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古代世界におけるギリシャとインドについていくつか質問があり、自分の手に負えないため皆さんの知識を拝借したいです。

1 「ミリンダ王の問い」という本があるように、アレクサンドロス大王がインドまでやってきてから古代ギリシャとインドの哲学者達は少なくとも接触はあったはずなのに、どうしてその後お互いの交流が途絶えてしまったのでしょうか?ヨーロッパで仏教がちゃんと紹介されたのは1800年頃だと思います。なぜ古代中世の西洋にはインド思想の影響が見受けられないのでしょうか。

2 インド思想(仏教など)は急速に東アジアに広まりました。東に広まったのなら、同じようになぜ西には広まらなかったのでしょうか?インドの哲学者たちはわざわざ中国まで出向いて経典や教えを授けてきた歴史があります。それならなぜ西側にも向かおうと思わなかったのでしょうか。

3 古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。なぜインド哲学はギリシャのようにアジアの中心哲学になることができなかったのでしょうか?

4 これは私が勉強した上での認識ですが、古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが、専門家の方がいらっしゃいましたらご意見をお伺いしたいです。

5 五番目の質問は全く根拠がない推測なのですが、ブラフマー(梵)とアブラハムは音がにていると思いませんか?
Brahma 、Abraham
ブラフマーのお尻の文字だけを頭に持ってくると「a」Brahmとなります。これはただの偶然でしょうか?語源的な知識をお持ちの方がいれば解説をお願いしたいです。
古代、インドにやってきたアーリア人はメソポタミアの地方からやってきました。つまりインドに侵入したアーリア人は元々の段階でメソポタミアの思想の影響を少しは受けていてもおかしくないと思うのですが・・・


皆さんのお知恵を拝借したいです。よろしくお願いします。

A 回答 (17件中1~10件)

紀元前2000年頃の中央アジアの、今のカスピ海周辺にいたアーリア人という伝説上の民族が気候変動により移動し、西に行った人たちがギリシャに到達し、そこで「有の哲学」を始め、一方東に行った人々がインドに到達し、バラモンを形成し、後に仏教が「無の哲学」を始めたとされます。


インドとギリシャなど西欧の言語には音韻的に共通なものがあることが、英国のウィリアム・ジョーンズが19世紀にインドのサンスクリット語と西欧の言語を比較して共通性があることを発見し、それを「インド・ヨーロッパ語」と命名したことからも証明されました。
インドに渡った民族もギリシャに渡った民族も同じ民族だったので、哲学・思想において「住み分け」が出来ていて、お互いに干渉しないようになっていたのではないでしょうか?
世界に民族はたくさんあれど、哲学を始めたのはギリシャとインドだけです。
それは同じ民族だったからで、アーリア人というのは哲学的な民族だったのだと思います。
かつてドイツの独裁者・ヒトラーは「アーリア民族」の血の純粋性を守るために他の民族との混血を禁止したといわれます。
アーリア人というのは金髪で、背が高く、頭脳が優秀だったといわれます。
伝説上の民族で、本当にいたのかどうか分りませんが、いたとしたらその民族だけが歴史において初めて哲学というのを生んだとすれば不思議なことだと思います。
お役に立てるかどうか分りませんが、一言申し上げました。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。参考にさせて頂きます。回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/12 00:47

基本的には自然観の違いです。


仏教哲学の根底にあるのは、輪廻転生という考え方です。
今でも、インドにはお墓と云うものがありません。
お骨はガンジス川に流して、ハイおしまい!です。
死後どうなるのかというという問いに、お釈迦さまは知らないと明言しています。
死後どうなるかというのは、その後の人達が付け加えただけです。

輪廻転生というのは、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄という六つの世界をぐるぐる回るという考え方です。
つまり、死んでもまた生まれ変わるという考え方です。
これは、インドを初め植物の生育が旺盛な地帯では簡単に受け入れられますが、植物の育成が難しい砂漠地帯では受け入れ難い考え方です。

植物は、育って、花が咲いて、実がなって、本体は枯れても、再び種から芽が出ます。
インドや東南アジアでは年中花が咲いていて新しい芽もふいています。
これに対して砂漠地帯では、死ねば干からびてしまうだけで何も起きません。
植物はオアシスの周りに細々と見受けられますが、砂漠地帯の植物は本体の寿命が長い上に、新しい芽吹きは難しいです。
ということで、ヨーロッパに伝わる前に、途中の人達が受け入れませんでした。
イスラム教では死後の再生の際には、散り散りになった骨が砂の中から神の力によって集められるとされています。
中国へ伝わっても途中の砂漠地帯には、現在でもイスラム教が広がっています。一部キリスト教系の宗教も残っています。

ギリシャ哲学とインド哲学の共通部分を敢えてあげれば、時間に対する考え方です。
ギリシャもインドも時間は循環するものであると考えました。
これに対してキリスト教もイスラム教も一方的に進む直線的なものと考えました。
結果として、物事には全て初めと終わりがあると考えます。
ギリシャもインドも、全てに初めも終わりも無くただひたすら回り続けるだけと考えます。
この循環から超越したものを仏と呼びました。仏の世界には人間界のような時間は存在しないと考えています。
これによって、人間界の時間を超越して、仏はいつでも人の前に現れて救済してくれることになります。
末法だのなんだのという考え方は後世の人が付け加えた考えですので、全体から見れば現在の仏教の考え方には矛盾が含まれています。

以上、ザットした見方をご紹介しました。

多々反論があって未だに学問的には解消されていません。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。参考にさせて頂きます。回答ありがとうございました。

植物の育成が難しい砂漠地帯では輪廻転生の考えが根付かなかったというのはなるほどと思いました。地理的環境面からのアプローチも面白そうですね。

お礼日時:2013/10/12 00:50

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1 「ミリンダ王の問い」という本があるように、アレクサンドロス大王がインドまでやってきてから古代ギリシャとインドの哲学者達は少なくとも接触はあったはずなのに、どうしてその後お互いの交流が途絶えてしまったのでしょうか?ヨーロッパで仏教がちゃんと紹介されたのは1800年頃だと思います。なぜ古代中世の西洋にはインド思想の影響が見受けられないのでしょうか。
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ローマVSパルティアなど、絶えず戦争が続いていたから。
インド・ヨーロッパの間にゾロアスター教があったから。
そうこうしている間に、ヨーロッパではキリスト教がひろまっていたから。



