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学生のころ無理に背伸びして固そうな小説を面白くもないのに読んだりしていました。
しかし社会人になって、楽しみのために読書をするようになり、日本の作家を中心に小説を読むようになりました。
その結果、山岡荘八や司馬遼太郎、京極夏彦、東野圭吾、村上春樹、宮部みゆき、松本清張 とか有名どころが好きな作家で、最近では好きな作家を探すのが楽しみに小説を読み漁っています。
本棚には日本作家の小説が500冊近くあります。(ライトノベルとかは含まないでです。)

そして最近学生の頃良さを理解できなかったドストエフスキーのカラマーゾフやトルストイの戦争と平和など読みかえしてみたのですが、やっぱり名作といわれ多くの人に絶大の評価をもらう理由がさっぱり分かりませんでした。

読書量が足りないから、固い外国の小説が分からないのかと思っていたのですが、こういうものを理解できないのは何か理由があるのでしょうか。

学生のころ本は読まなかったけど、現代文は苦手ではなく、国語の偏差値55近辺はキープしていたので、読解力は平均並みにあると思います。
(書くのは下手ですが)

A 回答 (7件)

3つ理由があると思います。



まずは、原文でない事。
仮にフランス人あたりが「僕は日本語読めないけれども、枕草子を研究しているんです。訳文を見ると本当に素晴らしい事が書いてあります」と言っても、あなたはその作品の本当の良さを理解していないと言わざるを得ないでしょう。その使用されている言語、母語にこそ素晴らしさが含まれる場合が多々あるので、原文を読む必要があります。

次に外国と日本で精神的に求めるものが違う事。
カラマーゾフでは大審問官でキリストの捉え方が論争されていますが、これはキリストに興味が無ければ、ここに書かれている人物の疑問や苦悩を追体験する事ができず、熱中する事もできないのです。

最後に思想が余りに浸透、一般化しすぎて時代遅れになった可能性です。
「昔からの格言が多すぎてつまらないわ」
とシェイクスピアの劇を鑑賞したとある老婦人がこう言ったそうですが、SFの浸透、拡散に見られるように、あまりに一般化されすぎた表現、考えは目新しさを憶えず退屈なものになってしまうのです。

まとめると、「身近な表現で、ちょっとした奇妙な考えや経験を文章によって追体験してその新鮮味に快感を覚える」というのが小説として面白いのであります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
もう少し、精神年齢が上がったらまた読んでみます。

お礼日時:2009/06/21 19:55

>山岡荘八や司馬遼太郎、京極夏彦、東野圭吾、村上春樹、宮部みゆき、松本清張


日本の作家の小説、というより通俗小説ですね。村上春樹は純文学に分類されることが多いようですが。
通俗小説は一般に大衆文学といわれているように大多数に受け入れられやすい興味ある題材をドラマチックに料理して最後まで読者をひきつけて読ませる傾向があります。質問者様が楽しみに読まれるには適した読み物だということです。
例示されたようないわゆる世界の大文学は一般的には典型的な純文学といわれるジャンルで、第一に異様なほどの長編であり、単に受身の気分で気楽に楽しみたいというような読者には退屈な(理屈っぽい、とかあまり面白くはない人間の嫌な面の長たらしい心理)描写などが続いて、読破しようというような意思がなければなかなか読み終えることはできないかもしれないとは思います。
「戦争と平和」は偉大な通俗文学だと見られることもありますし、カラマーゾフ兄弟をやめられず徹夜で読んで不眠症になったというひともおられるように、読み方や好みはひとそれぞれですが、質問者様の感想はおおむね常識的なのではないでしょうか。
単なるエンターテインメントとして読まれるのならお勧めできない小説は確かにあると思います。
ご参考まで。
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高校の図書館に、戦前の新潮社の世界文学全集がおいてありました。

