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 ちょっと、質問が漠然としているかもしれないのですが、
 「どれぐらいの自信を持って回答してますか?」(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4637216.html)という質問などを見ていて、僕は反対に質問者について考えていたのですけれど、質問者の基本的なスタンスは、自分のわからないことに対して、納得したという感じの、主観的な答えの選び方をしよう、というものだと思うのですが、哲学には論理があって感情はないという話(というか、そんなこと)を聞いたことがあります。

 それで、まず聞いてみたいのは、
1.それは本当のことですか? 論理だけがあって、考えるというのは、論理(的思考)で行われるものだ。答えの正しさは論理の正しさによる。
 そうすると、
2.質問者が「質問それ自体」に対する正しい答えを選ぶためには、質問者自身にあらかじめそういう思考の(仕方の)用意が必要なのではないか?

 あるいは、僕が本当に聞きたいのはこうかもしれません。
3.論理とは何ですか? 論理的な思考をするにはどうすればいいのですか? 何を心掛けるべきですか?

4.哲学はよく役には立たないとか言われますけれど、僕も本当にたまに、考えることに対する誰かの本気さを感じると、これは何か他のことには別に役に立たなそうだとか思っているのですが、哲学が論理でするものだとして、哲学と論理は別のものですか? 論理というのは役に立ちそうだという感じがしているので、だからきっと、そういう思考の仕方を身につけたいと思うのでしょうが。

 でも、感情がなくて考える、というのは、僕にはまったく未知の方法なので、今一歩踏み込めないでいます。反対に、生まれ持ってそういう仕方でしか考えることのできない人というのがいると思うのですが、そういう人にとって、だから考えることがそうであるのは自明のことなのだろうと想像するのですが、僕にも論理的思考ができるようになるでしょうか?

 暇なときにでも回答などして頂ければ幸いです。

A 回答 (1件)

基本的には「哲学」は西洋で発展した、人間の思考を科学的に追求したものの考え方の塊です。


簡単に言ってみれば、頭の良い人間達が物好きで、人間の思考を一つの論理体系や方程式を作りたいが為に研究されてきた学問です。

科学的と言っても、人間の心の問題なので、完全に立証できるものはなく、哲学者達は仮定理論を作り、後からそれに見合うまでの情報があれば実証できたと言えるものだけなので、万物の理論を本当に解き明かしたことにはなりません。
要するに、俗に頭の良い人間達の自己満足の世界です。
そもそも万物の論理を全て解き明かすと人間は人間でいられなくなると思いますが。
哲学では、難しい考え方にしようしようとされますが、
真理はとても簡単でシンプルなものでしかないものばかりです。
まぁ、こう言っている私の考え方も一つの哲学なのですが、、

質問に対する答えですが、、
まず、哲学と感情を切り離しての考え方ですが、
哲学という学問上、感情を切り離して考えるは基本です。
十人十色の感情が入れば、公式が成り立たなくなりますからね。

しかし、それ以前に、「感情」というもの自体に、疑問を持つことが大事でしょう。上記されている時点での「感情」という意味には、「私情をいれず、第三者的、客観的に見る必要性」ですが、
「感情」というものが「私情」とは限らないですし、感情なしに思考できる人間は実際にはありえません。
その人独自の考え方の癖もありますし、考え方を左右する性格も「感情」になる可能性もあります。
むしろ、「感情」を排除して思考する、というより、「人間の理性」w排他して、思考する方が真意的には的を得ていると思います。

あと、「論理」は人間が勝手に解釈した、ただの方程式みたいなものですから、本当には、間違いなのかもしれません。「完全な真理」は誰にも分かりません。(強いて言うなら神のみぞ知る。(自分は無神論者ですが、一応分かりやすく))。。ただ、「人間の理想」を公式化、指針化しているだけです。
ですが、人類が生きていくためにはやはり一定の指針や一般的なルールが必要になるので、「論理」は必要です。だから論理が打ち立てられている訳ですが、
そうなってくると、本当に深い所で、「人間の作り出す論理は、真理ではないかもしれない」ということになると、やはり、「自分の論理を信じる」ことが一番大事なことになり、それを信じて、実行する力が大事になってくるので、そうなると、もはや「哲学」の世界ではありません。
そうなると、「思想」の世界になってきます。
「哲学」を突き詰めて行くと、(人によっては)「思想」の世界に入ります。
あくまで「科学的に追求したい学者」はそのまま永遠と「哲学」のままですが、「人間が生きるための術(すべ)」につなげて考えだすと「思想」の分野に入るので、質問者様もいつかはどちらかの分野の方へ行かれると思います。

まぁ、それが、西洋哲学と、古代中国の諸子百家の違いですね。

直接的な答えになってなくて申し訳ないです。<m(__)m>
少しでも質問者様の参考になれば幸いです。
失礼しました。。
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この回答へのお礼

 yuyu2004さん、ありがとうございます。

 本当は質問する前にもう少し、自分自身で(本を読むなりして)論理について触れてみるべきでした。頭に体がついていかないのを、このあいだいけないなと思ったばかりなのに、また先走った頭になってしまったようです。

 感情を切り離して考えることは基本なのだけれど、(本当は)感情なしに思考できる人間は実際にはありえない、というお言葉には、少しほっとしました。僕は論理の世界にものすごくストイックなイメージを抱いていたので。
 僕は論理思考ができないために、できないものに憧れていただけのようです。そもそも「正しさ」とは何なのか、「感情」とは何なのか、感情を排した思考はストイックなのか(むしろ、快適かもしれない)、といったことについて「考える」という視点が欠けていたようです。

 あとは、論理が正しいかどうかは、結局わからない(「完全な真理」は誰にも分からない、という言い方でした)ということですが、ここでも僕は自分の体が頭に追いついていないことを痛感せざるを得ませんでした。頭だけが飛躍して、こんなことではどこにも辿りつけない、体はここにあるのだから、体を先に進めなければ、そうしなければ、次の行き先もわからないのではないか、そんなことを思いました。
 それはつまり、やはり「論理」というものを勉強したいということですが、それは、今、ここで質問をすることではないようです。質問をするとすれば、自分の体をもう少し先に進めてからのことでした。
 けれど、yuyu2004さんがアドバイスを書いてくださったおかげで、そういう自分の気持ちがある程度定まったように思います。ありがとうございました。

 今の僕がこのQ&Aを開いていても、誰のためにもならないと思いますので、本当に自分勝手ながら、閉じさせていただきます。すみませんでした。

お礼日時:2009/01/18 13:55

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