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2 インド思想(仏教など)は急速に東アジアに広まりました。東に広まったのなら、同じようになぜ西には広まらなかったのでしょうか?インドの哲学者たちはわざわざ中国まで出向いて経典や教えを授けてきた歴史があります。それならなぜ西側にも向かおうと思わなかったのでしょうか。
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誤解があります。
中国に仏教をもたらしたのは、俗に西域僧と呼ばれる、非インド出身の仏教者たちです。
また、西側にも向かっています。現在のロシア、ヨーロッパに属するロシア部分にも、多数の仏教遺跡があります。そして、帝政ロシア時代には、首都であるレニングラードにも仏教寺院が存在し、仏教は保護されていました。スターリン時代の一時期、仏教は迫害されましたが、後に、スターリンは、仏教を保護するように方針転換しており、その方針は現在まで継承されています。ただ、西ヨーロッパに広がらなかったでけですよ。


~~~~~~
3 古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。なぜインド哲学はギリシャのようにアジアの中心哲学になることができなかったのでしょうか?
~~~~~~
☆古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。
◇それは、ヨーロッパの植民地支配とその統治政策としてのキリスト教布教と密接な関係があります。また、ヨーロッパの思想が、世界の主流になったのは、産業革命以後の話です。


☆それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。
◇東アジアや東南アジア世界の考え方、思想に及ぼした仏教の影響は、はかりしれません。仏教がなければ、現在伝わっている儒教もなければ、道教も存在していません。儒教の確立に、仏教的思弁は必要だったのです。そして、現在、日本に住む我々も、インド発祥の仏教思想の影響を、陰に陽に強く受けています。
仏教を抜きに、東アジア、シルクロード、東南アジアの思想、思想史を語っているものがあるとしたら、見てみたいと思いますね~、わたし。



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4 これは私が勉強した上での認識ですが、古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが、専門家の方がいらっしゃいましたらご意見をお伺いしたいです。
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はっきり言って偏見です。これは、独断以上のなにものでもないです。
今日、古代ギリシアの哲学や数学などと呼ばれるものの多くは、当時先進諸国であったオリエント諸国からもたらされた外来の思想です。その起源の多くは、オリエントにあるのです。

☆これは私が勉強した上での認識ですが、古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。
◇アラビア哲学があります。これは非常に精緻な体系です。自然科学、医学、歴史学、言語学、論理学など、様々な分野に及び、この多くをヨーロッパが輸入し、現在のヨーロッパがあるのです。古代ギリシアの哲学の復興は、アラビアに端を発するんですよ。現在の数学につながる数学も、高度に発展していたアラビア数学があればこそです。


☆なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。
◇アラビア語は、インド・ヨーロッパ語族に属していません。いわゆるオリエント諸国は、セム語系です。シュメル語はセム語系でもありません。むしろ、先進文明は、非インド・ヨーロッパ語族の世界で生まれたのです。


☆そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが、専門家の方がいらっしゃいましたらご意見をお伺いしたいです。
◇日本語は、印欧語の中で格変化がもっとも複雑なサンスクリット語に遜色がないくらいに、格変化が複雑です。そして、これは何も日本語に限らず、他の言語にもこのような言語は多数存在します。
もし、質問者の提示した仮設にしたがいますと、そうした言語を話す世界では、極めて高度な哲学や論理学が発生することになります。
矛盾していませんか?

わたしは、言語学の専門家ではないので、問題提起程度で終わりますけれども、この哲学カテには、言語学に精通したbragelonneさんとおっしゃる方がいらっしゃいますので、この件については、bragelonneさんが、おそらく答えてくれる、と思います。



~~~~~~
5 五番目の質問は全く根拠がない推測なのですが、ブラフマー(梵)とアブラハムは音がにていると思いませんか?
Brahma 、Abraham
ブラフマーのお尻の文字だけを頭に持ってくると「a」Brahmとなります。これはただの偶然でしょうか?語源的な知識をお持ちの方がいれば解説をお願いしたいです。
~~~~~~~
◇アブラハムの語源については、Wikipediaを引用します。

─────────
アブラハムはかつて、古代ヘブライ語ではアブラム(אַבְרָם、Abram)で、「群衆(多数のもの)の父」の意味であった。そのアブラムが、神の指示によりアブラハム(אַבְרָהָם、Abraham)に変更された。このことにならったかのような母音付加が、これ以後、パレスチナ地方の言語にはよく見受けられる現象となる。同時に、このことが古代ヘブライ語や古代アラム語の正確な読みをわかりにくくさせている原因となっている。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8292190.html
─────────

サンスクリット語のbrahmanの語源は、現在のところ、まったく分かっておりません。
ただ言えるのは、brahmanがバラモンの祭式原理と深く関係するものである、ということです。

そして、確実に言えるのは、
abrahamとbrahmanはまったく関係がない、
ということです。


☆古代、インドにやってきたアーリア人はメソポタミアの地方からやってきました。つまりインドに侵入したアーリア人は元々の段階でメソポタミアの思想の影響を少しは受けていてもおかしくないと思うのですが・・・
◇メソポタミア?
イランをメソポタミアに含めれば、まぁ、そういうこともできるのかもしれませんが。
それよりも、インド土着の文化の影響を強く受けています。それは、リグ・ヴェーダなどから、容易に推測できます。


ちなみに、印欧語の祖語説は、仮説の域を脱していませんよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。丁寧な回答をいただきましたので、私の返答も長文になってしまいましたがどうかお付き合い下さい。

2については他の方の回答も参考にして、ヨーロッパ地域にも仏教の痕跡があるようでしたのでこれから調べてみようと思います。

3について、
>>宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。
これは私の言い方が悪かったんだと思いますが、ギリシャ哲学が生み出した論理学の体型やアリストテレスといった存在は12世紀ルネサンスを経て世界で唯一科学革命を起こすことになるヨーロッパの思想の土台となりました。その点インド哲学はジャイナ教やニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派、アージーヴィカ派、サーンキヤ派、チャールヴァーカやローカーヤタなどギリシャと全く遜色のない論理的な原子論を唱えましたし、むしろヨーロッパの原子論者のデモクリトスはディオゲネス・ラエルティオスの哲学者列伝の記述によるとインドで原子論者に出会ったという記述があるので、そもそも原子論の創始はインドにあるのではないかとも思えます。
つまり私が聞きたかったのは宗教面の話ではなくて、ヨーロッパはギリシャ思想を科学に昇華させることが出来たけれども、インドはギリシャと比肩する思想を持っていたのにどうしてアジアは科学を生み出すに至らなかったかという質問です。