検閲で伏字になっているところを想像すると、興奮するものでした。
文学は、いつもどこでも、愛と青春のたびだちですね。
よさがわからない小説を読むことは、ありません。
私が初めて読んだ長編は、千一夜物語(岩波文庫全26冊)でした。ヘミングウェイ、作家の名前がでてこない。
不敗の村(グエンゴック?)、セネガルの息子(サンベーヌ・ウスマン)
オストロフスキー、マイナーな作家の、有名でない作品ばかり読んでいた記憶があります。
文学作品には、出会う時期があって、それ以前には、どうしても受け付けない何かがあるようです。
「空飛び猫」の翻訳をしていた、村上春樹さんが、「ファンタジーは、あなたにだけ窓が開く」という意味のことをいっていました。
まさに、雷に打たれたような、あるいは、主人公と自分が同化した錯覚を覚えます。そのような作家と作品にめぐり会えるために、せっせとページをめくるのではないでしょうか?
絵本、児童文学は、読みやすく、夢中になります。ジュールベルヌの作品は、いくつか「はまって」しまいました。
「チボー家の人々」は、何回も挑戦しますが、いまだに途中で投げ出したままです。
だれか、その道の手ほどきをしてくれる人がいると、すんなり巡り会えるのかもしれません。
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「カラマーゾフの兄弟」「戦争と平和」に限って言えば、


登場人物同士の関係が混乱するせいではないでしょうか?
ロシア文学では同じ人物に対していくつもの呼び方がありますし
(太郎なら「たろう」「たー坊」「たっくん」「たーさん」といった具合)、
「戦争と平和」は世界一登場人物の多い小説と言われています。

国ごとの文学の特徴もあります。
あるがままの人間をリアルに描くアメリカ文学、
皮肉やユーモアの効いたイギリス文学、
非現実的な浪漫の伝統を持つドイツ文学、
恋愛や人道主義のフランス文学…もちろん本当はどの国の文学も
もっと多彩で複雑なんですが、一つにはこんな特徴があります。
だから例えば「ドイツ文学が大好き、ロシア文学は性に合わない」
ということも起こります。

ユーモアセンスの違いはそれほど問題にならないと思います。
私事ですが、私自身アメリカ文学の「白鯨」や
イギリス文学の「トリストラム・シャンディ」を読んで笑い転げますから。
問題はむしろ背景知識だと思います。
その作品が書かれた国・書かれた時代の出来事、また特に西洋文学は
聖書・キリスト教に裏付けられた記述が非常に多いので
それを知らないと面白さが分からないことはあると思います。

ご質問を読んだ印象では、質問者様はミステリーがお好きなようなので
海外のミステリーからあたってみられてはどうでしょうか?
早川文庫や創元推理文庫、新潮文庫などは海外ミステリーが
山ほど収録されています。
ミステリーにしろ、いわゆる純文学にしろ、
レビューサイトやレビュー本は本漁りに大いに役に立ちます。

ちなみに私は現代文学は日本の作家を、
古典文学は海外の作家を好む傾向があります。
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 日本人として日本に生まれ、日本の文化に触れている私たちが、それこそTVや旅行でしかしらない外国のものが面白くない(理解できない)のも当たり前だと思います。

日本のものですらまったく分からないことばかりです。
 そして原文が読めない限り、誰かの日本語訳で読むしかありません。
微妙なニュアンスはその訳者の能力に任せているわけですね。

 外国映画もまったく同じことを感じます。
分かった振りして全然私たちは分かっていないのかもしれません。

 しかし、その分かった振りの範疇内で「面白い」「面白くない」と判断するのも個人の感性でしょうね。
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もしかすると好き嫌いかもしれませんよ。


西洋の小説には政治・哲学的な内容も多いので、
好き嫌いの好みが分かれる傾向が強いのではないでしょうか?

私も学生時代は教科書以外で西洋の作品を読みたいとは思いませんでしたが、
30才を過ぎてから哲学に興味を持ち始め、
小説としてではなく哲学書として
シェークスピアや仏典、中国の四書、ギリシャ神話などを読みましたから。

もう一つの理由は、ユーモアセンスの違いが原因かもしれませんね。
日本人が面白いと感じる要素と、西洋人が面白いと思う要素の違いが、
志向の差に繋がっていると思います。
アメリカンジョークの翻訳本を読んでも、どこが面白いの??
と思う内容も多いし。
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背景となる生成段階が違うから。


という説明を受けたときがある。
日本の小説は基本的には「私小説」で、明確な主人公を軸に話が進みます。それに対して、欧米の小説は「大河ドラマ」で、複数の主人公が絡み合いながら、あるときは全く関係なく話が進みます。
これは、源氏物語からの日本の伝統と言えます。

欧米の小説に近いのは、中国の水滸伝や日本で言えば平家物語。欧米の小説がサロン文化を通じて多人数の前で連続して朗読することを経由して発展したためだそうです。水滸伝や平家物語もこの多人数の前で朗読ということでは同じ構造を持っています。
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