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古代世界におけるギリシャとインドについていくつか質問があり、自分の手に負えないため皆さんの知識を拝借したいです。

1 「ミリンダ王の問い」という本があるように、アレクサンドロス大王がインドまでやってきてから古代ギリシャとインドの哲学者達は少なくとも接触はあったはずなのに、どうしてその後お互いの交流が途絶えてしまったのでしょうか?ヨーロッパで仏教がちゃんと紹介されたのは1800年頃だと思います。なぜ古代中世の西洋にはインド思想の影響が見受けられないのでしょうか。

2 インド思想(仏教など)は急速に東アジアに広まりました。東に広まったのなら、同じようになぜ西には広まらなかったのでしょうか?インドの哲学者たちはわざわざ中国まで出向いて経典や教えを授けてきた歴史があります。それならなぜ西側にも向かおうと思わなかったのでしょうか。

3 古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。なぜインド哲学はギリシャのようにアジアの中心哲学になることができなかったのでしょうか?

4 これは私が勉強した上での認識ですが、古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが、専門家の方がいらっしゃいましたらご意見をお伺いしたいです。

5 五番目の質問は全く根拠がない推測なのですが、ブラフマー(梵)とアブラハムは音がにていると思いませんか?
Brahma 、Abraham
ブラフマーのお尻の文字だけを頭に持ってくると「a」Brahmとなります。これはただの偶然でしょうか?語源的な知識をお持ちの方がいれば解説をお願いしたいです。
古代、インドにやってきたアーリア人はメソポタミアの地方からやってきました。つまりインドに侵入したアーリア人は元々の段階でメソポタミアの思想の影響を少しは受けていてもおかしくないと思うのですが・・・


皆さんのお知恵を拝借したいです。よろしくお願いします。

A 回答 (17件中1~10件)

6です。




1. アレクサンドリア図書館の経緯は諸説ありますがご存知ですよね。
キリスト教勢力による焼き打ちというもっとも妥当な線をキリスト教会は否定していますが。
当時図書館に集める価値があったものには、エジプト医学、メソポタミア医学、天文学、数学、灌水土木、インドのアーユルヴェーダが含まれます。ヘルメス学の揺り籠です。
そこで学ばれしたためられた医書・薬草書は軍医や権力者や修道僧の手で運ばれていき、ギリシア医学、やがてアラビア医学に集大成します。

2. 4世紀~12世紀までの世界をみると、中国やインドにとって西方とはアラビアで、その向こうは野蛮なる辺境です。ヨーロッパ史とは、野蛮人がいかにして産業革命を起こし、市場経済を樹立するかの歴史ですので。

3. まずおっしゃることを確認しなければなりません。ギリシャの文化がはじめて西欧キリスト教社会に認識されたのはおもに12世紀です。すでにシリア語訳やアラビア語訳となったものをラテン語訳にするという手順です。
ギリシャの文化が西欧に根底的影響を与えたとお考えのようですが、キリスト教を根底とする西欧が、あらためてギリシャ文化を根元付近に移植することにしたのです。
だから西欧の精神性および哲学と科学に、中心的と言える影響を与えたのは、スコラ哲学、ついでルネサンス文化です。
こまかい事だと思うかもしれませんが、ギリシャ哲学を中心哲学であるというのは西欧中心主義の吹かすお気楽な物言いであるのと同時に、西欧は辺境の寄せ集めであるため、実質的には多様な文化出自と精神風土を併せ持っていることを思い出す必要があります。
それから、質問者さんは学のオリジナリティを単純に考え過ぎているきらいがありませんか。
たぶん、科学とおっしゃっているのは近代科学のことだと思いますが、西欧の近代科学を遡ってルネサンスに端を発する以前の道をギリシャに帰すことはほとんど意味がありません。
バビロニア数学からギリシャ数学へ、ギリシャ数学から幾何へ、ギリシャ数学とインド数学からアラビア数学へ、アラビア数学から代数へ、いったい、コペルニクスやニュートンが数学を学ぶ上で何の影響を受けたと言えますか? 彼らは、このような文化的アマルガムの数学やスコラ哲学を、ギリシャ語とラテン語の読本を論拠にして学んだわけです。そしてまた、アッバース朝にて飛躍したイスラム科学の文化的アマルガムである錬金術は彼らを虜にしています。
当時の西欧にキリスト教を除いて中心哲学はないといったほうが正直でしょう。そして、スコラ哲学者、ルネサンスの神学者がギリシャ哲学を解釈したときから西欧の哲学は始まったというべきで、ギリシャ哲学って西欧の懐にハテナとなって聳え立っているんですね。
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この回答へのお礼

またお礼が遅くなり申し訳ありません。用事が重なったためこちらを見ることが出来ませんでした。皆さんの回答を全て見た上でこれを書いているのですが、すでに本質問も3ページ目へと移動して人目につきにくくなってしまいました。ですが丁寧な回答を多数頂いていますので、まだ回答が続くようであればこの質問はしばらく開いたまま継続したいと思います。

