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離人症になって約5年になります。
8年前、鬱で精神科へ通院して主治医にもこの感覚を伝えましたが、治療法はないという様な事を言われたと思います。

今現在は、肌で感じる場所の感覚が全く無く、星空を見上げても夕焼けを見ても何も感じる事が出来ません。
自然の中にいても、以前とは何かが違う、
人間として生きる、誰もがきっと当たり前に出来る、基本的な一番大切な感覚を失ってしまった感じです。
見える物すべてが平面的で輝きを失い、目の前にいる人を感じる事すらできません。
まるで私という人間が、体だけ残して居なくなってしまったような。
今の感覚を、言葉で表現するのはとても難しいです。

常に離人感の中、ここ何年も現実に生きる世界に戻った事はありません。
せめて10分でもいいから、夢から覚めたい、そばに居る愛犬の存在を感じたいです。

少しでも現実に戻るという言い方は変ですが、離人感から出る方法はないのでしょうか?

入院も考えていますが、離人症で受け入れてくれる病院がありましたら教えて頂けるとうれしいです。
宜しくお願いします。

A 回答 (8件)

私は離任人症で辛い経験をした者です。

14歳に「人生は何だろう、或いは、死にたくない」という事に意識が行ってしまいまして、常に「死」と言うものが意識から離れなくなって、死と言う事に取りつかれた経験が在ります。

死と言う事を毎日意識して生きてきましたが、年数を重ねたら、慣れてくる、とか、苦にならなくなると言うものでは有りませんでした。この意識し続けている事によって、普通の感覚が無くなったと言う事でした。生きている気がしなくなりました。現実か夢かという感覚で生きてきました。

28歳で子供が生まれて半年経った頃に、生き難い想いが強くなりました。ちょうどその頃飛び込んだ本屋で鈴木知順先生の書いた本に出会いました。直ぐに先生に会って入院森田療法を2ヶ月間受けました。先生の指導のおかげで、いくらか生きて行く事が楽になったかも知れません。先生は「ノイローゼの一年は10年坐禅をした事と同じ、或いは、ノイローゼは悟りを開かないと治らない。」こんな事を言っていました。

講和と言って、時々禅の話や、剣道や弓道の話をして下さいました。ですが、あの当時は何の話かまったく分かりませんでした。生活態度を教えて貰ったと言う事のようです。話しの初めに「今は分からなくても良いから、聞いておくように、判る時が来た時にはピタリと判る」と言う事でした。

退院してから4年後の事です。玄関の靴を揃えていた時の事でした、自分の意識が「無意識の意識」と出会うと言う体験が在りました。それ以後「死」と言うものが怖くなくなりました。心から不安が消えてしまいました。その日を持って離人症が完治しました。32歳の時です。

あれから、神経症になった事も、治った事も全て忘れていました。生活に追われる毎日でした。昨年近所の若い人が「神経症」になったと言う事で、神経症の話を精神科医に聞くと言う機会が在りました。精神科医の話を聞いていて、神経症の事をあまり分かっていないと感じました。

インターネット等でもいろいろ調べてみましたが。今の医学でも神経症や精神疾患の真の原因を掴んでいないような気がしています。神経症の中に書痙と言うものが在ります。その書痙を直している精神科医が「本当の原因は分かっていませんが、」という書き出しで説明をしています。

神経症が完治した経験から、貴方に説明をしたいと思います。ですがこの説明は、真実の事ですが、今の貴方にとっては、納得がいかないと思います。ですから「ただ読んで見て下さい、理解しなくても良いですから、読み進んで見て下さい。分かる時がきたなら、ピタリと判ります。」と言うしか在りません。

神経症は「意識」している事によって症状が現れます。その症状を異常なものとして心から追い出そうとする事で心にしっかりと固定されてしまいます。従って神経症の完治を望むなら、症状の改善は望まない事です。症状は不問として、別のアプローチをする事です。

別のアプローチとは、人間がどうして苦しまなければいけないのか、と言う事です。又神経症全般を学ぶ事も有効です。神経症の症状は様々です。色々とあります、ですがその元はみな同じです。共通しています。その事を学ぶ事で神経症から抜け出す事が出来ます。

