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最近よく死刑存廃に関する議論をよくテレビなどで耳にするんですが、そもそもその議論はなぜ、されるようになったのでしょうか?

そのときの時代背景などを教えてほしいです。

A 回答 (10件)

偽善者が目立つようになって死刑に反対する奴らが目立つようになったから。

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 海外からの圧力ですね。


海外では死刑廃止国家が多いんです。そこのNPO法人などが日本に死刑廃止を求めているんです。
 
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世界的に死刑制度の国が少なく、外国人が国内で殺人の犯罪をおこして、死刑制度のない自国に逃げ帰ったら、死刑のある国とない国とでは、犯罪者の受け渡しなどの協定が結べないためその国に犯罪者の受け渡し要請ができないためだったような。

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下の冤罪と死刑執行が議論のキッカケではないでしょうか?



足利事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …

再鑑定により、犯人とされて服役していたS氏のDNAと、遺留物のDNAが一致しない事が判明し、釈放された。

飯塚事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%A1%9A% …

自白は得られなかったが導入されたばかりのDNA鑑定によって有罪判決が確定し、死刑が執行された初めての事例である。事件の概要から飯塚女児二人誘拐殺害事件とも呼ばれる。

2009年6月に1990年に発生した足利事件の無期懲役囚が最新のDNA鑑定によって、再審で無罪が確定していないが検察が事実上の無罪を認めたことにより釈放された。
そのため、元死刑囚の弁護団が同じ方法で誤判を招いたことを「証拠」に再審を請求するという。

弁護団によれば、飯塚事件は足利事件とほぼ同時期に、同じ検査法を用いて、DNA型鑑定が実施された。

────────────────────

エヴァンス事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4% …

イギリスの死刑制度廃止の発端となった冤罪事件です。
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>そもそもその議論はなぜ、されるようになったのでしょうか?



アジアの歴史・文化では、「死には、死で報いる」事が普通の常識でした。
ところが、近代になり「世界の常識は、ヨーロッパ・北米の文化が基本」とする風潮が強くなります。
政治の世界でも、EU・米国は「自国の基準・価値観」を絶対と考えて他国に干渉する様になります。
戦後、敗戦国である日本は「旧来の文化・思想は野蛮」との考えが優位に立ちます。
政治・経済だけでなく、環境問題もEU・アメリカの考え方が世界標準となっています。
アジアの常識は、世界の非常識。EU・アメリカの常識は、世界標準なのです。


日本は、何もかもが外圧で決まります。
最近では、高速道路のバイク2人乗り解禁。これは、ハーレー社の命令を受けたアメリカ商務省が小泉に命令して実現しました。
郵便局の民営化。これもアメリカ政府の命令を小泉が忠実に実現しました。

死刑制度廃止も、同様に外圧です。
日本では「加害者の人権は、被害者の人権の数倍重い」という、法曹界の常識があります。
裁判所も、「検察側が求刑した刑の80%が判決である」というシナリオ作家の台本・脚本通りに弁護士・検察官・裁判官は演じています。
例えば、求刑が20年の懲役ならば、判決は16年の懲役です。

死刑求刑についても同様で、既に裁判所での判決は決まっています。
「1人しか殺していないのだから、懲役最高20年で、模範囚として10年前後に仮釈放」
「たった2人しか殺していないので、死刑対象ではない」
この原則は、裁判員制度が始まっても変わりません。高裁・最高裁では裁判員制度はありません。
この「二人以上殺した」を「100人以上殺した」と変更する事。つまり死刑を死文化する事が死刑反対論者の目的です。
そうすると、刑務所が不足します。そうると、刑務所の民営化が論議され解禁となるでしよう。
アメリカでは、既に民営刑務所が存在していますから、経営者は「日本への進出機会」を待っています。

反捕鯨活動と同様に、死刑廃止運動は「多くの資金を集める事が出来る」非常においしい商売です。
死刑は抑止力にはなりませんが、刑は「現状復帰が原則」です。
物を壊せば修理する。カネを盗めば返金する。人を殺せば、・・・。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>アメリカでは、既に民営刑務所が存在していますから、経営者は「日本への進出機会」を待っています。
反捕鯨活動と同様に、死刑廃止運動は「多くの資金を集める事が出来る」非常においしい商売です。

この二つの事は自分が想像していた理由とは違い、とても参考になりました。

僕が考えていた議論の始まりの理由は果たして死刑制度に犯罪抑止力があるか?という点にあると思っていたのですが、この点についてはなにか関係があるのでしょうか?