さて回答者様への返答ですが、
科学が西洋で生まれたと私が考える理由は、ギリシャ思想とキリスト教があったからこそです。
確かに古代のギリシャ思想と中世ヨーロッパの間には一度断絶があります。ギリシャの遺産を受け継いだのは西欧ではなくビザンツ帝国であり、そこからギリシャの著作がシリア等を経由してアラビアへ翻訳されてアラビア思想の基礎となり、ようやく12世紀になって翻訳運動が始まり西ヨーロッパに古代ギリシャ思想が数世紀ぶりに逆輸入されました。
いわゆる12世紀ルネサンスというものですね。ご指摘のとおり、偉大なアリストテレスやプトレマイオス、さらにはユークリッドの幾何学など人類の遺産とも言うべきものはほとんどが12世紀になってから西ヨーロッパに知らされており、それ以前の西欧は彼らの存在とは無縁でした。

ですが、その前提を踏まえたとしても、ヨーロッパで科学が誕生したのは、源流としてギリシャ哲学の存在を挙げるだけでなく、直接的な原因としても近代ヨーロッパの飛躍は12世紀ルネサンスで用意されたものの上に成り立っていると言えると思います。回答者様がルネサンスと言っているのはレオナルド・ダ・ヴィンチらのあの時代のことだと思いますが、科学に限っていうのであれば西欧の方向性を決定ずけたのは12世紀ルネサンスであって、イタリアルネサンスはその発展系に過ぎないと言えるかと思います。
科学にとって大いなる年と言うべき1543年、この年にコペルニクスは天球の回転についてを著し、ヴェサリウスはファブリカという医学書を書きました。しかしこの年にこういった出来事がおきたのは、全て12世紀ルネサンスに端を発する延長線上の出来事に過ぎません。

中世ヨーロッパの科学の発展とは、アリストテレスの思想の逆輸入に始まり、それがキリスト教と融合して、ついにはアリストテレスそのものを批判的に乗り越えることで達成されたと言えます。そのため西欧で科学が誕生した必要原因を二つ挙げるならアリストテレス(ギリシャ哲学)とキリスト教です。

これを具体的に説明するならば、トマス・アクィナスの存在がかかせません。ギリシャ哲学、特にアリストテレスがヨーロッパに逆輸入されたとき、キリスト教の思想と相容れない考えがあることが重要な問題となりました。中世哲学の最初の重要問題である普遍論争もアリストテレスの範疇論がきっかけとなりました。雑多な内容は省略しますが、最終的にトマス・アクィナスがその思想によってアリストテレスとキリスト教が融合されたことによって科学史上に一つの画期が訪れたと言えると思います。
これによって西欧のキリスト教徒たちはアリストテレスの論理学を学んでいくことになりました。
そしてこれが真の科学になる経緯とはまさに、一度トマス・アクィナスによって融合されたアリストテレス論理学とキリスト教思想が再び袂を分ちていく過程こそ「近代科学」の産声なんです。

ですから回答者様は古代ギリシャの直接の影響を否定されていますが、全ては12世紀ルネサンスにおきたアリストテレスと、アクィナスのキリスト教との融合によって端を発している以上、ギリシャとキリスト教がなければ科学は生まれなかったと言っていいと思います。

お礼日時:2013/10/19 23:47

回答は字面通りに読んでいただきたいと思います。


話の根本として、ご質問文中の

> 3 古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。<

という部分は正しいのです。しかし続けて、

> それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。なぜインド哲学はギリシャのようにアジアの中心哲学になることができなかったのでしょうか?<

という質問が成り立つ訳がないでしょう。
この気持ち悪いとしかいいようのない論理的飛躍に、いくばくかの是正を試みる気はないのですか。

A.No.16のお礼欄に触れます。

> キリスト教はその始原からオリゲネスやクレメンスのような護教家たちによってギリシャ哲学を内部に取り込んだ歴史があります。

教父哲学はA.D. 2世紀頃です。旧約聖書はB.C.1200年よりも前に遡ります。おっしゃりたいことが不明です。見やすい年表をご参考に。ついでにいえばインドのヴェーダや沙門哲学もB.C.1500年頃に起こります。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/nenpyou.html

> つまりあくまでキリスト教が中心思想だと言っても、そこからギリシャ哲学が与えた影響を限定して取り除くことはもはや不可能ではないでしょうか。

影響を受けたのだと言っているわたしの回答を読んでの応答とは信じ難いのですが、影響を取り除くという発想はありえません。あたりまえです。

興味ある疑問を言葉にするのは容易ではありませんが、せめて

「キリスト教、ギリシャ哲学、ローマ法によってヨーロッパはどのように発展したか。比べてインド思想をよりどころに文明の近代化がおこらなかったのはなぜか」 とか、

「古代ギリシャの自然科学とインドのヴェーダはそれぞれ今日の科学にどのように継承されているか」 とか、

「なぜヴェーダ哲学やジャイナ教や道教の方法論や論理形式が全世界に広まらなかったのに、ギリシャ哲学の方法論や論理形式はこれほど世界に広まったのか」 とか、

「全体論と原子論の相克がないヴェーダ哲学やジャイナ教や道教において、全体論と原子論の相克を持つギリシャ哲学のように経験論と合理主義へ導かれることは可能か」 とか、

