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 怪我や病気で脳髄が物理的に損傷した時、精神活動(記憶、知覚、認識、思考、性格、etc.)に機能的障害が発生する場合がある事が知られています。
 脳髄の一部が損傷しただけで、精神活動に影響するのであれば、脳髄が全損する肉体的な死の後には、精神や人格は存在しない事が、自然だと思います。
 (何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません)
 脳髄損傷と精神の機能障害との因果関係や、死後の生の存在を可能とする方法に関して、霊魂の存在を肯定する心霊学においては、どのような解釈がなされているのでしょうか。
 尚、私は理数系の人間ですが、超自然的なものを無闇に否定するつもりはありません。
 特に、死後の生に関しては、存在して欲しいと思っております。
 ですが、現実に脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しないと考えざるを得ないのです。
 この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。

A 回答 (21件中1~10件)

kagakusukiさん、時間を超えて宇宙エレベーターでは大変お世話になっています、勉強になります。




>この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。
そんな理論は存在しないと分かっていてのご質問、人が悪いですね(^^;

私なりの回答ですが【信心と思考停止】これに尽きると思います。
どんな難問でもこれさえあれば天下無敵、何も困る事は有りません。
事実お教を長時間唱えているうちに何となくその気になるし他の事に対して思考のスイッチを切れば矛盾を感じる事もないですし。
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bird48です。


「業」についての考えを追加します。
ご参考にしていただければと思います。

人の行いが「業」として、どのように残り、どのように作用するのか
といった事は仏教の「唯識論」に詳述されています。

簡約してみましょう。
まず「識」というものを分けて考えます。

前五識  五感に伴う識・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識
第六識  理性的判断を司る識・意識
第七識  潜在意識・未那識(マナ識)という
第八識  生命現象の基となる識・アーラヤ識という
第九識  大自然の識・カリダ心という(密教のみ説く)
第十識  チッタ心(密教のみ説く)

次に「業」と「識」との関係です。

第八識のアーラヤ識に人の行いの「業」が「種子」というものとして残り、蔵されて、再び行いの「業」を生むとされます。
現行薫種子、種子生現行と言われ、尽きることの無い流れにも喩えられます。

これらの働きは無分別の間に行われ、無我であって、固執すべき霊魂は無いとされます。
霊魂的存在を考えるのが未那識であって、本来無我なアーラヤ識に対して我執を起こすともされます。

「業」と霊魂の違いを「識」より見れば
「業」とは第八識における無自性のもの(無我)ですが
霊魂とは第七識以下においての自我の存続の思量を指します。

霊魂の在る、無しを思量する断見と常見は
第七未那識以下の我執による思考であって、迷妄と見なすべきものとして、仏陀は共に否定されたのです。
第八識に到達してこそ、真に了解できる世界であるとも言えます。

また、唯識論に説く業輪廻の実相が、そのまま生命現象の実相でもあります。
業輪廻の転生の様を簡潔に説いたものが十二因縁の教えです。
下記に記します。

無明  過去の2因
行     〃
識    受胎の一念
名色  胎内育成
六処  六根具足して誕生前の胎児
触    2~3歳の頃の苦楽を知らないで、触れるのみの位
受    6~7歳後、苦楽を識別する位
愛    14~15歳以後の愛欲を生ずる位
取    成人し利欲に執着する位
有    愛取の煩悩により種々な業を作り、来世の果を有する位
生    未来の二果
老死    〃
(織田隆弘著「密教入門」より引用)
この十二因縁の教えは
単に精神的現象の説明の範疇に留まるものと解釈される向きもありますが
実際には、色心一体の輪廻の実相を説いたものであると解されます。

最後になりますが
質問者様の言われる「脳髄の損傷による精神活動の機能障害」の状態に於ける「業」は、非増長業の内の失神状態で作る業に近く相当するものと思われます。
詳しくは、織田隆弘著「大悲と信心」の内のテキスト部分を参照して下さい。
それでは。 
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>パラレルワールドは、量子力学における不確定性が観測時に単一の結果に収束する事に対する説明の・・・・・・分岐した各々のパラレルワールドにおける物理法則は、通常同じものである筈です。