4について、
アラビア哲学というのはギリシャ哲学の影響を受けて成立したものですよね?アラビアに哲学が成立したのはイスラム教成立以降の話だと思うので、今回の話はあくまで紀元前6世紀頃を舞台にしていると考えてください。
メソポタミアの思想が古代ギリシャにどれだけの影響を与えたのかは、確かにあったと思いますが具体的に何かということになると例を挙げるのは難しいのではないでしょうか。少なくともメソポタミアに原子論を唱えた哲学者がいたという話は聞いたことがありませんし、ペルシャ戦争の様子を考えてみても、ギリシャとオリエントは文化的に異質な気風が漂っていたと思います。

それとアラビア語についてですが、前述の通りアラビアの登場は後半になってしまうので、今回の話ではすみませんが省かせて下さい。

格変化についてですが、質問に質問で返すような具合になって申し訳ないのですが、他の回答者の方のタガログ語の指摘もある通り、豊富な格変化と持つ言語や論理的な言語というのは世界に数多く存在すると思います。
ですがそうすると、なぜそういう言語全てが高度な哲学や論理学を生み出さなかったのかという疑問よりも、なぜギリシャとインドだけが高度な論理学を発達させることができたのかと問うほうがより根本的な疑問だと思っています。特に紀元前6世紀ごろの話です。ヤスパースはこの時代を枢軸時代と呼んでいますが、ギリシャ論理学とインド論理学は明らかに他と異なる独自性を持っているので、この高度な論理学の起源が何に由来するのかと問えば、そしてなぜギリシャとインドなのか、客観的に判断できる共通性はインド・ヨーロッパ語族であるという点です。今の私の知識ではそれ以外に判断する材料がありません。
もしよろしければこれについても、より深い考察や指摘を頂けると幸いです。

5について、
アーリア人がインドに侵入してドラヴィダ人を征服し、バラモン教や聖典ヴェーダを成立させていったのは紀元前13世紀以降ですが、インドの地はインダス文明のころからメソポタミアと貿易があったことがわかっています。アーリア人の紀元前13世紀という年代もこれに比べればかなり後の出来事なので、それ以前に何か関係がなかったのか、むしろないと考えるほうが不自然です。そういうところから今回の点についても何か関係があるのではないかと考えていたのですが、ご指摘のとおりサンスクリット語の語源が不明なのであれば、肯定もできないけれどまったく関係がないと言い切ることもできないのではないでしょうか。
ちなみに肯定する場合でも何の根拠もありません。この問いについてはあくまで提議だけで机上の空論です。

お礼日時:2013/10/06 22:58

 こんにちは。



 次の主題にしぼっての投稿です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 3.・・・古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう疑問=主題は初めてですので 戸惑っていますが そこまでの考え方は いまのところ むつかしいかと思いました。

 次に示すようにフィリピンのタガログ語はきわめて論理的な・動詞の時制や相の形成および語幹からの複合語の形成にかんする組織を持っています。これを考えるなら その言語の話し手は ことごとく論理的な思考の持ち主であると帰結してしまってもおかしくないほどだと思います。

     *

 マレー語がマレー半島から東の方面では 台湾からスマトラの範囲内で さらに東はハワイやイースターまでの太平洋の諸島にまで広まったと言われる――おっと もう一つマダガスカルを忘れちゃいけません 小舟で渡って行ったのでしょうね――そのオーストロネシア(南島)語族。

 その言語の特徴で動詞にかんするきわめて関心を惹くものは フィリピンのタガログ語に見出されます。
 接辞(接頭辞・接中辞・接尾辞)がきわめて論理的に発達していることです。

 まづは次の表をごらんください。
 ▲ 〔動詞 kain =《食べる》(語幹)の活用〕 ~~~~~~~~~
 (1) 動作主=主語を取り立てる場合:接中辞 -um- を用いる。

 (A) 不定相: k-um-ain (食べる)
 (B) 完了相: k-um-ain (食べた)
 (C) 想念相: ka-kain (食べよう=未来相)
 (D) 未完了相: k-um-a-kain (食べている=存続相・現在相)
   * 綴字においてハイフンは通常つけません。

 (2) 目的=賓格語を取り立てる場合:接〔中〕辞 -in- を用いる。

 (A) 不定相: kain-in (食べる)
 (B) 完了相: k-in-ain (食べた)
 (C) 想念相: ka-kain-in (食べよう)
 (D) 未完了相: k-in-a-kain-in (食べている)

 (3) 場所=処格を取り立て場合:接尾辞 -an を賓格用接辞とともに用いる。

 (A) 不定相: kain-an (意味は同じ《食べる》です。cf.のちに掲げる文例)
 (B) 完了相: k-in-ain-an
 (C) 想念相: ka-kain-an
 (D) 未完了相: k-in-a-kain-an
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これだけ規則的であれば フィリピン人は よほど論理思考に秀でているのではないかとも思えるのですが どうなんでしょうねぇ。


 ほかにもこの論理学は 展開していきます。
 ▲ 〔動詞 の活用・つづき〕 ~~~~~~~~~~~~~~~
 (4) 受益者=与格を取り立てる場合:接頭辞 i- を賓格辞 -in- とともに用いる。
 (5) 手段・道具=具格を取り立てる場合:接頭辞 ipang- を賓格接辞 -in- とともに用いる。

 * 同じくこの(1)~(5)の区分法は あとに触れる ▲〔文例〕 で見比べてください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ あるいはさらに 動詞の動作じたいの意味内容を形式区分して これをやはり接辞によって表わす。
 ▲ 〔動詞 の活用・その三〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) 一般動作の形式:接辞 -um-, ほかに mag-, ma-, i-, etc.
 (い) 反復形式: mang-, pang-・・・-in(接頭辞かつ接尾辞)
 (う) 可能形式: maka-, ma-
 (え) 婉曲形式: maki-, paki-
 (お) 使役形式: magpa-, pa-・・・-in, pa-・・・-an, ipa-
 (か) 命令形式:各形式の不定相の形態を用いる。(う)はない。

 ▲ 〔文例〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) 動詞: bili =買う 
 (1‐B) 主語取り立て形( -um- )にて用いる例

 ○ B-um-ili  ako   ng  saging  sa  tindahan   para sa guro'.
  =  Bought   I    bananas    at the store   for the teacher. 
 = わたしはバナナをその店で先生のために買った。

(2‐B) 目的語取り立て形( -in- )に用いる。

 ○ B-in-ili  ko   ang  saging   sa  tindahan   para sa guro'.
  = Bought    I     bananas    at the store    for the teacher.
 = バナナはわたしが・・・買った。

 * 主語の《わたし》は (1‐B)の《 ako 》から簡略形の《 ko 》に変わっている。
 * また目的語に対する冠詞が《 ng 》から 取り立てられることによって 《 ang 》に変わっている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ あたかも人造言語のごとく規則ただしく活用しています。 次に依拠しています。
 ▲ Teresita V. Ramos : Tagalog dictionary 1971-1985



 というタガログ語なのですが。・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私も以前フィリピンに行ったことがあり、その時地球の歩き方にのっていたタガログ語をいくつか使いましたが、そのタガログ語が極めて論理的な言語だとは思っていもいませんでした。回答者様はタガログ語の専門家でしょうか?