比較なら比較にふさわしい質問の建て方というものがあるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

何度かのやり取りの中で本来の質問から大分道がそれましたが、そもそも私はわからないから自分が思っていることをまとめてそれを質問にしたのであって、疑問を前提にしているスタート地点そのものを気持ちの悪い論理的飛躍と言われても戸惑うばかりです。
回答の中に質問をいくつかまとめてくれたみたいですが、そうやってまとめることが出来るのなら私はその回答そのものを頂きたかったのですが、なぜ回答者様は私に対して「批判」に留まるばかりで、その先のことに踏み込んだ内容の回答をして頂けなかったのでしょうか。私は何度も具体的な回答をくれと言ったはずですが。
間違っているところを詳細に論じてくれるのを望んだのですが、あなたは批判と指摘に留まるばかりで参考文献の一つの紹介も根拠の提示もされませんでした。それで私にどう対応しろというのでしょうか。
質問者としての私が十分浅学なのは承知の上ですが、それを気持ち悪いと評するあなたは回答者としての役目を果たしていないのではないでしょうか。

お礼日時:2013/10/27 16:37

質問者さん、わたしは断絶の話なんかしているのではない。


論点は鋭く明確に保ってください。
外来食材が、
既存の器のなかで、
器に合った料理として提供されたときに、
食材継承者であることが
即ち「中心哲学」を食材に負った、ということにはならないだろう
という話をしているのです。

ギリシャ哲学は西欧に継承されたとも影響を与えたとも言うべきですが、
中心哲学だと言うべきではありません。
都市群型の文明と西欧キリスト教社会の異質性を踏まえた視点は
西欧近代文明を読み説く上で、非常に重要であるのでなおさらです。

そしてまた、駆動力というものは、思想のもとで別に働く。
現代もなお、キリスト教神学的立場から思考する科学者がごまんといます。
蓋しコペルニクスは聖職者だとおっしゃることに意味はありません。
微積分の始祖で、近代数学を拓いた人物なのです。
科学史を勉強なさっているのならご存知でしょう。
数学や生化学や光学は、キリスト教のもとで、ギリシャから運ばれた駆動力が
新しい駆動力になった筆頭の例であると思いますが、
キルヒャーなどもその例に属するといってよいのでしょう。

筆がよくお滑りになるのは結構ですが、いちど、ブレーキをかけて、
言葉の端々、隅々へ目を凝らしながら、概念を見直してはいかがでしょうか。
研究はいつでも誰しもそんな作業で、
知識よりもこの作業のところに、道の明暗があるとわたしは思いますが。
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この回答へのお礼

度々の回答ありがとうございます。
私はあくまで自分の想像ではなく実際の系譜上の事実に基づいてそれを述べているつもりなのですが、どういうことでしょうか。キリスト教発展期の古代の護教家たちの時代からギリシャ哲学はキリスト教に取り込まれまれた歴史があります。さらにはトマス・アクィナスによってなされた両者の統合を見てみても、ギリシャ哲学とキリスト教の歩みは切っても切れない関係にあるのは明らかです。回答者様はあくまで西洋の中心思想は「キリスト教」だから
>>現代もなお、キリスト教神学的立場から思考する科学者がごまんといます。

ということでしょうか。あくまで中心はキリスト教であり、ギリシャ哲学ではないから、両者を混同してはいけない、と。
ですが先に述べた通り、キリスト教はその始原からオリゲネスやクレメンスのような護教家たちによってギリシャ哲学を内部に取り込んだ歴史があります。つまりあくまでキリスト教が中心思想だと言っても、そこからギリシャ哲学が与えた影響を限定して取り除くことはもはや不可能ではないでしょうか。

私の意見を要約すれば、キリスト教的物の考え方といった場合にキリスト教が中心思想だといっても、その中心思想には既にギリシャ哲学が歴史的に取り込まれているということです。

お礼日時:2013/10/20 15:21

 回答No.13について おぎないます。




 そこでわたしがアウグスティヌスを持ち出したのは もしデカルトが 科学すなわち実際には近代西欧の科学 の興ることに寄与したと見るのならそのかぎりにおいて その部分としての思惟の筋は アウグスティヌスを抜きにしては語れないのではないか。という意味でした。

 思惟の筋と言ったのは 《われ考える ゆえにわれあり》なる命題とそれをめぐっての――こんどは 必ずしもアウグスティヌスにはなかったと考えられるところの――観念の体系のことです。

 あるいはつまり 逆に言って あたかも精神と身体との二元論をとおして身体とその知覚の世界のほうに世界を還元してのごとく モノと論理の領域を探究して行ったその自然科学の営為のことです。

 ただ もしこの筋としてのアウグスティヌスをもおっしゃるところの《スコラ哲学》がじゅうぶんに受け継ぎまた後世に受け渡したとしたなら 重複した回答になります。と考えるとき おわびしなければならないかとも思いつつ 総合して見て 《われあやまつなら われあり》なる命題をもお示ししたことは なお有意義だったのではないか。このようにも考えています。果たして どうでしたでしょうか。
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12の追記ですが、回答文中の番号はご質問文中の番号に対応しています。

念のため。
ブラジュロンヌさんご提示の話題がわたしの回答のどこに関わっているのかはわかりませんが
ついでに、4-5世紀の優れたキリスト教学者であるアウグスティヌスさえも、
ようやく中世のスコラ学者アンセルムスや、ピエール・アベラールが重視したのでした。
キリスト教という西欧の根底的な思想運動が、11-12世紀になって
ギリシャ教父とラテン教父を建設的に学究的に読み込んだこと、またギリシャ哲学を利用したことは、
西欧哲学の基礎となっています。そうしたスコラ哲学をこそ、中心的と見るべきだというのがわたしの述べる主旨です。
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この回答へのお礼