又神経症の完治とは、自分の中の自分を悩ませているものと出会うと言う事が在ります。是が悟りですが、自分の症状ではなくて、症状を起こしているものが何であるかを学ぶ事も有効になります。是を学ぶなら「禅」と言う事になります。鈴木大拙博士の書いたものを学んでください。大拙博士と、鈴木知順先生から神経症の完治と言うものを学んだからです。
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この回答へのお礼

すぐに読ませて頂いたのですが、その時は文章が頭に入って来ず、自分の考えも出てこずでお返事が遅くなりごめんなさい。
たくさんの事を教えて頂きありがとうございます。
離人症になられた経緯、tumaritou1さんはご自身の「死」が意識から離れず苦しまれたようですが、私も同じ年齢くらいの頃に私の場合「母」が老いる事、死ぬ事が非常に怖く、悲しくて一人で泣いていた事があります。
その当時も今も母は病気でもなく、なぜその考えが頭から離れなかったのはわかりませんが、今思えば逆に言うと「老いる」まで長生きしてくれるという事は「幸せ」なはずですよね。
教えて頂いた森田療法の中に載っていた不安神経症の一種だったのかなと思いました。
そして、神経症(離人症もでしょうか)は「意識」する事によって現れ、その症状を追い出そうとする、私の場合(何でこんなに景色が写真みたいたんだ?変な感覚から出たい。)と強く思い過ぎる事で、逆に強くこの感覚に固定されてしまっている、と言えるのですね。
tumaritou1さんは神経症を治すために行動し、学ばれたのですね。じっとしていては治らないのですね。
私も「無意識の意識」に出会える日がくる事を願っています。ご本も近いうちに拝見させて頂こうと思います。
ありがとうございました。

もしよろしければ、tumaritou1さんは離人症が治られたあと、感覚はどのように変化されたのか教えて頂けないでしょうか?発症する以前の、無意識にどこに居るか感じる、という事が出来るようになられたのでしょうか?
教えて頂けるとうれしいです。

お礼日時:2009/03/29 19:42

再度の投稿になります。



もしよろしければ、tumaritou1さんは離人症が治られたあと、感覚はどのように変化されたのか教えて頂けないでしょうか?発症する以前の、無意識にどこに居るか感じる、という事が出来るようになられたのでしょうか?
教えて頂けるとうれしいです。

という事なので、お答えします。そよかぜを感じる時に分かる感じ、或いは、暑い夏に仕事に没頭していて涼しい風にふと我に返った感じ、或いは、春風が自分の周りをとおり過ぎて行くのを、全身で感じている感じと言えばよいでしょうか。

子供の時の感覚です。毎日が、一瞬一瞬が新鮮な感じとでもいえばよいと思います。心にも軽やかな風を感じている、心がすっきりしている感じ、或いは寝起きにの時にも、心がすっきりしている。悩みが在るはずなのに悩みではなくて、すっきりした頭で考えている感じです。

自分の心が自分の心と争う事が無い感じです。神経症の時は、何時も重苦しい心持でしたが、そういう事は一切なくなりました。自分の心と自分の心が相談して、和やかに打ち解けあっていると言う感じでしょうか?

ですが、今も、あの感じを抱いている人達がたくさんいる事を思う時に、ひとりでに涙が流れる事が時折あります。自分で、何かが出来ないのか?という事です。苦しい思いの中に居る人に何かが出来ないのかという事を考えています。ですが私には出来ないと言う事が分かっています。気付くのは本人しかできない事だからです。

この回答への補足

どちらに付けさせて頂こうか迷ったのですが、最初の回答にさせて頂きますね。
どちらも私にとっては大事なご回答です。

補足日時:2009/04/03 02:02
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この回答へのお礼

子供の時の感覚(この言葉が一番心に残りました。)、一瞬一瞬が新鮮な感じ。とても、とてもよくわかります。そう感じられるように、またなれるのですね。なれたのですね。春を感じ、風を感じる。

今、桜が咲いています。今の私には何も感じることが出来ないので、もったいないなと思ったりしますが、もしいつか、わかる時が来たのなら、毎年見ている人より、感動も大きいかもしれませんね。

あなたが、涙を流される事はないのですよ。何も出来なくなんかありません。こうして、たくさんの事を伝えてくれたことは、少なくとも私に希望を与えてくれました。

本当に、ありがとうございました。

お礼日時:2009/04/03 01:09

離人症とは自我の脆弱性からくる自我障害のひとつですね。

 
 