 あるパラレルワールドでは死後の生が存在し、別のパラレルワールドでは存在しない、等と言う事はないのですが、私の質問とどのように関っているのでしょうか。>

 いや確かにね物理的な意味合いではそうだけど、まあもう少しアバウトに考えてインフレーション前も踏まえて分岐した世界と捉えて考えるわけですよ、それをあえて霊界とするとそことイデアがリンクしていると考えるわけですよ生きてる間はイデアは脳や身体の方にイニシアティブをとられているんだけど死後霊界にイニシアティブがとられるわけですがその霊界のシステム上人格の形成が行われると考えるわけですよ、人格形成がその人本人のある時期の人格にスーッと入り込むという考えをすれば可能だと思います。
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#7



水の中で生きている魚が陸では生きられないのと同じではないでしょうか。
魚から見て陸は存在するでしょうか。
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疑問ごもっともだと思います。


ただこの場合信仰の問題と科学的思考法を混同していませんか。

心霊学的とおっしゃいますがそもそも学問として確立されているとは思えず現代では一部の酔狂な方たちの愛好会的な考えだと思いますよ。
つまり結論始めにありきで人々を導くための方便、悪く言えば大嘘。

でもこう言うと大昔から世界中の多くの文明圏で信じられているのだからまんざら嘘でもないでしょうと言う意見も有りますが社会を治めるのに必要でありそれを受け止める大衆も否定するだけの科学知識がない大昔では仕方なかったと思います。

>心霊学においては、どのような解釈がなされているのでしょうか。

なるべくその事には触れないよう、話を逸らすよう信仰の自由と言う方向に持っていきます。信じる信じないは個人の自由であると。
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こんばんは。


>ない」とした方が説明が付く現象が存在するのです。
 その1つが質問にある、脳髄損傷に伴う精神の機能障害なのです。

これは、僕は、死後があるという願望の基に先の投稿を書いたので、もしかして違いましたか?
どんな説があっても、目に見えない、観測もできないことについて書くので、所詮仮説なので、その人がどちらに肩入れしてるかで、説得力も100倍くらい違いますが。

それはともかく、
>脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しない
どうしてこう思われるのかわからないので、補足いただきたいです。
何か結論をはしょられてるので、その推論の過程を言ってもらえれば、ああだこうだ、といえるんですが。

望まれてる話に当てはまるのか自信はないですが、それっぽい話としては、
主観と客観はリンクしてる、と思ってます。
つまり精神活動と、脳の機能器質などの変化は全く対応しています。
単純にリンクしている、というより、結びついて対応している、という視点です。
なので、障害にかかわらず、あらゆる精神活動に対応した、脳の変化があるはずです。
まだ見つかっていませんが、それは時間の問題です。
でも、だからといって、因果関係が在る、とは限りません。
脳の怪我が、精神活動に影響する、とかかれてますが、
脳を怪我したときに、精神活動がおかしくなった、これは事実です。
だから、僕なら、この2つはリンクしている、と思います。
でも、kagakusukiさんは、脳が精神活動に影響を及ぼした、といわれてます。その根拠がわからないんです。
2つは対応していることは、事実起こったことからまず間違いない、と推論できますが、どうして脳と精神活動の因果関係を決められるのでしょうか?
唯脳論、唯物論、唯心論など、どれが因果関係の出発点か?という議論はたくさんありますが、決め手に欠くのは、みな論理的に正しいからだと思ってます。
ここから先は科学のフィールドを出ますが、
kagakusukiさんは、いきなり、2つの観測事実(脳が傷ついた、全く同時に精神活動に異変を生じた)から、いきなり唯脳論的な主張にジャンプしているように思われます。
その小さなジャンプは、どうしてもチャラにすることはできない、と思います。


感じた問題点は、そのあたりですかねー。んーー。
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 まあ可能不可能論でいえば未だ証拠はつかめずというのが現状です。


なので永久に霊が見えない人には完全な証拠というのが掴み難いですね
>ですが、現実に脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しないと考えざるを得ないのです。>

「死後の生は存在しない」と定義するのは無理があります、存在するとか存在しないというのは人間が勝手に決めたことなのでおそらくその辺は個人の願望によって歪められるのだと思います。

>この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。>

全然知らないのですがパラレルワールドを仮定すると両立させることが出来そうです。
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この回答へのお礼