12の返答で書き忘れていたことがあり追記します。また現在全ての回答を見た上でお礼の順番が前後しています。
コペルニクスやニュートンについてですが、
コペルニクスに関して言えば彼は天文学者でも数学者でもありません。彼は太陽中心説を唱えただけで、その立場はあくまで神学者です。天文学・数学的な論拠づけを行ったのはティコ・ブラーエとケプラーです。
コペルニクスが太陽中心説を唱えるに至ったのは、当時主流だったプトレマイオスによる天文学の体型が、特に離心円と周転円による煩雑で複雑な惑星軌道の天体図に、おそらくルネサンスの神秘思想(新プラトンか?)を受けた太陽崇拝者でかつ熱心な神学者であった彼が、神の御技による創造がこれほど煩雑なものであるはずがないという宗教的な信念に基づいて行ったものです。

そしてガリレオやニュートンなどの物理学の体型は、彼らのオリジナルではなく、紛れもなく中世からの延長線上に位置しています。中世にはインペトゥス理論というガリレオの力学に直接連なるといってもいい力学体系の萌芽がありました。しかもこのインペトゥス理論は何に端を発しているかと言うと、アリストテレスの運動論に対する反論なんです。ですから近代の最初の偉人たちであるガリレオやニュートンなどといった人物も、一度中世において翻訳がされるまで断絶があったにせよ、まぎれもなくアリストテレスを源流としてその思想を連綿と受け継ぎかつ発展させていった歴史があります。


ブラジュロンヌさんがアウグスティヌスとデカルトについて触れていらっしゃるのでそれについても書きたいことがあるのですが、それについてはブラジュロンヌさんのほうで書こうと思います。

お礼日時:2013/10/20 01:39

 こんにちは。

No.4&7&9です。
 しつこく投稿します。

 あまがっぱさんは この Q&A の場をつうじて知り合い けんか(相互の批判)を経て成った友だちですが それゆえにも 別様の見解を提出します。


 西暦400年前後を生きたアフリカのローマ市民であるアウグスティヌスなる人間は 早く現われ過ぎた近代人だとも言われます。そういう人間の思惟のあとを紹介しなければならないと考えます。


 まづ アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しているところです。

 ▲ (パスカル:アウグスティヌスとデカルト)~~~~~~~~~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしているようです。

 ちなみに前もってですが 《あやまつとき あたかもわたしは我れをうたがい おのれのあやまちを認めることが出来たときには わたしは我れに還る》 このような過程において《わたしはわたしである》という存在の自覚を言っているようです。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようです。
 ◆( アウグスティヌス:その《われ》) ~~~~~~~~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
 ・・・だから精神は 知解力が存在し生きるように 自己が存在し生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  * 念のために この点についてのデカルトの文章を挟みます。
  ● (デカルト:われ)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想が 
  そのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われう
  るのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは言
  われない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り来
  たったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものである
  と仮想しようと決心した。
   (方法序説 4)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

  * この点をデカルトが 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカル(▲)は書いていた。

 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特なしたがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(* あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。
 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。
 たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。
 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(* または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ☆ もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文(●)のあとつづけて デカルトが
 ● (デカルト:承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた。私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と書いたことは よく知られているところである。


 これらに対してパスカルは アウグスティヌスの思惟からのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。
 ▲ (パスカル) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(* アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。

 ・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことば(◆)を《偶然に言った》と述べて けなしているのだが 大目に見ておきましょう。(じっさいには その目が曇っているとはっきり言っておかねばならないようなのですが)。

 アウグスティヌスを顕揚するかのようですが 古代人の思惟が のちの時代よりも劣るとは言えないでしょうし むしろ あとになると 後退しているようにさえ思われますが どうでしょう。

 つまり 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜんそのことを振り返って 考えるのです。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。

 つまりここより わたしなる人格の全体の中からいわゆる理性が 分立しそこから単独で特化しあたかも独立してしまった。

 《科学》とは 近代人以降にとっては 残念ながらそういった片寄った側面を持つのではないでしょうか。つまり頭でっかちでしょうか。(学問・研究の仕事じたいについては はっきり別だと言わねばならないでしょうが)。

 つまり そのような理性の優位・特出といった特徴は 言語の構造が もし直線的な意味連絡のかたちを――つまり線形の論理を――優先させるように変化しすでにそれとしての線形の文型に転成して行くなら 世界の見方を論理というものに還元したような一面を持ちがちな科学にも成りうる。

 これを《あやまちうる全体としての人間》がつつみこむなら 大丈夫でしょうか。
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確かにギリシャ文明には飛躍が見られるね。

他の地域が田舎臭い像を作っている時に、すでに写実的なリアリティのある像を作り上げたりしてる。
おそらく、地中海文明圏というものがそれを可能にしたのかと思う。海が、北アフリカや中東と、ヨーロッパを結んでいたので、文明の発達が加速したのだと。
一方インドはインド以外の巨大な文明と航路で結ばれていたのだろうか、地中海のような文明圏は形成されてなかったんじゃないかな。
海の存在は大きいと思うよ。
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この回答へのお礼

お礼が大分遅くなり申し訳ありません。忙しかったことと、そろそろ回答もなくなっただろうと思ってしばらく離れていたら意外にも多く回答がついておりましたので、もったいないことをしたと思っています。