補足日時:2009/08/14 20:41
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今話題の政権交代。

これに纏わっているのかもしれない。

勿論国外(特には欧米)の人権派から日本の死刑執行に対する抗議が有ったりもしてますが、それに応じてか独自でか民主党が「死刑廃止」の論調を持っている。
マニフェストだか政権構想(INDEX)だかにも「死刑廃止論」が述べられていたかもしれない。

最近目立つんですよね、ココで民主党の予定政策の是非を問うかのような一種の世論調査めいた質問が。
死刑廃止問題も幾たびも質問されてる。

民主党の政策は、よく言えば「理念的」、悪く言えば「妄想的」なので、国民・世論の動向を見極めて実施に移すかどうかを決定しなければならない。なのでアチコチでその類の世論調査めいた物が出てくる。
全部がそうではないが、かなりの部分でそれは民主党筋から出ているのではないのかなあ…という感触を持ってる。


その他にも通称名「人権派」ぶることは格好良い事だと馬鹿には錯覚されやすいので、馬鹿TVでは芸能感覚で話題にしている。ナウいトレンド感覚なんでしょね、馬鹿TV。


海外の人権派はそれら海外国世論の大勢とは必ずしも言えず、それらの国々の一部分の思想理念と理解すべきであり、日本がそれら国外人権派の要望に全面的に従う言われはない。
人権派は時として「捕鯨反対派」・「原発反対派」にもダブルが、それらは必ずしも理性的でもなく時として暴力的であり扇動的である。
そのような一種妄想理念的な人権思想にまで要求に従っていたら、守るべき対象の人権さえ守れなくなる。
死刑廃止にしたために発生する被害者・その関係者の人権被害。日本社会の被る全体的な人権被害を考えて見なければならないと思う。
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死刑の存廃は啓蒙主義・自由主義の議論の中のひとつとして出発しています。

そして今の世界は自由主義の法治国家がスタンダードになっています。もちろん日本もそのひとつですが、例外を上げると共産主義国家の中国や北朝鮮、イスラム国家(法律もイスラム法を使うということ)のイランなどです。
またこのような国を近代国家ともいいます。

どのような国でも近代国家の前は封建的な国でした。法律は支配者が作るもので、人の命も支配者階級が決めるといっていい状態でした。もちろん死刑もありましたし、特に支配者に反対する者は「反体制」ということで、殺してしまうこともありました。江戸時代までの日本でも、「無礼討ち」「切り捨て御免」と武士階級にたて突く(無礼を働く)だけで、町人や農民を切り殺すことができました。

啓蒙思想とは、「同じ人間なのに上下があるのはおかしい」「人間は誰でも生存して、自由に意見をいう権利がある」「国家は人々が集まった社会の総体なのだから、国家が国家に都合が悪いことを表明しても、その個人を抹殺することはあってはならない」としました。
これが人々の権利意識を呼び覚まし、フランス革命やアメリカ独立戦争につながっていきます。自由の女神の「自由」とは啓蒙思想の自由であり、フランス人権宣言でいう「私権は制限されない」やアメリカ独立宣言の「全ての人間は平等に造られている」はこれらを具体的に規定して法律に取り込んだ最初の例であり、日本国憲法の前文と第11条にも書き込まれています。

現在では、上記の「個人の権利(主権)」を明確に規定して国のしくみを整えている国家を法治国家・民主主義国家と呼びます。

いろいろ難しいことを並べましたが、ここで「死刑」が問題になります。つまり「法治国家は、個人を殺す権利をもつのか?」ということです。法律学的にもいろいろな論争があり、「応報的処罰」で可能とするものと、国家は「個人の生存権」を認めているのだから、処罰もその限界内(つまり生存権は守るということ)にすべきだという考え方があり、いまだに回答が出ていません。

次に「生存権」の中身からも死刑存廃の議論があります。
たとえば「生存権」が国民全員に平等に認められているため、生活できない人には生活保護などの社会福祉があります。犯罪に走ってしまう原因も、貧困など「生存権」を脅かされて起こることも多々あります。少なく見積もっても犯罪を起こすときは「幸せ」ではないといえます。
これをどこまで自己責任とするかという議論は、そのまま犯罪に対して「どのくらいの罰を与えるか」ということに連動します。
もし、犯罪を100%個人の責任にする「不幸だろうが生活できなかろうが関係ない」として厳罰に処するとしたら、生活できないこと自体が100%自己責任なのですから、生活保護などあり得ず、空腹のまま犯罪を犯さずに餓死してください、ということになります。
つまり法治国家で「不幸」を100%個人の責任にしないのだから、犯罪も100%個人の責任としてはならない、ということであり、その上で「死刑」で生存権を剥奪することなどあってはならないということです。

