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自分のためでなく、他人のためにする行動とはどういうものがあるでしょうか。
ぱっと思いつくのは、

おなかを空かしたひとのためにわざわざ食事を作ってあげる。

だけどこれもよくよく考えると「そのひとのために食事を作ってあげたい」という自分の願いに従った結果、と考えれば自分のためでもあると言えると思います。

自分のためでなく、他人のためにする行動とは、存在するのでしょうか。

A 回答 (18件中11~18件)

”他人のためにする行動”の際付随する


”自分のためでもある”を無理に斬り捨てる必要がないのではないでしょうか?

人が大切だから
君を好きだから
ほっとけないから

そうした気持ちから行動するのであれば他人のためにする行動は、顕在化されるものだと思っています。

ですが、これでは質問の回答になってない訳ですよね。
条件付けや本能行動に基づく中で、質問の回答になっている行動があるかもしれませんが。。。

電車ホームに転落した人を助ける
子どもを叱る
等は質問の回答に少し近い例と言えると思うのですが如何でしょう。

この回答への補足

別に切り捨てたいと思っているわけではないのです。
ただ、「自分のためでなく、他人のために行動する」ということが認知されている以上、本当にそういったことはあるのかどうかが気になっただけなのです。

> 電車ホームに転落した人を助ける
「助けたい」という自分の欲求を満たすため、というものも含むため、自分のためでなく、他人のために行動した、とはいえないと思います。

> 子どもを叱る
これも同じく、「いい子に育ってほしい」という願望がを満たすためともいえるため同様かと思います。(本能ともいえますが、本能も欲求のひとつだと思いますので)

追加質問で申し訳ないのですが、
「他人のためを想って行動する」と、
「他人のためになる行動をする」とは別の言葉だと思われますか。

 また、「他人のために行動する」と、両方とも言い換えることはできると思いますか。

補足日時:2009/08/12 23:45
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>無論、今回知りたいのは食事を作ることによってそのひとが満足する場合に限ってです。

(それが自分の思い込みかどうかは知りようがないのでとりあえず除外させてください)

 それは他人の為にする行動という側面に立ってみれば、純粋な他者の為の行動、つまり愛だと思います。
 しかし、自分というものを洞察した時の立場として、質問者様の意図としては、以下のような事でしょう。
「純粋な愛としても、その純粋な愛を発揮したいという願望はすなわち自己満足ではないか。ならば、真の愛であろうと何であろうと、すべて自分のための範囲内での他人の為の行動に過ぎないではないか。ならば、自分の為でない他人の為の行動は存在しないのではないか?」

 行動と、他者の満足や状況の改善のみを見た側面からは、純粋な愛の行動は存在します。ですが、自分自身の究極的なところまで含めたら確かに、純粋な愛でさえ、それを発揮したいという願望の元に発現している。

 愛は、元々神を源泉として発現してくるパワーですが、世界に存在する魂は全て神の分霊であり、神から流出する愛は利他性でありながら、究極的には利己性と言われます。なぜなら神の愛は魂全てに向けられる利他的なものでありながら、全ての魂が神の分霊である限りは、自分自身を愛することになるからです。
 こういったマクロな神の性質が、ミクロの人間の性質とも重なっているように感じられます。その行為が真の利他的動機ならば、それは神の性質を帯びるからです。
 純粋な愛でさえ、注意深く見れば利己的な願望であるというのも、どこかしら神の利他的エネルギーの発揮という利己性、との関わりを感じさせられる気づきですね。
 
 そういうわけで、そこまで考えると、自分の為でない他人の為という事は存在しないかも知れません。

 ただ、そこまで考える必要が何故あるのか。その他者の状況が改善されることが第一目標ではないのか。人はみな手を取り合って向上してゆくこと、これが神の意志であり魂の衝動です。全てが自分の為だからといって、うしろめたいことではない。全てが自分の為だからといって、それで安直に善を施さないニヒルな精神に陥ってはならない。

 究極的に自分の為じゃない行為はあるかという区別はどうして必要なのか、そこが逆に知りたいです。

この回答への補足

単純に、突き詰めて考えると、「自分のためではなく、他人のために行動する」ということはありえないのに、なぜここまでその言葉が認知されるのか、ということが知りたかっただけなのです。
ここまで認知されている以上、みなさんが突き詰めて考えていないわけではないと思いましたので。
私が言葉の解釈を誤っているだけなのか、それとも……

補足日時:2009/08/12 23:42
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一般的には“無い”けれど、


存在しないわけではないと思いますよ。
自分のためでなく、他人のためにする行動をとればいいわけです、意識的に。
難しいことではないと思いますよ。
自分にとって嫌でメリットがない行動をとればいいだけですから。

例えばやくざに喧嘩を売ります。
やくざは喜んで買うでしょう。
あなたは慰謝料および治療費として多額のお金を長期間要求されるでしょう。
やくざは喜びあなたはへこむでしょう。

この回答への補足

その私がやくざに喧嘩を売る理由についての話ですので、そのたとえはナンセンスかと……

結構「ない」と思われる方が多いことも驚きです。
巷では「自分のためでなく、他人のために行動した」という言葉、お話やせりふを聴くので。
ただ単に「他人のためになる行動をした」と「他人のためを想って行動した」というふたつの意味を内包しているというだけのことなのでしょうか。

補足日時:2009/08/12 23:35
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#3です。



よくよく考えるとあるのかもしれない。
ただ、それは無意識において、だと思う。

貴方の性質として(性格とかじゃなくて、”性質”。どうしてもそうしてしまうというある意味”反射”)、お腹を空かせている人を見ると”反射で”手が動いてしまう。(例えば、いくら「動くな」と言い聞かせても動く)というのであれば、それは真に”他人の為だけに”する行為と言えそう。それを貴方は知覚する事は出来ない。