ちなみに私の返答なんですが、論理的な構造を持つ言語は高度な論理学を生み出すのかという点については先の回答者の方と内容が類似していますので、私の返答も先の方と同じものだと思って参照して頂けると幸いです。

お礼日時:2013/10/06 23:04

A  ★ イギリス・スウェーデンのガンダーラ彫刻 ★



 

インドの「ガンダーラ彫刻」は、昔は辺境だったイギリスやスウェーデンでも見つかっているそうです。

「東北イングランドのノーサンバーランド(Northumberland)の旧ローマ城壁の内部に ガンダーラ彫刻がいくつか発見された(これは考古学者マーシャルの公の報告に出ている)。」 (中村元 『インドと西洋の思想交流』 p.239)

「1954年7月にストックホルムから約16キロの距離のところにあるメイラレン湖の東部のエケレー島で、青銅製の小さな仏像が発見された。そこの遺跡は5世紀から8世紀であるらしい。通高約10センチ・・・」 (同・思想交流 p.240)

「スウェーデンの仏教遺跡としては、ストックホルムに近い所にある孤島ヘルゴエ(Helgö)が知られている。ヘルゴエとは「神聖な島」という意味である。小さな島であるが、かつてはそこに住民の居住地があり、幾世紀にもわたってヨーロッパおよびイギリスの諸島と手びろく交易を行なっていたことが発掘によって知られている。・・・・ヘルゴエは4世紀から11世紀にわたる600年間に栄えていたらしい。発見された多くの物品は西紀400-800年にあいだのものである。・・・・そこで発見された仏像(6世紀)は・・・・ごく小さい。わずか8.4センチの高さで、蓮華の台座の上で結跏趺坐している。」 (同・思想交流 p.241)

http://members3.jcom.home.ne.jp/rotch/Alex/12_Sh …


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

The island is perhaps best known for a major archaeological area. The old trading town on Helgö began to emerge around the year 200 AD, 500 years before Birka at Björkö. The first archaeological dig in 1954 uncovered the remains of the early settlement, including a workshop area which attracted international interest. The most notable finds included a small Buddha statuette from North India and a christening scoop from Egypt, both dating from the 6th century. The Indian Buddha statuette, the Irish crozier and the Egyptian scoop which were found on Helgö, are presently on display in the Swedish Museum of National Antiquities in Stockholm. [1][2]


Helgö
http://en.wikipedia.org/wiki/Helg%C3%B6


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

The Buddha in Viking Sweden

http://www.strangehistory.net/2010/08/20/the-bud …


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


これをどう考えればいいのかわかりませんが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
調べてみたらヨーロッパ唯一の仏教国としてカルムイキア共和国というのがあり、他にもギリシャ美術と融合したガンダーラ美術の存在やマニ教の存在など、いろいろと調べる事柄が多そうでした。
紹介していただいた本は早速読んでみようと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/06 22:09

ご質問の中で、バビロニアはどういう位置付けになっていますか?


バビロニアの科学という読み物は、クセジュ文庫で見つかると思います。
一般的に言っても、シュメール人に発するメソポタミア文明から、東西への流れの分岐があるという考えのはずですが。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。
見覚えがあると思ったら以前ヘルメス主義について質問した時に丁寧な回答を頂きましてありがとうございました。さっそくブルーノとヘルメス主義についての本を図書館でチェックしてきました。

バビロニアについては正直難しいですね。事実関係を歴史的事実からどうやって正確に追えばいいのか、私の勉強不足から詳しい内容が言えません。メソポタミア、そしてバビロニアの歴史はあまりに長いため、流れを連続的に捉えて、あるいはどこかで区切ってその影響力を把握するのが困難なように思えます。私にとってこれはブラックボックスです。後のギリシャやインドへ与えた影響力が大なのか小なのか、直接の関係があるのか間接的にも関係があるのか、残念ながら知識がないため答えられません。

お礼日時:2013/10/12 01:28

 No.4です。



 次のお考えについてひとつの見方を提示します。

 ★★(No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) 格変化についてですが、質問に質問で返すような具合になって申し訳ないのですが、他の回答者の方のタガログ語の指摘もある通り、豊富な格変化と持つ言語や論理的な言語というのは世界に数多く存在すると思います。

 (い) ですがそうすると、なぜそういう言語全てが高度な哲学や論理学を生み出さなかったのかという疑問よりも、なぜギリシャとインドだけが高度な論理学を発達させることができたのかと問うほうがより根本的な疑問だと思っています。

 (う) 特に紀元前6世紀ごろの話です。ヤスパースはこの時代を枢軸時代と呼んでいますが、ギリシャ論理学とインド論理学は明らかに他と異なる独自性を持っているので、この高度な論理学の起源が何に由来するのかと問えば、そしてなぜギリシャとインドなのか、客観的に判断できる共通性はインド・ヨーロッパ語族であるという点です。今の私の知識ではそれ以外に判断する材料がありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (え) 回答No.4は 言語が人びとの思惟や行動に少なからず影響をあたえるのではないかという論点をめぐって ただし《体言の格活用とそのゆたかさ》についてでは必ずしもなく 《文の生成にあたっての用言の自己形成とその論理的な緻密さ》に焦点を当て それほどにまで緻密に成っているのなら さぞその話し手は論理的にしっかりとした人間像となっているはずだ。という反面での判断材料を示したものでした。

 (お) ただし 問題は ぎゃくにすでに《言語が思惟一般に影響をあたえたという史実》のほうから捉えて それは どうしてか。という見方だということです〔つまり(い)〕。特に時代をも限って ヤスパースの言う枢軸時代に焦点を当てているのだと〔(う)〕。

 (か) したがってたとえばロシア語は 現代においても 
 ▲(ヰキぺ:ロシア語) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7% …
 § 6  文法
 § 6.1  名詞