 御回答頂き、有難うございます。

> まあ可能不可能論でいえば未だ証拠はつかめずというのが現状です。
なので永久に霊が見えない人には完全な証拠というのが掴み難いですね

 これは霊が存在する証拠に関して書かれているのでしょうか、私の質問は証拠を求めるものではなく、説または解釈を求めるものなのですが。

>「死後の生は存在しない」と定義するのは無理があります、存在するとか存在しないというのは人間が勝手に決めたことなのでおそらくその辺は個人の願望によって歪められるのだと思います。

 存在しない事を確定する説を求めている訳ではありません。
 「脳髄の損傷が精神活動の機能を損なう事」と「死後の生の存在」の両方を否定しないですむ、説を求めています。
 現実に「脳髄の損傷が精神活動の機能を損なう」現象が存在するにも関わらず、「人間が勝手に決めたこと」で済ますのは思考の放棄だと思います。

>パラレルワールドを仮定すると両立させることが出来そうです。

 パラレルワールドは、量子力学における不確定性が観測時に単一の結果に収束する事に対する説明の1つとして考案された概念で、起き得る結果が複数存在する場合、結果が出る毎に、起き得た結果の数だけそれぞれの結果に収束した宇宙が生じるものとして、この生じた異なる結果を有する宇宙の事を指します。
 宇宙のインフレーション期のような、物理定数が変化する可能性のあった時期を別として、分岐した各々のパラレルワールドにおける物理法則は、通常同じものである筈です。
 あるパラレルワールドでは死後の生が存在し、別のパラレルワールドでは存在しない、等と言う事はないのですが、私の質問とどのように関っているのでしょうか。

お礼日時:2009/05/06 11:43

kigurumiです。



あなたの言う魂とはなんでしょう?
古代エジプトの人は、血の中に魂があると信じていた。
だから殺しても血をぬいて大地に戻せば、殺したものがまたいつかこの世に復活するとしていた。

こう考えることで、人間は他の動物の命を奪い食って自分の身とすることで生きながらえるという宿命から発する罪悪感を軽減していたと思えます。

食べるときに合掌するのも滅=生なり と考えたからではないかと。

カンバリズムを調べると、滅するというより、他者を自分の中に取り込むためにやっていたというフシがある。
例えばユダヤ教ではパンを取って「を食べなさい、これは神の肉である。」、ぶどう酒をとって「飲みなさい。これは神の血である」として、神の神聖を自らの中に取り込むための儀式をしていた。
キリスト教も模倣して、聖餐式で同様のことをしているが、古代のカンバリズムの風習なわけです。


では、人を殺して食えば、死後もその人は自分の中に存在し、その人特有の兆候を見せるのか?
そんな話聞いたことが無い。
が、食うのではなく臓器移植で似たような症例があった。

ある人はベジタリアン。
肝臓だったか忘れましたが、死亡した人の臓器を移植した。
その途端、その人は肉が大好物になった。
そして臓器を提供した人の家族に聞いたところ、その亡くなった人は、大の肉好きだったとわかった。
他にもガラっと好みが変り、その変ったものは、臓器を提供した人の個性だった。
そして、家族は自分の息子は移植された人の中で生きつづけていると確信した。


そう思っていもいいのですが、臓器が食の好みを左右していると推測する方が妥当性があると思えます。


インド方面に梵我一如というものがある。
私はすなわちこの世である みたいな概念。
アテン教もそのような概念だったようです。
死んで梵に戻り存在し続けるってことで、我は梵の一部にすぎないってことを言っているのだと思えます。



古代の人は心臓に魂があると考えた。
何故ならびっくりしたときや悲しみに襲われたとき、心臓が痛くなるから。
心臓は自律神経で動いていますが、脳とは全く関係が無いかというと関係があるし、脳が赤信号と判別しないと、心臓の鼓動も高まらないし、悲しいと感じないと、心臓がきゅーとならない。

すなわち、心 あるいは 魂は心臓にあるのではなく脳ではないか と。

大事な人を失った人は、生きる目的・意義・生きがいなどを失ってしまう。
でも、別世界で生きていると確信できたら、失ってはいないとなり、再起を果たすのではないか と。
そういう意味では死後の世界の存在の提唱も意義があるものだと思います。
人間の脳が作り出したなぐさめ。
慰めを作り出すことで、再起が果たせる。