自分が考えているのに、自分が考えているという実感がないとか、感動するという感じがしない、気持ちが動く感じがしない、もやがかかったような感じとか言われますね。
  
こんな図があります: 
 
A自己実現→B肯定的な自己像 
→Cアイデンティティの混乱 
→D低い自尊心→E離人症
 
ここで『アイデンティティの混乱』とは、第ニ次性徴を迎えて自我が不安定な中学生などが妥当です。
そこから自尊心が低下していった極みが離人症ということになります。
 
つまり、離人症とは自尊心の低下が原因です。では、自尊心が低下するのはなぜか?それは、 
『現実自己と理想自己のギャップ』と言われます。  
何か、イジメを受けたとか、挫折をしたとか、そういうものが原因で現実の自己イメージは傷つきますよね。だから、特に理想が高いとかそういうわけでもないのに、現実自己が低下するから、現実と理想が大きな不一致を見、等身大の自分を感じられなくなってしまいます。
ですから、まずありのまま、いっさいの思い込みを入れず、今いるダメだと思っている今の自分を受け入れることではないでしょうか?つまり、勇気を持って思いきり理想自己を下げることではないでしょうか?そこから、ゆっくりでいいから、自分のしたいと思うことを少しずつでも積み重ね、自己実現に向かいながら自分を取り戻すのがたぶん正解のひとつと思われます。
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この回答へのお礼

お返事遅れて申し訳ありません。

中学生時代、不安定でしたし(思い出すのはつらいので、控えさせて頂きますが。)、自尊心も低いかもしれません。

あなたの言われた『現実自己と理想自己のギャップ』
考えてみると、こちらも当てはまります。
分析して頂きありがとうございます。
アドバイス、参考にさせて頂きますね。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/04/03 01:55

はじめまして。



離人症という言葉に興味を持ち拝見させてもらいました
今まさに私がそれに近い状態なんです
年齢は分りませんがお辛いでしょう

こんな私が言うのも奥がましいのですが
たぶん質問者さんは昔あるいは今に至るまで辛い事が多すぎた
そのため心がリミットから外れ体から抜けてしまったのだと思います
(そうしないと体が危険な状態になる為)

ただ、全てが抜け出てしまうと自分に戻れなくなるため
客観的な自分が居てスクリーンのこちらで見ている自分が居る
こんな事だろうと推測します

これを治すには心を取り戻す事が必要だと思います
まず甘えられる人に甘える、自分を第三者に認めてもらう
自信をつける、得意なものを見つけ延ばし第三者と語らう
などが必要ではないかと思います
(私自身人に甘える事が出来なかった為)

心を戻すとは愛を取り戻す事かもしれません
答えになっているか分りませんが
ななたの質問を見て自分が考えさせられました
頑張れといいたいところですが更に辛くさせてもいけないので・・
お大事にしてください。

補足:病院については分りませんあしからず・・
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この回答へのお礼

お礼遅くなり申し訳ありません。

回答者さんの文面を見て何だか胸がいっぱいになり涙が出そうになりました。
私自身、この質問に答えなどない事は心の底では気付いていたのかもしれません。
でも皆さんから色んな意見や言葉を頂いて、本当にうれしく思います。
私の今の乏しい感情とつたない言葉で、感謝をどう言い表せばいいのか、もどかしいです。

人に甘える事が出来なかった。
甘え下手とでも言いましょうか。

これからは少しずつ、悩んでる事も一人で抱え込まず、
身近な誰かに相談したり、頼ったり、していこうと思います。
家族にも、家族以外の人にも、心を許して相談する事。
何でも話す事、時には甘える事。
私にはとてもハードルが高い事ですが、それが本当は一番大事な事なのかなと
あなたの言葉で気付かせてもらえました。

きっと良くなると信じて、また心に出会える日を楽しみに
生きてみます。

ありがとうございました。あなたもお大事にしてくださいね。

追伸
私は今、28歳です。

お礼日時:2009/04/01 18:35

kaitara1ですが、膨らませた風船は貴方が手を離すとどこかへふらふらと行って行方がわからなくなるので常に手を離すわけにはいきません。

大きな気球だったらどこへ行っても籠の中に入っている限りあなたと一緒です。気球は思うところにはいかないけれど気球のことを忘れていても一緒にいられます。普通の人は自分のことを忘れて行動していますがちゃんと生きています。喜怒哀楽も感じています。おそらく気球に相当するものは自分の体なのだろうと思います。ジョギングを脳の血流を増加させるためではなく体は小さい風船ではなく大きな気球と思えるようになるための方法と考えてみてはどうでしょうか。息が苦しくなるくらいと述べたことにつながります。
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kaitara1ですが、言葉は難しいものだと思います。