 名詞の格は主格、生格(≒属格)、与格、対格、造格(≒具格)、前置格(=格の意味内容は中立)の 6 種類である。
 一部には呼格(例:Боже! 神よ!)、処格、物主格(притяжательный падеж)、分離格(разделительный падеж)が残る。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに格活用が豊富ですが 時代が違うということで 判断材料とはしないということですね。

 (き) それでは むしろ議論は言語以外の要因があったのではないかという方面に移ってみるのも一法でしょう。


 (く) 生業の形態に目を移します。狩猟・採集・漁労から農耕をおもな産業とする社会生活へ進展してきたわけですが その筋から少し変わった産業として 牧畜があります。しかも遊牧という形態を採る場合です。そのときその遊牧のために騎馬という風習をも持った。

 (け) 以下 江上波夫の研究成果に依拠して述べます。







 (こ) 遊牧民の特徴のひとつとして 男子の血筋の一系というかたちを採るということがあるそうです。

 その分かりやすい例示として 次のようなナラワシのことです。
 ● (遊牧民における男子一系)~~~~~~~~~~~~~
 A. (埼玉古墳群で出土した《稲荷山鉄剣銘文》) ヲワケの臣の上(かみ)つ祖(おや) オホヒコ。其の児タカリのスクネ。其の児の名テイカリワケ。其の児の名・・・

 B.(マタイによる福音書 冒頭) アブラハムとダビデの子孫であるイエス・キリストの系図。 / アブラハムはイサクをもうけ イサクはヤコブを ヤコブはユダとその兄弟たちを ユダはタマルによってぺレツとゼラを・・・もうけた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり セム民族も 遊牧民に入っており 聖書の民としては 非論理的な――反論理的ではなく つうじょうの論理を超えるところの――精神の現象学を持ちました。

 あるいは 古代日本人は 征服王朝かどうかを別としてこの遊牧民の特徴をその足跡として遺しているようです。(いまも残っているかとも思われます)。たぶん 農耕民の文化と共存していると――見るだけでは 何も言ったことには成りませんが――捉えられます。





 (さ) さて江上は 次のように論じています。《実用的な学問・実験の発達 あるいは 知識・情報の愛好》などが 特徴として挙げられています。

 ■ (江上波夫による遊牧民の文化・文明とは) ~~~~~~~
 近代を特徴づける民主主義・個人主義・植民地活動・実用的な学問・実験の発達は 本来 遊牧騎馬民族の間にあったものだと思うんです。・・・
 核家族制 契約制 土地よりも人間を問題にする人間主義 能力主義 平等主義 恋愛の謳歌 開拓・植民 知識・情報の愛好などは 早くから騎馬民族を特徴づけたものです。・・・

 動かざる農耕的な古代的文明をつくったものと それから 動く一つ一つは滅びて消えていったけれどもそれぞれが常にその時代におうじた騎馬民族的な役割を持ったものと その両者によって世界ができているんだと私は思うわけです。
 (江上波夫 vs 佐原真:『騎馬民族は来た!?来ない?!』1990 p.115f.)

 (し) それでは どうしてそのような特徴を持つにいたったのか。

 ■ (つづき:江上波夫:遊牧民と農耕民とについて) ~~~~~~~~~
 牧畜・騎馬民族の特徴は 自分たち人間は労働するものではないという考え方です。働くのは牛馬や農耕民の仕事でね。自分たちはその上に立って支配する。軍事を司り 学問し 政治をする。

 牛馬と言えば もともと彼らはたいへんな発見をしている。羊 山羊 牛と馬 これだけ飼って世界を横行することを考えた。何もない所へ行っても これだけで全部間に合う。食べる方は乳と乳製品で十分 毛と毛皮で 服も夜具もテントもできる。それ自身が生きた缶詰です。

 鞭ひとつで草のある所 水のある所へかついでいってくれ かってに子供も産んでくれる。あとは寝ていればみんな事足りる。人間よりよっぽど頭がいいですよ。

   * 次には 近代以降の経済社会の歴史にまでつづくようだと言います。

 彼らはやがて牛馬の代わりに機械を働かせるようになる。あるいは植民地の人々を働かせる。それが帝国主義となり 産業革命となり いわゆる近代文明を生んだ。いっぽう農耕民族は人間は労働するものだという考え方なんですね。ここのところが牧畜・騎馬民族との大きな違いです。

 農耕民族からみれば 牧畜・騎馬民族には文化がない 彼らは野蛮人だというのですが 文化の型が違うのです。
 牧畜民は個人主義で 自由で 民主的です。文化は農耕民族の創出したものを摂取すればよい と考えている。
 実際にいろいろな文明を融合して普遍性のある世界的な文明をつくってきたのは農耕民族ぢゃなく 牧畜民なんです。

 ヨーロッパでは 地中海世界ではなくてゲルマンが牧民なのです。そういう意味で 世界史における牧民の役割を明らかにするのが私のテーマになっちゃったんです。
  (江上波夫(著者代表):『天城シンポジウム 日本人とは何か――民族の起源を求めて――』 1980 pp.16-17)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 すでに長く成り過ぎましたので 一たんとめます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
騎馬民族征服王朝説については門外漢なので詳しいことはお答えできないのですが、言語学以外のアプローチ、民族の形態からの考察もとても有用だと思います。

回答の中で「言語が思惟一般に影響をあたえたという史実」とありましたが、私が言語学で意識しているのはサピア・ウォーフの仮説というものでして、喋っている言葉(の種類)がその人の思考の枠組みを形成するというものです。率爾ながらこの仮説を知る以前からも全く同じことを自分でも考えていました。
そして科学の誕生というのはまさに思考(思想)から生まれたため、使用している言語にその因果があると考えました。そして今回の質問に繋がりました。

世界史における牧民というのも、農耕民・遊牧民という枠組みも二元的な対立関係ではなく実際には複雑な作用がお互いにあったはずですから、面白いテーマだと思います。

お礼日時:2013/10/12 01:37

こんにちは。




~~~~~~
☆つまり私が聞きたかったのは宗教面の話ではなくて、ヨーロッパはギリシャ思想を科学に昇華させることが出来たけれども、インドはギリシャと比肩する思想を持っていたのにどうしてアジアは科学を生み出すに至らなかったかという質問です。
~~~~~~
◇何をもって科学とするかによるのでしょう。
日本や中国には、医学や博物学、薬草学などの自然科学はあった。
しかし、日本や中国では、物理学は生まれなかった。
体系は異なるけれども、日本には西洋の数学に匹敵するような《和算》があったにもかかわらず、物理学は日本で生まれなかった。
関孝和らによって、ヨーロッパに先行する形で、数多くのことが発見、発明されていたにもかかわらず、それが暦法などの一部の分野をのぞき、自然科学へと応用されることはなかった。
これは、なぜだか分かりません。正直、分かりません。
ヨーロッパに比べて、相手とする自然が変化に富み、複雑すぎたためでしょうか。