私の考えではヨーロッパの科学の源流にはギリシャとキリスト教があると思っているのですが、根本的な問いとして、なぜ古代ギリシャは他に類を見ないほど哲学と数学が発達したのかという問題があります。この問いは科学の誕生における直接原因となる最重要の問題です。

まず古代ギリシャは奴隷によって成り立っていたから、裕福な人たちは暇な時間を哲学に費やすことができたのだと言っていますが、奴隷の存在は何もギリシャだけの話ではありません。なのになぜギリシャだけがという疑問が残ります。少なくとも原因の一つであると言えるとは思いますが

私がヒントになると考えているのは、まず古代ギリシャは直接民主制を保つために人口の増加を人為的に阻止していました。つまり都市の人工がだいたい1万人程度になると、衛星都市を新たに建設していくという過程を繰り返していました。そしてギリシャの地域はほとんどが島ですので、大規模な治水事業や建設作業を行う必要がなかったことからペルシアのように強大な中央集権が生まれなかったのです。逆に中央集権が生まれなかったからこそ、分散された都市がそれぞれに自由な考えを持つことができ、お互いの都市間で交流が行われたことがギリシャで哲学が栄えた原因ではないかと思っています。

インドについてはインダス文明のころからメソポタミアと交流があったことが楔形文字の資料によってわかっているみたいです。

お礼日時:2013/10/20 00:06

しばらく前から、仏教信仰者の方からの回答を書いてみたいと思っていたのですが、生業その他の関係で、ほぼ毎日PM12時を過ぎてやっと床につけるという、超忙しい状態、なかなか書く時間まではとれませんでした。



まだ閉じられていなかったので、ホッとしています^^。

急ぎ私の方からの回答を書かせていただきます。

仏教信仰者といっても、知識は仏教の歴史に関しても、高校生程度と思っていただいてかまいません。

ですが、例えば肺胞がほぼ全滅するような苦しい肺炎で死の床をはいずったりした体験、ある恐怖症により、気がふれるところまで行ってしまった体験などなどの、体験の方からの哲学は誰にも負けないのではないかと思えるようになっている人間のようなのですが、

そこからブッダへの信仰を見出した者、

これは深い信頼という意味や、どんなに考えてもさらにはるか上の存在への憧れと謙虚さを得たという意味であり、むしろどこまでも疑う自由を得たという感じのものですらあるのです。

ちょっといきなり難しい宗教観となってしまったかと思いますが、自分の小さな頭と心で考える疑いなどで崩れるような存在を私は信じているのではないという絶対とうわけではないのですが、絶対的とも言える信頼を得たという意味なのです。

その信仰の世界から見ると、仏教思想ってまずはなんとも、あまりにもいい加減な分類の仕方でその教えの世界が表現されてきた世界であることが解るところなのです。

あの交通も通信もない時代にて、さらにブッダの死後、数百年も後になって、葉っぱにすら記述されていなかった記憶の伝承の記述が始まった世界から生まれたのが仏教思想の歴史の始まりですから、、それでも伝えられてきた迫力におされて夢みたいな言葉の使い方となってしまったのは当然のなりゆきなのでしょうけどね。

ですが、それにしても、

「縁起」というすべての因果はつながっているという思想から生まれたあらゆるその辺を物語るはずの根本思想として語られてきた言葉の世界は、荒削りな説明の世界になりすぎています。

「四苦」「八苦」からはじまり、「五蘊」「五感とその奥を説く唯識論」「四諦」「十二因縁」「六大煩悩」全部、複雑な組み合わせになっているだけで、なんともバラバラ、雑多、抽象的言葉での、分類とそのまとめの形になっています。

(1)まず、そのあたりの分類の仕方のあたりから考えると、私には到底、その考え方が、「「ギリシャに比肩する高度な論理体系」の世界を生んだ、そのような哲学的土壌の世界だとは思えないのです。

おそらくブッダご自身が説いていただろう因果論自体は、そちらのIfの無い因果歴観と同じで科学的な思考であったとは思うのです。

そこまで明晰ではあったのではと私自身は推理しています。

でも、その周りの、当時のバラモンの思想にしても、その後の仏教思想から考えても、そこから科学が生まれるような思考基盤があったとはあまり思えないのですが、

これは歴史という史料の記述の世界への無知からの偏見でしかないのでしょうか?

(2)次になのですが、物質を構成する元素をギリシャの思想家たちは思索していたということであるのに対して、インドでもそのような思想家の存在の記述が史料として残っているのでしょうか?

私の高校生程度の知識では、そのへん何かを思い出そうとしても記憶に無さそうで^^、その辺は解りましたら教えてください。

しかし、

(3)インドにも、そのような原子や分子に通じるような思索の片燐があったとしても、ギリシャのそれですら、現代の原子核やそのまわりの電子、さらに原子核の中身の物質の最小単位、その原子の組み合わせでできている分子の理解からの思索ではなく、むしろ非科学的な幻想的な思索から考えた物質の最小単位であったと考えられるところ、

私はこれが科学発展の機動力となった論理思考の世界ではなかったというイメージを持っています。

それこそそちらの「科学史」の世界から、そのへん教えていただきたくなるところです。

私は学者ではないですが、そうしたことが解明されることは、学者だけのロマンの世界ではなく、人間脳を持っ多すべての人にとっても、巨大なロマンであり、心浮き立つ、心を明るくしてくれるロマンの世界だと思うのです。

(4)さて、

インド人が、もともとギリシャと共通の民族であった点や、その後、仏教が広まる大きな力となったアショカ王とか
カニシカ王だったと思いますが、その勢力が大きかったこと、中国と言っても、西域のガンダーラ等に伝わって行ってそこからさらに西にも進んで行っただろう点、、ギリシャ人がインドに攻め込み、カニシカ王以後さらにギリシャとインドは交流があったはずのところ(すみません、高校生程度の歴史認識なのでこのへんの認識は間違っているかもしれませんが)

たしかに、ギリシャに起こった科学の源泉がインドに伝わらなかったこと自体には疑問がおこるところですよね。

(5)ですが、

当時の学者がどのように移動したのかについての記述は史料として現在の文献学などにて見つかっているのでしょうか?