でも、それって他人の評価ありきだよね。「自分の為になった」と評価する他人がいなくちゃいけない。となると、対人間限定になっちゃうわけですけど。(まあ、他”人”と言うからには、対人間か。)それはどうでも良いか。

そういう場合ならあるのかもしれないね、と思う。


思えば、先に挙げた”頭が悪い”というのも”反射”にあたるのかもしれない。
意識しないで”反射”で動いてるからそうなって”しまう”。反射だから善いも悪いもない。
だから覚者にはあり得ないことだと思うんだよね。

この回答への補足

無意識もそのひとの意識のうちだと思うので、どうにもすっきりしないです。すみません。

こうなると言葉の定義の問題になると思うのですが、そこに本人の意思は介在しないといけないのでしょうか。
例えばある科学者が研究が好きでただ研究をしたいがために没頭して、結果としてできあがったものが難病を治すものだったとして、その行動は「他人のための行動」と言えるものだと思いますか。

なんだか、「他人のための行動」と「他人のために行動する」とは違う意味のような気がしてきました。
なかなか話をまとめることができなくてすみません。

補足日時:2009/08/12 22:10
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情けは人のためならず です。



人のためにすることは、自分のためでもある。

同じような意味で、仏教に「利他行」と言う言葉もあります。

この回答への補足

やはりそうなってしまうのでしょうか。
でも、であるなら、どうして「自分のためでなく他人のためにした行動」という言葉がここまで認知されるのかが不思議なのです。

補足日時:2009/08/12 22:05
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どうなのかな?



全部一緒くたにして考えるなら、きっと全部の事は”自分の為”に集約されるような気がするんだよね。
特に、しっかり自分の行動を自覚する人に関しては全てそうだと思う。

そういう”(自分の為じゃなく)他人の為に”ってのは、結局頭の悪い(というかなんというか。エゴを自覚出来ない人?物事を根っこまで考えない人?)人しか使わないと思うんだ。他人を尊重出来ないからこそ使う言葉、って感じがするんだよね。(嫌々やってる、とかそういう時しか適用されないと思う。)


ただ、自分のエゴはエゴで、それとは切り離して考えるのならば・・・。
結構多くの事が該当すると思うんだよね。貴方が挙げた事だってそう。自分の為でもあるけど、他人の為でもあるでしょ?(他人に影響を与えて自分の充足を得たいという願望)

エゴも何もなく、って言うのなら、その人は合理的じゃないし頭が悪いんだと思う。
貴方の挙げた例で、もし自分の願望に基づくものでないのなら、それはもちろん自分の為にはならないし、相手にとっても結局100%の満足は得られない。(そこに卑屈なものが介在してしまう。恵んでもらったとかそういうの。救いがない。)それだったら、心の底から望んでやってくれる人にやってもらうのがベターだしベスト。ベター、ベストを望まないのなら、それはあまりにも非合理的だと思う。
それだったらやらない方がマシ、ってものでしょ。


限定的に存在すると思う。
覚者には存在しないものだと思うけどね。

この回答への補足

 > 貴方が挙げた事だってそう。自分の為でもあるけど、他人の為でもあるでしょ?

おっしゃるとおりだと思います。
両者のためになる行動というのは多々あると思います。
知りたいのは、自分のためでなく、他人のためにする行動があるのかどうかということなのです。
言い換えれば、他人のためだけにする行動というのはあるのか、ということになるでしょうか。

補足日時:2009/08/12 20:55
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 存在すると思います。


 質問文の例は、これは一方的な尺度の押し付けです。これは真の他人のための行動(以後、愛)ではありません。例えばその人は、何かの事情があって、断食しているのかも知れない。もし仮に好んで断食している訳じゃないとしても、他人の施しを受けるくらいなら、死んだ方がましだと考えているかも知れない。そういった、もろもろの本人の事情を顧みず、一方的な尺度で親切を押し売りするのは自己満足であり、利己心です。

 本当の愛とは、感情に流されず冷静に本人の状態を分析し、その上で本人にとって最も良い処置を、謙虚に慎重に検討する心の態度そのものだと思います。その結果、食事を作ってあげることになるのなら良し。本人と話し合って、食事を作ってあげることになるのなら良し。本人の意思に反した場合でも、本人の全ての事情が分かった上で、慎重に謙虚に冷静に判断された行動なら良し、と思います。

 こういった、本当の愛念がその行為の中に含まれているか、ただの感情のはけ口や尺度の押し付けという自己満足(利己心)に陥っていないか、これが偽善と真善の違いだと思います。

この回答への補足

無論、今回知りたいのは食事を作ることによってそのひとが満足する場合に限ってです。(それが自分の思い込みかどうかは知りようがないのでとりあえず除外させてください)

その行為が善いか悪いかを知りたいわけではないのです。わざわざご回答いただいたのに申し訳ございません……

補足日時:2009/08/12 20:51
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自発的にそうしたいと心が動かなければ、他人のための行動は取れないと思いますよ。


それが人間の「愛」です。
無償の愛も何も見返りを求めない物ですから、存在すると思います。

この回答への補足

「そうしたい」と自分が思うままに行動しているわけで、もちろん他人のためにもなっていますが、自分のためにも行動しているように思えてしまいます。

見返りというものは他人から施される行動によって得られる利益のことだと思いますので、今回の問題とは無関係なような気がします。
自分の願いがあって、それが自らの行動によって叶えられるのだとしたら、その行動は自分のためでもあったと言えないでしょうか。

補足日時:2009/08/12 20:38
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