関孝和
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D% …

ただ、日本で極めて高度な数学が生まれ、明治維新まで存在し、発展し続けていた、ということは留意する必要があるのでしょうね。



~~~~~~~
メソポタミアの思想が古代ギリシャにどれだけの影響を与えたのかは、確かにあったと思いますが具体的に何かということになると例を挙げるのは難しいのではないでしょうか。少なくともメソポタミアに原子論を唱えた哲学者がいたという話は聞いたことがありませんし、ペルシャ戦争の様子を考えてみても、ギリシャとオリエントは文化的に異質な気風が漂っていたと思います。
~~~~~~~
☆メソポタミアの思想が古代ギリシャにどれだけの影響を与えたのかは、確かにあったと思いますが具体的に何かということになると例を挙げるのは難しいのではないでしょうか。
◇有名なところですと、数学、幾何学、占星術and暦法(天文学)、航海術、測量術などなど。


☆メソポタミアに原子論を唱えた哲学者がいたという話は聞いたことがありませんし。。。
◇私も知りません。ただ、一般にひろく知られていない、今のところ、発見されていない、からといって、メソポタミアに原子論を唱えた人がいなかったと考えるのは、いささか早計ではないのでしょうか。
インドの原子論、これは果たして原子論と呼べるのか、いささか疑問です。これを原子論と呼ぶことができるのならば、中国の《気》の思想は、さしずめ《素粒子論》などになってしまいます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97



☆ペルシャ戦争の様子を考えてみても、ギリシャとオリエントは文化的に異質な気風が漂っていたと思います。
◇そのペルシアは、インド・アーリア系ですよ。〔古代〕ペルシア語はサンスクリット語と近親関係にある言語で、印欧語の一つですよ。



~~~~~~
ですがそうすると、なぜそういう言語全てが高度な哲学や論理学を生み出さなかったのかという疑問よりも、なぜギリシャとインドだけが高度な論理学を発達させることができたのかと問うほうがより根本的な疑問だと思っています。特に紀元前6世紀ごろの話です。ヤスパースはこの時代を枢軸時代と呼んでいますが、ギリシャ論理学とインド論理学は明らかに他と異なる独自性を持っているので、この高度な論理学の起源が何に由来するのかと問えば、そしてなぜギリシャとインドなのか、客観的に判断できる共通性はインド・ヨーロッパ語族であるという点です。今の私の知識ではそれ以外に判断する材料がありません。
~~~~~~
☆なぜそういう言語全てが高度な哲学や論理学を生み出さなかったのかという疑問よりも、なぜギリシャとインドだけが高度な論理学を発達させることができたのかと問うほうがより根本的な疑問だと思っています。
◇有名なところですと、中国の諸子百家の一つに《名家》と呼ばれる論理学派が存在しています。

たとえば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%AE%B6_ …

ここでの記述では、
─────────
名家の論理の中に「飛ぶ鳥の影は動かない」というものがある。これはゼノンのパラドックスに相当するものと考えられる。また、詭弁とみなされる論理の中にも、ものの存在とその本質を分離するという意味でイデア論に発展する可能性があるものもあった。しかしそれらは、ギリシアのように体系的な哲学として発展することはなく、弁論の訓練として使われるだけに終わった。
─────────
と結んでいますけれども、個人的には、いささか正鵠を外しているように思います。
老子や恵子が展開する議論は、現代の解析学などの考え方の先駆けともなるようなものです。



☆この高度な論理学の起源が何に由来するのかと問えば、そしてなぜギリシャとインドなのか、客観的に判断できる共通性はインド・ヨーロッパ語族であるという点です。
◇ではなく、
「印欧語族の中で、なぜ、ギリシアとインドで、そのような高度な論理学は発生したのか?」
と問うべきではないのですか。
そして、
ギリシアについては、高度な先進文明を有するオリエント諸国との地理を考えれば、おのずとその答えを導き出せると思いますが。。。
インド、ペルシア、ヒッタイトなどは、先進文明圏を征服・支配し、その文化を吸収、継承、発展させた、と考えるのが自然ではないのですか?

文化・文明の先進地域が、その地域の人たちから文明・文化を有していない蔑まれた民族によって征服、支配されることは、中国のモンゴル人支配の例を待つまでもなく、歴史上よくあることです。
ギリシア人の支配を受ける憂き目にあったオリエント諸国の人々の目には、ギリシア人こそ《バルバロイ・βάρβαροι》に映ったと思いますよ。
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この回答へのお礼

度々の回答ありがとうございます。また長くお付き合いくださってありがとうございます。

ご指摘のとおり、ヨーロッパ以外の場所では科学的と言える行為が行われていた事実があるにも関わらず、科学は生まれませんでした。
少し科学について話したいのですが、
そもそも科学とは人間にとって何なのか、科学の誕生は偶然の出来事なのかそれとも必然なのか、という問いかけから常に意識していることがあって、それは「歴史にifはない」という重要な命題です。
つまりヨーロッパだけが科学を生み出し、それ以外の地域で科学が生まれなかったのは、たまたまではなく必然だと考えています。
もし科学の誕生が偶然ならいたるところで科学が誕生していてしかるべきはずで、ピラミッドを建てたエジプトがギリシャの出現を待たずに科学革命を起こしていた可能性も、アラブ世界が先に科学革命を行ってヨーロッパを征服するシナリオも、当然知恵というものが人間にとって普遍的な以上、ありえたはずなんです。でも現実にはあらゆる可能性の上についにヨーロッパだけが科学革命を達成しました。
つまり科学革命というのは偶然やたまたまで起こるものでは決してなくて、鍵となるいくつかの条件を最後まで達成した文化だけが辿りつく思想の枠組みの転換現象なんです。

そして鍵となる条件が何であったかについては、私は科学史をメインに勉強しておりいくつか挙げることが出来るのですが、科学史からのアプローチだけでは不十分で、スタート地点に立ち返ってギリシャとインドの比較や印欧語族の言語学的なアプローチ、宗教的な価値観や思想・哲学の比較など、この問題を解決するには人類全体を包括した考察がなされなければなりません。