最後に、体罰の問題もあります。
生存権を保護しようとすると、体罰は禁じられていくのが当然の流れです。イスラム法では、現在でもスピード違反=ムチ打ち刑、窃盗=手首切り落とし、という刑が執行されています。
生存権を保証するという考えに立てば、手首を切り落とされたらその後に生活に影響が出るのはすぐに分かることですので、法治国家としての刑罰としてはありえないということになります。
このようなことがあるので、法治国家における刑罰は「私権の行使の停止」に限られ、刑務所に収監したり、罰金刑を科したりするのです(罰金を払うと、払った分、自由に財産を使うことが出来なくなるので、財産収奪による私権行使停止ということになるのです)
ところが死刑だけは、体罰であり、それも究極の体罰です。法治国家における刑罰は「私権の停止」に限るのだから、終身刑で死ぬまで刑務所に入れておけば、死刑と効果は同じである、というのも議論になっているところです。

他の方の回答で、キリスト教国家だから死刑廃止というのは、半分正解ですが、半分間違いです。
最初のほうに書いた「支配者に都合の悪いこと」「自由に意見を言う」という部分、啓蒙思想の始まりは「思想の自由」から始まりました。これはヨーロッパでは、キリスト教のどの宗派を信じるか、ということから始まっています。支配者はカソリックを押し付けようとして、それに疑問を持つ人がプロテスタントを作り反抗したために、支配者(国家)が押さえつけようとしたことから啓蒙思想が生まれ発展したのです。アメリカ建国のピューリタンもプロテスタントの一派ですから、独立宣言に啓蒙思想が入っているのは当たり前のことなのです。
しかし近代国家が出来るにしたがって、さまざまな個人の権利を取り込むことになり、議論が成熟して「個人の権利」というものの中身が整理され、めざす方向性が定まっているといえます。
だからこそ議論が成熟したキリスト教国家に死刑廃止国家が多くなるわけです。
単純に宗教的にダメだから死刑廃止ではないのです。

議論のはじまりとしては、刑罰にどのくらいの効力があるのかはまったく関係がありません。
近代国家は、国家として「個人の権利」を守るのが主体だから、国家による殺人を許容するのか?、という点が議論の始まりです。

もちろんそれまでに、為政者や権力者による反対者、邪魔者の抹殺、それも合法的に見せかけた死刑や体罰による口封じ(手首を切り落として書物をかけなくする、下を抜いて演説できなくするなど)、国からの追放など、人間の尊厳を守ろうとした人々の戦いと為政者の合法の名を語った横暴の歴史があったことを忘れてはなりません。

このような人類の経験から、
死刑の廃止という理念だけでなく、
・「疑わしきは被告の利益に」(100人の犯罪者を野放しにしても、手続きに疑いがあれば1人の冤罪者を出さない、という考え方)
・「証拠主義」(自白だけで刑罰を決めるのでなく、必ず証拠を必要とする考え方、取調べ時に体罰を加えれば自白してしまうことが十分考えれられるから)
・「令状主義」(捜査権を持つ警察、検察などは、別の機関である裁判所の審査を得た令状が無ければ、私人を逮捕したり私人のプライバシーを探ったり出来ないこと。同時に盗聴なども禁止される)
が当たり前とされるようになりました。どれも権力を持つ者が暴走して、国民の権利を侵さないようにするために、先人が戦いとったものです。
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4by4-ko さんのご回答が判り易いようです。


つまり、相変わらず現在でも免罪事件が発生しているとと思われる状況があります。
死刑制度は抑止力に付いては疑問があるからです。
これは、裁判でいざ死刑判決がなされるか又は死刑が執行される状況が目前にならないと死刑囚にとってはなんらの犯罪の抑止力にならない、らしいからとされています。
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1つの要因は裁判員制度の開始にあると思います。



個人的意見として、司法が突きつけたもので他人に任せっぱなしでなく自分でやってみろということでしょう。
きれいな言葉で言うと民主主義は国民一人一人が責任を持つことで成り立っています。つまり裁判の結果の責任も細いですが間接的に国民に責任があるのです。
そこで国民が遠い間接的形式ではなく直接関わることで責任を実感してもらうようにしたのだ思います。

今まで裁判所とか任せたままで野次馬的評論しかしていなかったのが現実にひとの人生にかかわると被害者のこと加害者のことを真剣に考えるようになります。

そこに他の方の回答にある冤罪事件が現実に起きます。

副次的的ですが裁判員制度も刑罰を考える要因ではと思います。
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裁判員制度の導入、冤罪の重なる発覚と検察への信頼の喪失


そういった社会背景があるかと
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