あの学校もない時代、自転車も、人力車も^^ない時代、権力争いの勢いで生まれた交流の世界、果たして当時の遠い遠い地の果てどうしの世界間に、学問の交流がどこまでありえたのか、

私の浅い知識からは、

やっぱり、カニシカ王などに仏教思想が支持されたことから、それは西方中国に伝わり、うわさで中国の方でも研究が始まったというのが北伝仏教の、因果なのではと思えるのです。

そしてその後、大乗仏教は、むしろ大衆的な幻想的ニーズと結びつき、いよいよ高度な論理体系からは離れた勢いを加速してシルクロート周辺、中国北方の地を通り、一直線に韓国、日本へとなだれ込んだところ、これはもはや(ブッダご生存の頃のインドはどうであれ)、高度な論理体系とはかけ離れた歴史となってしまっているというのがここでの私の主張です。

すでに、ギリシャ思想から科学的思考の伝統が生まれて板であろう西洋世界に、そのような非論理的言葉で飾られた世界が伝播されえたのか?

という観点からも、科学史以外の観点からの、東洋から科学が生まれなかった原因が考えられるのでは、と思え、

一般仏教信仰者の観点からの回答を、上記にて記してみました。



((追伸))

なお、このQ&Aの世界は、大勢の他の方も見られているところとおもわれますので、誤解なきよう、信仰者の立場という点も付け加えておきますが、

あくまで、今となっては推理ではあろうとも、信仰者の立場からは、

ブッダご自身が何等か語られた、おそらく人間性の深淵に迫る普遍的教えと、その火のような情熱と迫力が、後々の仏教思想の「言葉」につながった因果自体は、Ifなしに考えられる因果の推論として考えられるところであり、

信仰者のその推論というのは、事実はもう解らないと思われる以上、全身全霊から思わずやはりひれ伏してしまうような想いからの推論ということなのです。

よし事実が、今後、なんらかのフィールドワークにて実際の記述が書かれた葉っぱの保存されたものが発見される等の奇跡的発見によってわかったとして、そして、ブッダなどほんとうはさらにただの凡人だったと解ったとしても、ここに創られた私自身の信仰は、もはや心にも脳にも魂にも刻みつけられた事実であり、消すことはもはやできないということです。

すくなくとも、それだけの威力を、2500年前のその凡人が生み出したことはここに歴史の因果の真実として存在していることにはなります。

宗教の考察の方からは、こんな感じの回答となるかと思います。

そちらのロマンの世界の、何か参考になる点がありましたら、幸いです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。もう回答もなくなっているだろうと思って油断していたらこんなに遅くなりました。日が経ってしまいましたが私の回答をお気づきになって頂けると嬉しく思います。

何か重い病気を患った方が死の淵になってキリスト教信仰に目覚めるという話は聞いたことがあるのですが、回答者様は仏教のようですので、西洋哲学の有我というよりも東洋の無我の思想に共感を覚えたということでしょうか。

私も最初はインドは宗教の国だと思っていました。多種多様な神様がいて、それぞれに信者がいて、バラモンとか仏教とかヒンドゥー教とか、今のインドでさえどこを切り取ってみても宗教が出てくるので、すごい国なんだなーと思っていたのですが、浅学で申し訳ありませんが自分が学んだ限りですと古代インドの哲学者たちはそのほとんどが無神論者だと書いてありました。私は最初これを知って仰天しました。本当にそうなのか?と
西洋は神とこの世界を分けて、二元論的な考え方をしますが、インドでは二元論そのものが否定されて、神もなければ自意識もない、それがバラモン教に反抗した仏陀やジャイナ教のマハーヴィーラ、そして六師外道だというのです。この神もいないという推論は清々しさを覚えるほどその根拠も論理的で、そこから世界の変化を説明するために原子論も登場したようです。古代ギリシャも現代科学がいう原子論と比べてはただの思考実験の一つに過ぎませんが、原子論とは論理的思考からしか生み出されない考えだということを意識すれば、同じ考えに達していたインドもギリシャと比肩すると思いました。
ちなみに古代インドの原子論については他の回答者様のお礼の中にいくつか触れましたのでそちらを参照して頂きたいです。

本来インド思想とは徹底的な無神論であったのに時代が下るにつれて、無神論を説いた仏陀自身が後継者たちによって神格化されていった。という認識なのですがこれはあっているのでしょうか?だとしたら凄い歴史の皮肉だと思います。