今回の質問では皆さんのおかげで有益な回答が多く得られましたが、回答と返答が長くなってしまったため、様子を見てこれ以上回答が出ないようであればその時点で閉じようと思います。

お礼日時:2013/10/12 01:15

 No.4&7です。



 ★(回答No.8) つまりヨーロッパだけが科学を生み出し、それ以外の地域で科学が生まれなかったのは、たまたまではなく必然だと考えています。
 ☆ と書いておられます。つまり 《インド哲学》を別にした場合 ・すなわち《科学》の――個人におけるだけではなく 社会様式としてのような――誕生という主題に限った場合には 《言語》のそれぞれの成り立ちまたは構造の如何によって言わば《科学》との親和性が或る程度影響を受けるのではないか。こういった論点だと思います。
  
 名詞の格活用にかんしてその豊富さに注目するよりは そうではなく動詞との連絡が――つまりそれぞれの活用格との意味連絡が――いわば直線的に・したがって論理的にかたちづくられている。としたら その言語を用いる話し手・書き手は 世界のものごとについてそのまま論理的な視点から論理的な側面を切り出して来る。こういった傾向がつよくなるのではないか。――こう考えられるかと思います。

 文におけるこのような論理的な意味連絡があきらかな場合を 英文に捉えてその文型が《線形》だとたとえます。それに対して 論理的な意味連絡が 文の表面の仕組みだけでは明らかになりにくい場合を 日本文に例を採って 《非線形》にたとえつつ 比較対照させました。

 西欧における中世から近代にかけての言語の――つまりラテン語のでしょうか あるいはつまりしかも生活言語としての各地のそれぞれの言語の――態様を明らかにできればよいのでしょうが。

     *

 【Q:《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8024959.html
 和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。

 まづ和文の特徴を述べます。

  ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

 あるいは

  ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。

 これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。

 そうして仮りに英文が

  ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。
  ( b-1-E ): Elephant's nose is long.

  ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。
  ( b-2-E ): An elephant has a long nose.

 のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。
 ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。

 このとき 端的に言うかたちで問うのですが:

 【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?

 【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか? 

 【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?


 《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。

     *

 作業仮説です。

 (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。

  (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?

   ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ
   ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い

 (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?
 これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?
 
 (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。

 (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。

 (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて 

   (ω) 論理的な意味連絡

 をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。

 (か) まとめて次のようです。

   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

 について見れば:
    
     ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。
      つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。
      ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。

     ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:

       ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。
       ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。
       ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)

 (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。

 (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。
 ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。

 (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。

 (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?

     *

 参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。

 1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。

    A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。

 2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。

 3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。

 4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。

 5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。

 6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。

 7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?

  ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。
  ( b-1-E ): Elephant's nose is long.

  ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。
  ( b-2-E ): An elephant has a long nose.

 8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。

 9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。
 こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。

 10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。
 
 11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。

 12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ウンベルト・エーコの「完全言語の探求」という本を読みました。
回答者様ほど専門的な知識を有していないので私の回答にも限界がありますが、先に挙げたサピア・ウォーフの仮説に基づいて、使用する言語が異なれば思考方法も当然異なるだろうと推測できます。よって言葉の種類の多用さが異なる文化の多用さと直接の関係を持っていると言えるかと思います。

日本人はよく曖昧なものの言い方をすると言われます。それは日本人がもとからそういう気質だったから日本語があいまいな言葉になったのか?それとも日本語が文法の多様性を許容する言語だったから日本人の気質もそうなったのか?
卵が先か鶏が先かという話になりますが重要な問題だと思います。言語学においては資料に基づいた比較言語以外だと、科学的には脳科学の分野になってしまうので、思考実験だけだと本質の理解ができません。しかし言語学ほど思考実験の成果が顕著にあわられるものもないと思うので興味がつきません。

お礼日時:2013/10/20 00:40

しばらく前から、仏教信仰者の方からの回答を書いてみたいと思っていたのですが、生業その他の関係で、ほぼ毎日PM12時を過ぎてやっと床につけるという、超忙しい状態、なかなか書く時間まではとれませんでした。



まだ閉じられていなかったので、ホッとしています^^。

急ぎ私の方からの回答を書かせていただきます。

仏教信仰者といっても、知識は仏教の歴史に関しても、高校生程度と思っていただいてかまいません。

ですが、例えば肺胞がほぼ全滅するような苦しい肺炎で死の床をはいずったりした体験、ある恐怖症により、気がふれるところまで行ってしまった体験などなどの、体験の方からの哲学は誰にも負けないのではないかと思えるようになっている人間のようなのですが、

そこからブッダへの信仰を見出した者、

これは深い信頼という意味や、どんなに考えてもさらにはるか上の存在への憧れと謙虚さを得たという意味であり、むしろどこまでも疑う自由を得たという感じのものですらあるのです。

ちょっといきなり難しい宗教観となってしまったかと思いますが、自分の小さな頭と心で考える疑いなどで崩れるような存在を私は信じているのではないという絶対とうわけではないのですが、絶対的とも言える信頼を得たという意味なのです。

その信仰の世界から見ると、仏教思想ってまずはなんとも、あまりにもいい加減な分類の仕方でその教えの世界が表現されてきた世界であることが解るところなのです。

あの交通も通信もない時代にて、さらにブッダの死後、数百年も後になって、葉っぱにすら記述されていなかった記憶の伝承の記述が始まった世界から生まれたのが仏教思想の歴史の始まりですから、、それでも伝えられてきた迫力におされて夢みたいな言葉の使い方となってしまったのは当然のなりゆきなのでしょうけどね。

ですが、それにしても、

「縁起」というすべての因果はつながっているという思想から生まれたあらゆるその辺を物語るはずの根本思想として語られてきた言葉の世界は、荒削りな説明の世界になりすぎています。

「四苦」「八苦」からはじまり、「五蘊」「五感とその奥を説く唯識論」「四諦」「十二因縁」「六大煩悩」全部、複雑な組み合わせになっているだけで、なんともバラバラ、雑多、抽象的言葉での、分類とそのまとめの形になっています。

(1)まず、そのあたりの分類の仕方のあたりから考えると、私には到底、その考え方が、「「ギリシャに比肩する高度な論理体系」の世界を生んだ、そのような哲学的土壌の世界だとは思えないのです。

おそらくブッダご自身が説いていただろう因果論自体は、そちらのIfの無い因果歴観と同じで科学的な思考であったとは思うのです。

そこまで明晰ではあったのではと私自身は推理しています。

でも、その周りの、当時のバラモンの思想にしても、その後の仏教思想から考えても、そこから科学が生まれるような思考基盤があったとはあまり思えないのですが、

これは歴史という史料の記述の世界への無知からの偏見でしかないのでしょうか?