で、結局 <自分が思っていたら、他人はどうであれ、自分にとってはそれは存在している>というのは真理じゃないでしょうか。

シャルルボネ症候群というものがある。
どういうものかというと、デズニーのキャラクターがリアルに現実にいて、動いているのが見えるというもの。

ある人は、医者の膝に猿が乗っているのが見えた。
医者に聞かれて「実は先生の膝の上に猿が乗っているのが見えます」と答えた。
「どうして猿が幻覚だと思うのですか?」と医者が尋ねると、「幻覚だとは思っていません。リアルとしか見えないから。ですが、膝の上に猿を乗せている医者はいないので、これは幻覚なのだと思うことにしているだけです。」と答えた。

この人は障害があるにも関わらず、常識を使って適合を果たしているわけです。


ラマ・チャンドラン。
脳が私たちに見せる現実という幻を少し紐解いた人です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3% …

共感覚。
二人と同じ共感覚を持つ人はいないとされますが、それは私たちもどんなに感動したとしても、他人に自分の感動をダイレクトに伝えることができないのと一緒で、共感覚の人のみが孤独なわけではない。

ギミー・ヘブンという映画があり、二人として同じ共感覚の人が存在しないとする中で、全く同じ共感覚の持ち主と出合ったと言う内容です。
今までの孤独感を払拭するほどの安らぎだったでしょう。(あくまでも映画の中でですが)

ある意味、私たちは自分の認識と同一の認識をする他人はいないので、共感覚保持者と変らず孤独な存在なわけですね。


で、、、結局、いろいろ思考しても、私の頭はこの程度なので、質問に対する回答らしい回答はできませんでした。


しかし、もうこうなると、死後の生は実在するというのは宗教みたいなもので、信じるしかないと思えてきます。
疑いが微塵でもあったら、存在は希薄になる。
100%確信していたら、それは現実でしかない。

催眠により他人の認識を変えることは可能です。
催眠をかけてワサビを「これは甘い桃です」といえば、催眠下にある人は、術者の言う世界に自分の思考を合わせ、「甘い」とパクパク食べれてしまう。
外部より味覚を含めた認識を故意に変化させることが可能ってわけです。
それは催眠でなくても、言い伝え、伝説、小説、映画などの接触により、すんなりと人の脳にしのびこむ。
例えば降霊とか憑依の文化が日本にあり、その文化を持つ集団に生まれた場合、意識することなく、そういう概念の物語やテレビからの情報を入手しますよね。
よくあるのが、家族が病気がちで、霊能者にみてもらったところ「なんと戦国時代に無念の死を遂げた武士が家にいついていた」とかいう番組。
音楽など織り交ぜてリアリティーを増す構成で、それによって番組に引き込まれ、脳はそういう世界があるんだ と取り込む。
そういう情報を浴びるほどに、死後の世界の話になると、アンテナが高くなり、「あるかもしれない」とそっちの方面に脳が思考しがちになる。
脳があるという認識になると、成仏できずに彷徨う魂が存在していると思えるようになる。
脳がそう認識してしまった以上、その人にとってそれが現実でしかないわけです。

現実普通に暮らせていても、霊の話になると「あるんだよ」と力説する。
普段まっとうな人だが、こっちの話になると、既に解明されたと知らずに、「実際あった話」として語りだす。
親切に「それ もう解明されたよ」と真実の情報が与えられないと、脳は修正をしないので、それがその人にとっての現実で、しかも人は死ぬとわかっていながら、死後も今まで通り食うし、喜怒哀楽もあるが、姿は霊能者しか見えないという認識になるしかない。
その人の脳が得た情報をどう分析したかで、違う世界になる。
あとは個性も情報の分類に際して影響を与えるでしょう。


遺伝子ではダメなら、あとは梵我一如。
梵だった存在が、そのパーツのいくつかで人間というものになり、死ねばまた塵になり梵になり存在しつづける。
個人というものじゃないですが、梵がもともとだったと考えれば、我は不完全なものでしかなく、死んで梵なったことで完全に戻ったってことじゃないかと。

これなら現実とマッチしているので、死後も存在すると認めることができます。
ただ、、、、我は失っていますけどね。吸収されちゃったので。
銀河鉄道999もちらっとしか動画見ませんでしたが、同じようなこと言っているように思えます。
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この回答へのお礼

 三度御回答頂き、有難うございます。

>あなたの言う魂とはなんでしょう?