お礼日時:2013/10/20 00:27

 No.4&7です。



 ★(回答No.8) つまりヨーロッパだけが科学を生み出し、それ以外の地域で科学が生まれなかったのは、たまたまではなく必然だと考えています。
 ☆ と書いておられます。つまり 《インド哲学》を別にした場合 ・すなわち《科学》の――個人におけるだけではなく 社会様式としてのような――誕生という主題に限った場合には 《言語》のそれぞれの成り立ちまたは構造の如何によって言わば《科学》との親和性が或る程度影響を受けるのではないか。こういった論点だと思います。
  
 名詞の格活用にかんしてその豊富さに注目するよりは そうではなく動詞との連絡が――つまりそれぞれの活用格との意味連絡が――いわば直線的に・したがって論理的にかたちづくられている。としたら その言語を用いる話し手・書き手は 世界のものごとについてそのまま論理的な視点から論理的な側面を切り出して来る。こういった傾向がつよくなるのではないか。――こう考えられるかと思います。

 文におけるこのような論理的な意味連絡があきらかな場合を 英文に捉えてその文型が《線形》だとたとえます。それに対して 論理的な意味連絡が 文の表面の仕組みだけでは明らかになりにくい場合を 日本文に例を採って 《非線形》にたとえつつ 比較対照させました。

 西欧における中世から近代にかけての言語の――つまりラテン語のでしょうか あるいはつまりしかも生活言語としての各地のそれぞれの言語の――態様を明らかにできればよいのでしょうが。

     *

 【Q:《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8024959.html
 和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。

 まづ和文の特徴を述べます。

  ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

 あるいは

  ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。

 これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。

 そうして仮りに英文が

  ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。
  ( b-1-E ): Elephant's nose is long.

  ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。
  ( b-2-E ): An elephant has a long nose.

 のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。
 ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。

 このとき 端的に言うかたちで問うのですが:

 【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?

 【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか? 

 【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?


 《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。

     *

 作業仮説です。

 (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。

  (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?

   ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ
   ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い

 (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?
 これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?
 
 (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。

 (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。

 (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて 

   (ω) 論理的な意味連絡

 をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。

 (か) まとめて次のようです。

   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

 について見れば:
    
     ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。
      つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。
      ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。

     ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:

       ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。
       ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。
       ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)

 (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。

 (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。
 ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。

 (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。

 (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?

     *

 参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。

 1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。

    A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。

 2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。

 3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。

 4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。

 5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。

 6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。

 7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?

  ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。
  ( b-1-E ): Elephant's nose is long.

  ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。
  ( b-2-E ): An elephant has a long nose.

 8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。

 9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。
 こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。

 10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。
 
 11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。

 12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ウンベルト・エーコの「完全言語の探求」という本を読みました。
回答者様ほど専門的な知識を有していないので私の回答にも限界がありますが、先に挙げたサピア・ウォーフの仮説に基づいて、使用する言語が異なれば思考方法も当然異なるだろうと推測できます。よって言葉の種類の多用さが異なる文化の多用さと直接の関係を持っていると言えるかと思います。

日本人はよく曖昧なものの言い方をすると言われます。それは日本人がもとからそういう気質だったから日本語があいまいな言葉になったのか?それとも日本語が文法の多様性を許容する言語だったから日本人の気質もそうなったのか?
卵が先か鶏が先かという話になりますが重要な問題だと思います。言語学においては資料に基づいた比較言語以外だと、科学的には脳科学の分野になってしまうので、思考実験だけだと本質の理解ができません。しかし言語学ほど思考実験の成果が顕著にあわられるものもないと思うので興味がつきません。

お礼日時:2013/10/20 00:40

こんにちは。




~~~~~~
☆つまり私が聞きたかったのは宗教面の話ではなくて、ヨーロッパはギリシャ思想を科学に昇華させることが出来たけれども、インドはギリシャと比肩する思想を持っていたのにどうしてアジアは科学を生み出すに至らなかったかという質問です。
~~~~~~
◇何をもって科学とするかによるのでしょう。
日本や中国には、医学や博物学、薬草学などの自然科学はあった。
しかし、日本や中国では、物理学は生まれなかった。
体系は異なるけれども、日本には西洋の数学に匹敵するような《和算》があったにもかかわらず、物理学は日本で生まれなかった。
関孝和らによって、ヨーロッパに先行する形で、数多くのことが発見、発明されていたにもかかわらず、それが暦法などの一部の分野をのぞき、自然科学へと応用されることはなかった。
これは、なぜだか分かりません。正直、分かりません。
ヨーロッパに比べて、相手とする自然が変化に富み、複雑すぎたためでしょうか。

関孝和
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D% …

ただ、日本で極めて高度な数学が生まれ、明治維新まで存在し、発展し続けていた、ということは留意する必要があるのでしょうね。



~~~~~~~
メソポタミアの思想が古代ギリシャにどれだけの影響を与えたのかは、確かにあったと思いますが具体的に何かということになると例を挙げるのは難しいのではないでしょうか。少なくともメソポタミアに原子論を唱えた哲学者がいたという話は聞いたことがありませんし、ペルシャ戦争の様子を考えてみても、ギリシャとオリエントは文化的に異質な気風が漂っていたと思います。
~~~~~~~
☆メソポタミアの思想が古代ギリシャにどれだけの影響を与えたのかは、確かにあったと思いますが具体的に何かということになると例を挙げるのは難しいのではないでしょうか。
◇有名なところですと、数学、幾何学、占星術and暦法(天文学)、航海術、測量術などなど。