(2)次になのですが、物質を構成する元素をギリシャの思想家たちは思索していたということであるのに対して、インドでもそのような思想家の存在の記述が史料として残っているのでしょうか?

私の高校生程度の知識では、そのへん何かを思い出そうとしても記憶に無さそうで^^、その辺は解りましたら教えてください。

しかし、

(3)インドにも、そのような原子や分子に通じるような思索の片燐があったとしても、ギリシャのそれですら、現代の原子核やそのまわりの電子、さらに原子核の中身の物質の最小単位、その原子の組み合わせでできている分子の理解からの思索ではなく、むしろ非科学的な幻想的な思索から考えた物質の最小単位であったと考えられるところ、

私はこれが科学発展の機動力となった論理思考の世界ではなかったというイメージを持っています。

それこそそちらの「科学史」の世界から、そのへん教えていただきたくなるところです。

私は学者ではないですが、そうしたことが解明されることは、学者だけのロマンの世界ではなく、人間脳を持っ多すべての人にとっても、巨大なロマンであり、心浮き立つ、心を明るくしてくれるロマンの世界だと思うのです。

(4)さて、

インド人が、もともとギリシャと共通の民族であった点や、その後、仏教が広まる大きな力となったアショカ王とか
カニシカ王だったと思いますが、その勢力が大きかったこと、中国と言っても、西域のガンダーラ等に伝わって行ってそこからさらに西にも進んで行っただろう点、、ギリシャ人がインドに攻め込み、カニシカ王以後さらにギリシャとインドは交流があったはずのところ(すみません、高校生程度の歴史認識なのでこのへんの認識は間違っているかもしれませんが)

たしかに、ギリシャに起こった科学の源泉がインドに伝わらなかったこと自体には疑問がおこるところですよね。

(5)ですが、

当時の学者がどのように移動したのかについての記述は史料として現在の文献学などにて見つかっているのでしょうか?

あの学校もない時代、自転車も、人力車も^^ない時代、権力争いの勢いで生まれた交流の世界、果たして当時の遠い遠い地の果てどうしの世界間に、学問の交流がどこまでありえたのか、

私の浅い知識からは、

やっぱり、カニシカ王などに仏教思想が支持されたことから、それは西方中国に伝わり、うわさで中国の方でも研究が始まったというのが北伝仏教の、因果なのではと思えるのです。

そしてその後、大乗仏教は、むしろ大衆的な幻想的ニーズと結びつき、いよいよ高度な論理体系からは離れた勢いを加速してシルクロート周辺、中国北方の地を通り、一直線に韓国、日本へとなだれ込んだところ、これはもはや(ブッダご生存の頃のインドはどうであれ)、高度な論理体系とはかけ離れた歴史となってしまっているというのがここでの私の主張です。

すでに、ギリシャ思想から科学的思考の伝統が生まれて板であろう西洋世界に、そのような非論理的言葉で飾られた世界が伝播されえたのか?

という観点からも、科学史以外の観点からの、東洋から科学が生まれなかった原因が考えられるのでは、と思え、

一般仏教信仰者の観点からの回答を、上記にて記してみました。



((追伸))

なお、このQ&Aの世界は、大勢の他の方も見られているところとおもわれますので、誤解なきよう、信仰者の立場という点も付け加えておきますが、

あくまで、今となっては推理ではあろうとも、信仰者の立場からは、

ブッダご自身が何等か語られた、おそらく人間性の深淵に迫る普遍的教えと、その火のような情熱と迫力が、後々の仏教思想の「言葉」につながった因果自体は、Ifなしに考えられる因果の推論として考えられるところであり、

信仰者のその推論というのは、事実はもう解らないと思われる以上、全身全霊から思わずやはりひれ伏してしまうような想いからの推論ということなのです。

よし事実が、今後、なんらかのフィールドワークにて実際の記述が書かれた葉っぱの保存されたものが発見される等の奇跡的発見によってわかったとして、そして、ブッダなどほんとうはさらにただの凡人だったと解ったとしても、ここに創られた私自身の信仰は、もはや心にも脳にも魂にも刻みつけられた事実であり、消すことはもはやできないということです。

すくなくとも、それだけの威力を、2500年前のその凡人が生み出したことはここに歴史の因果の真実として存在していることにはなります。

宗教の考察の方からは、こんな感じの回答となるかと思います。

そちらのロマンの世界の、何か参考になる点がありましたら、幸いです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。もう回答もなくなっているだろうと思って油断していたらこんなに遅くなりました。日が経ってしまいましたが私の回答をお気づきになって頂けると嬉しく思います。

何か重い病気を患った方が死の淵になってキリスト教信仰に目覚めるという話は聞いたことがあるのですが、回答者様は仏教のようですので、西洋哲学の有我というよりも東洋の無我の思想に共感を覚えたということでしょうか。

私も最初はインドは宗教の国だと思っていました。多種多様な神様がいて、それぞれに信者がいて、バラモンとか仏教とかヒンドゥー教とか、今のインドでさえどこを切り取ってみても宗教が出てくるので、すごい国なんだなーと思っていたのですが、浅学で申し訳ありませんが自分が学んだ限りですと古代インドの哲学者たちはそのほとんどが無神論者だと書いてありました。私は最初これを知って仰天しました。本当にそうなのか?と
西洋は神とこの世界を分けて、二元論的な考え方をしますが、インドでは二元論そのものが否定されて、神もなければ自意識もない、それがバラモン教に反抗した仏陀やジャイナ教のマハーヴィーラ、そして六師外道だというのです。この神もいないという推論は清々しさを覚えるほどその根拠も論理的で、そこから世界の変化を説明するために原子論も登場したようです。古代ギリシャも現代科学がいう原子論と比べてはただの思考実験の一つに過ぎませんが、原子論とは論理的思考からしか生み出されない考えだということを意識すれば、同じ考えに達していたインドもギリシャと比肩すると思いました。
ちなみに古代インドの原子論については他の回答者様のお礼の中にいくつか触れましたのでそちらを参照して頂きたいです。

本来インド思想とは徹底的な無神論であったのに時代が下るにつれて、無神論を説いた仏陀自身が後継者たちによって神格化されていった。という認識なのですがこれはあっているのでしょうか?だとしたら凄い歴史の皮肉だと思います。

お礼日時:2013/10/20 00:27

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