概念として、相互に交換可能な形態)を「愛でようとする思い」が主であり、智はその副産物でしかないでしょう。。。

人は生まれながらにして「智を【愛する】」という自発的な行動を取ろうとします。
智を「愛する」という行為は、生まれながらにして人間に備わっているものであり、その自発的な「思い・情」を(何に)役立てるかどうかは、その人の人生そのものでしょう。また、「愛する」という概念自身が、人それぞれ異なるということもあるでしょう。。。
また、対象が「智」ではなく「人」であれば、人と人とが相互に関わり合っていこうとする方向性です。対象が「自身の思考」や「他者の思考」であれば、さらに狭義の哲学に近い概念になるでしょうし、「他者への思い」を対象に据えるなら「ボランティア」精神の根本にも相通ずるものがあるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 
いつも、回答ありがとうございます。

>「他者への思い」を対象に据えるなら「ボランティア」精神の根本にも相通ずるものがあるのではないでしょうか?

最後のフレーズが、キーになっている気がします。
しかし、
「他者への思い」を対象に据えるなら
と、仮定形で、しかも、最後は、疑問形ですね・・・

ちょっと、突っ込みにくいですね。

自分は、後の回答者へのお礼でも書いたように、今回、ボランティアは「慈愛の心」から行う行為で哲学とは切り離せるという、スタンスで、質問を立てました・・・
すみません。
 

お礼日時:2010/05/27 09:14

ボランティアがそんなに価値のあることでしょうか。

ある意味において、それは、人助けのように見えて、逆に、余計なお節介という可能性もあります。もちろん、ボランティアをする人は、心の美しい人であり、尊敬すべきであるとは思います。でも、ボランティアを強要するのは、いかがなものでしょう。それから、これを言うと、怒られるかもしれませんが、ボランティアをすることは、社会の役に立つのでしょうか。そして、社会の役に立つということは、どういう意味を持っているのでしょうか。また、哲学とボランティアを排他的なものにするのも考え物です。哲学をしながら、ボランティアをするというのは、どうでしょう?それから、哲学しかできないという人もいるでしょう。ある意味で、治療のできない難病なのです。そして、私は思います。哲学することなんて馬鹿げているよ、というのは、哲学者自身がいちばん理解していると。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

ボランティアが人助けかどうかは、とりあえず置いておきましょう。
何度も書いていますが、ボランティアをうんぬんすることが、質問を立てた主な目的ではありませんので・・・・

>哲学することなんて馬鹿げているよ、というのは、哲学者自身がいちばん理解していると

これは、過激ですね。でも、そのような意見も待っていました。
他の、反発を買いそうですが、一人の意見として承ります。
 

お礼日時:2010/05/25 10:32

 なんだか食わず嫌いという印象ですね。

まあ頭がよくなると人間というのは色々と不安が増えるんですよ。例えば食品添加物に詳しい人とかはコンビニ弁当食べたら何の添加物が入ってるかとか解ってしまったりしてなかなかおいしく食べられないとか聞いた事があります。後芸術に嵌り過ぎてしまうとどんどん嵌り過ぎて段々満たされなくなったりするもんです。
 まあそういう価値観をずーっと持ってるのも何かと苦痛でしょう。脇道にそれる考え方が欲しくなるもんなんです。国によっては宗教がその役割を果たしているのですが日本にはなかなかそういうのがありません。人生1本道で行くのは相当難しいですよ。現実逃避と言ってしまえばそれまでですがたまには違った価値観でものを考えないと辛い人は多いと思います。まあ最も哲学だけにそういう機能が備わっているわけではないです。他に代用が利く分野があればそれで済ましている人が多いのも事実です。
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