☆メソポタミアに原子論を唱えた哲学者がいたという話は聞いたことがありませんし。。。
◇私も知りません。ただ、一般にひろく知られていない、今のところ、発見されていない、からといって、メソポタミアに原子論を唱えた人がいなかったと考えるのは、いささか早計ではないのでしょうか。
インドの原子論、これは果たして原子論と呼べるのか、いささか疑問です。これを原子論と呼ぶことができるのならば、中国の《気》の思想は、さしずめ《素粒子論》などになってしまいます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97



☆ペルシャ戦争の様子を考えてみても、ギリシャとオリエントは文化的に異質な気風が漂っていたと思います。
◇そのペルシアは、インド・アーリア系ですよ。〔古代〕ペルシア語はサンスクリット語と近親関係にある言語で、印欧語の一つですよ。



~~~~~~
ですがそうすると、なぜそういう言語全てが高度な哲学や論理学を生み出さなかったのかという疑問よりも、なぜギリシャとインドだけが高度な論理学を発達させることができたのかと問うほうがより根本的な疑問だと思っています。特に紀元前6世紀ごろの話です。ヤスパースはこの時代を枢軸時代と呼んでいますが、ギリシャ論理学とインド論理学は明らかに他と異なる独自性を持っているので、この高度な論理学の起源が何に由来するのかと問えば、そしてなぜギリシャとインドなのか、客観的に判断できる共通性はインド・ヨーロッパ語族であるという点です。今の私の知識ではそれ以外に判断する材料がありません。
~~~~~~
☆なぜそういう言語全てが高度な哲学や論理学を生み出さなかったのかという疑問よりも、なぜギリシャとインドだけが高度な論理学を発達させることができたのかと問うほうがより根本的な疑問だと思っています。
◇有名なところですと、中国の諸子百家の一つに《名家》と呼ばれる論理学派が存在しています。

たとえば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%AE%B6_ …

ここでの記述では、
─────────
名家の論理の中に「飛ぶ鳥の影は動かない」というものがある。これはゼノンのパラドックスに相当するものと考えられる。また、詭弁とみなされる論理の中にも、ものの存在とその本質を分離するという意味でイデア論に発展する可能性があるものもあった。しかしそれらは、ギリシアのように体系的な哲学として発展することはなく、弁論の訓練として使われるだけに終わった。
─────────
と結んでいますけれども、個人的には、いささか正鵠を外しているように思います。
老子や恵子が展開する議論は、現代の解析学などの考え方の先駆けともなるようなものです。



☆この高度な論理学の起源が何に由来するのかと問えば、そしてなぜギリシャとインドなのか、客観的に判断できる共通性はインド・ヨーロッパ語族であるという点です。
◇ではなく、
「印欧語族の中で、なぜ、ギリシアとインドで、そのような高度な論理学は発生したのか?」
と問うべきではないのですか。
そして、
ギリシアについては、高度な先進文明を有するオリエント諸国との地理を考えれば、おのずとその答えを導き出せると思いますが。。。
インド、ペルシア、ヒッタイトなどは、先進文明圏を征服・支配し、その文化を吸収、継承、発展させた、と考えるのが自然ではないのですか?

文化・文明の先進地域が、その地域の人たちから文明・文化を有していない蔑まれた民族によって征服、支配されることは、中国のモンゴル人支配の例を待つまでもなく、歴史上よくあることです。
ギリシア人の支配を受ける憂き目にあったオリエント諸国の人々の目には、ギリシア人こそ《バルバロイ・βάρβαροι》に映ったと思いますよ。
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この回答へのお礼

度々の回答ありがとうございます。また長くお付き合いくださってありがとうございます。

ご指摘のとおり、ヨーロッパ以外の場所では科学的と言える行為が行われていた事実があるにも関わらず、科学は生まれませんでした。
少し科学について話したいのですが、
そもそも科学とは人間にとって何なのか、科学の誕生は偶然の出来事なのかそれとも必然なのか、という問いかけから常に意識していることがあって、それは「歴史にifはない」という重要な命題です。
つまりヨーロッパだけが科学を生み出し、それ以外の地域で科学が生まれなかったのは、たまたまではなく必然だと考えています。
もし科学の誕生が偶然ならいたるところで科学が誕生していてしかるべきはずで、ピラミッドを建てたエジプトがギリシャの出現を待たずに科学革命を起こしていた可能性も、アラブ世界が先に科学革命を行ってヨーロッパを征服するシナリオも、当然知恵というものが人間にとって普遍的な以上、ありえたはずなんです。でも現実にはあらゆる可能性の上についにヨーロッパだけが科学革命を達成しました。
つまり科学革命というのは偶然やたまたまで起こるものでは決してなくて、鍵となるいくつかの条件を最後まで達成した文化だけが辿りつく思想の枠組みの転換現象なんです。

そして鍵となる条件が何であったかについては、私は科学史をメインに勉強しておりいくつか挙げることが出来るのですが、科学史からのアプローチだけでは不十分で、スタート地点に立ち返ってギリシャとインドの比較や印欧語族の言語学的なアプローチ、宗教的な価値観や思想・哲学の比較など、この問題を解決するには人類全体を包括した考察がなされなければなりません。


今回の質問では皆さんのおかげで有益な回答が多く得られましたが、回答と返答が長くなってしまったため、様子を見てこれ以上回答が出ないようであればその時点で閉じようと思います。

お礼日時:2013/10/12 01:15

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