貴方は、美しい景色を観ている時その景色を見ている自分を意識の対象にしていませんか。これと同時に美しいという感覚が消えてしまう、というようなことはありませんか。これを常に我に返った状態と表現したいわけです。逆説ですが何かを感じる自分を取り戻すためには我を忘れないと不可能だと思っています。ジョギングにしても息が苦しくなる程度には走らないとジョギングをしている貴方を考えてしまうことを忘れることができないだろうということになると思います。
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この回答へのお礼

常に我に返る。という所で、我に返るという意味や感覚自体が良くわからなかったのですが、kaitara1さんの言われた
>何かを感じる自分を取り戻すためには我を忘れないと不可能
映画を見て我を忘れてその映画の中に入る というのが出来ない事をふと思い出しました。意識がスクリーンの中へ入っていかない。
そう言われるとすごく納得です。そういうのを常に我に返っている状態というのでしょうか。
意識が、その対象へ向かない。という事は、自分の意識が景色や場所へ行かず、自分の中で留まったままの状態、というのでしょうか。
どこへも意識を飛ばす事ができず、あるいは、せず、我を忘れて何かに集中する事が出来ない。そういう状態なのかもしれません。そういう見方もあるのですね。

お礼日時:2009/03/24 21:47

解離性障害を持っておりますが、その解説書によると、離人症は解離性障害の一種だそうです。



解離性障害をみることのできるお医者さんはごく少ないです。

私が知ってる限りでは、東大病院の柴山先生くらいです。自分は症状がそう重くないので、個性だと思って生きております。

たぶん、カウンセリングでないとダメなので、カウンセリングを重視する病院を探すために都道府県の福祉課などに相談してみたほうがいいと思います。
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この回答へのお礼

先生の名前まで教えて頂いてありがとうございます。
関西在住なので通院は無理なのが残念です。
aeromakkiは個性として考えておられるんですね、そんな風に思えたらいいですね。
私は、治りたい、今居る場所をわかりたい、と強く願ってしまいます。
カウンセリングしかないのですか。
色々とアドバイスありがとうございました。

お礼日時:2009/03/24 19:55

まったくの想像ですが、離人症というのは自分の関心が自分の意識に対して向けられた状態から脱出できない状態なのでしょうか。

つまりきれいな景色を見ているときでも関心はその景色ではなく景色を見ている自分が関心の的になってしまうというような。ペットの場合でもやはり同じように自分が関心の対象になっているというような。つまりいつも我にかえっているような状態なのでしょうか。現実に戻るというのはむしろ離人症の状態のように思います。我を忘れることが離人症から逃れることにならないでしょうか。唐突ですが、軽いジョギングなどをして息が少し苦しくなれば関心が自分の意識ではなく苦しいことの方へ移行するようにも思いますが、まったく的外れでしょうか。木村敏さんの「時間と自己」(中公新書)を読んで以来、離人症は瞬間的あるいは短時間には誰でも体験するものだと思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
少し考えてみました。
>自分の意識に対して向けられた状態から脱出できない・・・
違う、と思います。少なくとも自分の意識には関心はいっていません。
関心を向ける自分の意識が無い状態。「自分が居ない」といった表現を人に伝える時使うのですが、本当にうまく伝える表現がなく困ってしまいます。
「現実に戻る」という表現ですが、ご想像とは違うように感じます。
例えて言うと、幼少時代、小学生時代、中、高、とその時代に感じる感覚というのは多少違えどその時代感覚の中で生きていると思います。
今私は懐かしいはずの教室に行っても(懐かしい)と感じる事が出来ません。
「現実に戻る」というのは、その場所へ行って異空間のように何も思い出せない状態から抜け出して、懐かしさ、教室のふいんき、を当たり前に感じられるようになりたい、そういう意味で使いました。
言葉足らずでごめんなさい。

軽いジョギングは、(もしかしたら脳の血流が悪いのかな?)と思い、毎日していますが、常に異空間の中を走っているように感じています。
本当に、異空間とかおかしな表現ばかりですね。

お礼日時:2009/03/24 18:54

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