 ここでの私の質問が問題にしているのは、魂と言うよりも、死後の生です。
 死後の生のあり方には、異なる意見も多いとは思いますが、ここでは死後も自覚出来る自己が存在する事とします。

>で、結局 <自分が思っていたら、他人はどうであれ、自分にとってはそれは存在している>というのは真理じゃないでしょうか。

 この言葉自体は真理だとは思いますが、私の質問は<自分が存在を否定している事に関して、それを肯定している他人はどのように解釈する事によって、存在を肯定しているのか>と言う類のものですから、あまり参考にはならないと思います。

>で、、、結局、いろいろ思考しても、私の頭はこの程度なので、質問に対する回答らしい回答はできませんでした。

>しかし、もうこうなると、死後の生は実在するというのは宗教みたいなもので、信じるしかないと思えてきます。

 信じる・信じないの話ではなく、No.5のお礼欄でも書きましたように、死後の生の存在を信じる方たちは、「脳髄の損傷が精神活動の機能を損なう」という現象と「死後の生」を、どのように両立させているのか、と言う話です。
 kigurumi様はこのことに関して、何か説を御存知なのでしょうか。
 回答が出来ないと書かれているところを見ますと、存知られては居られないように思えますが、だとするとやはり何を言われたいのか良く判りません。

お礼日時:2009/05/06 06:31

bird48です


少し答え方が悪かったことを謝ります。

脳の働きに伴った精神活動の停止が死後の生の停止に連なる
のでは、という事ですね。

植物人間になってしまった人には、果たして精神活動があるのか、ないのか・・

科学的データに基づけば、無いと見なされるのかもしれませんが
当事者の心の中においてはどうなっているのでしょう
ここで問題になってくるのは
脳の働き=精神活動という事でしょう
脳の働きの全てが精神活動の全てであるかないか、という疑念です
脳の働き以外に精神活動は存在しない、のかどうかです

そして
死によって脳の働きが無くなれば精神活動も無くなり
死後の霊魂も存在しない・・・ということに?

ここで
私の乏しい知識で恥ずかしいのですが
仏教の「業」の考えを取り上げてみたいと思います

「業」とは人の行った全ての事をいいます
精神や肉体の活動のすべてです
活動が表面的であるかないにかかわらす゛、すべてを指します
いわば人のすべてでもあるとも言えます
仏教では「引業」といって、この「業」の潜在的な影響力を認めています

人は「業」を持って生まれ
生きながら「業」を造り
死後も「業」によって転生すると説かれています
仏典の十二因縁の教えが正にそうです
霊が見えるとかの現象は、「業」の一時的な現れと解されます

死によって精神活動は無くなっても「業」の影響は無くならないとされています
「業」という考えは、ある意味では空恐ろしい感じさえするものです
人間のすべてを見てしまった、という感じでもあるからです

過去の「業」は確定したものであり不滅でもあります
その影響が、本人の死をも含めた未来において不確定ながらも続くというのが仏教の見方なのです

さて
最初に戻りましょう
植物人間になってしまつた人には、精神活動はないのか?
ですが
仮に精神活動がゼロに近くても
「業」はあると思います
その人の生きている状態のすべてが「業」だと思うからです
人間=「業」ではないでしょうか。

ちなみに
「業」を分けて
身業、語業、意業ともいいます
また表面的な「業」とそうでない「無表業」という分け方もあります
また、拡大解釈した別な見方で
「共業」といって集団や国家の「業」といったものも考えられます
ご参考にしてください。
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この回答へのお礼

 重ねて御回答頂き、有難うございます。

>脳の働きの全てが精神活動の全てであるかないか、という疑念です
脳の働き以外に精神活動は存在しない、のかどうかです

と言うよりも、脳髄の損傷により、精神活動の一部に機能障害が起きる症例があり、その事を突詰めて行きますと、例え脳の働き以外に精神活動が存在したとしても、脳髄なしで人格を形成し得る程の機能を有するとは思えないのです。
 例えば、「腹が減った」(例として挙げただけで、脳が無ければ空腹感は起きません)と言う感情だけが残り、他の精神活動は全て停止した状態で、当人が死後の生を認識出来るでしょうか。
 それから、私は断見の意味を間違っていたのですね。
 業による影響が残る以上、断見は存在し得ないと考えれば、良いのでしょうか。
 であれば、私の「死後の生は存在しない」と言う考えもまた、断見ではないと言うわけですね。
 ですが、御回答の内容を見た限りでは、私は業が存在する事が、死後の生が存在する事に繋がるとは思えません。
 例えば、「新生児として誕生した」と言う業により、「出生記録が残る」と言う影響が残ったとしても、死後の生が存在する事にはなりません。
 それと、輪廻転生を説く仏教において、何故常見まで否定するのかが、判りません。
 それとも、常見とは、生前と同じ場所で、同じ生活をする場合のみを、指すのでしょうか。

お礼日時:2009/05/05 16:50

将来、いずれ医学は物理学で証明出来るだろうと考えている一人です。



kagakusukiさんは、理数系専門の方だそうですが、私は、理数系には全くの素人だということを念頭に置いて、ご解釈お願いします。私の単なる勝手な推測であって、科学的な根拠も裏付けも何にもありません。ただ、そうであればいいな、辻褄が合うなと思う程度の内容です。
(間違っている内容があるかも知れませんので、ご指摘ください。)

まず、こちらに目を通して頂きたいのです。
(NO9の方の意見を先に読んで頂いて、次にNO11を読んでください。NO11が私です。)
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4837574.html

ひとつの根拠は、『通常サイズの世界(形ある物理的世界)では、物質はニュートンの物理学に従って振る舞いますが、ナノスケールの世界では、物質の性質が大きく変化するだけではなく、通常世界では考えられないような出来事が起こり、通常の物理法則が当てはまらなくなると云われています。』とあるように、ここにヒントが隠されているように思います。

心は、脳以外の部分に存在するという一部の専門家もいるようですが、一般に、「人間は脳で物事を考え・行動し、そして、脳に何らかのトラブルが起こったことで精神疾患になってしまうと考える方が自然」という理由で、「心は脳にある」と考える研究者が多勢を占めているようです。事実、現代医学では、「心は脳が作り出したもの」、「心は脳から派生されたもの」と定義されています。

ところが、これだとkagakusukiさんの言われていることに疑問が生じます。

> この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。
脳と心は、全くの別物だと解釈すれば、納得出来ます。

心や霊魂は、我々の住む物理的現象界ではなく、非物理的現象界に存在する素粒子以下の形のない存在だと推測されるのです。そして、心は、脳ではなく胸部に存在し、脳とは全く違った存在だということです。また、脳は、電柱に設置されているトランスの役目を果たし、心は、その「発信源」だということです。つまり、言い方を変えると、この発信源が「自律神経=心」といわれるものではないかと思われるのです。

人間は、物理的構造物です。そうであるならば、それを支えているものも物理的構造物であるはずです。そこに、非物理的現象界の全く違ったものが介入してくるとなると、そこには、トランス的な構造物が必要になってくるのではと思います。私たちが、日常的に使っている電気は、送電所から送電される何千・何万ボルトの高圧線から家庭用の100Vを取り出すためにトランスが必要になります。非物理的現象界での出来事が、脳を経由して物理的現象界の出来事に変換する役目を担っているのではないのでしょうか。

トランスだという説の根拠として、あくまでも推測の域を出ませんが、私たちの身体は60数%が水分で、20%がたんぱく質などのアミノ酸でできています。つまり、脳そのものは、人類誕生の謎といわれるタンパク質(アミノ酸)で構成されているという事実です。このタンパク質に隠された秘密が解明されると面白いでしょうね。
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この回答へのお礼

 御回答頂き、有難うございます。

>ところが、これだとkagakusukiさんの言われていることに疑問が生じます。

 良く判りませんが、どのような疑問が生じるのでしょうか。
 私個人の持論は、「死後の生は存在しない」と言うもので、「死後の生が存在して欲しい」と言うのは、単なる私個人の願望に過ぎません。
 「心は脳が作り出したもの」、「心は脳から派生されたもの」とするならば、全く矛盾は生じないと思うのですが。

>脳と心は、全くの別物だと解釈すれば、納得出来ます。

 脳と心は全くの別物だという解釈では、説明の付かない現象である「脳髄損傷による精神活動の機能障害」が存在するため、この質問を投稿したのですが、納得出来るとする何の理由も書かれていないため、何故その様に書かれるのか全く判りません。
 出来ましたら、もう少し詳しい説明をお願い致します。
 

お礼日時:2009/05/04 20:38

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