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ドラマなどでよく『罪を償って帰ってきてください』みたいな
セリフを聞きますが、刑務所に入ることが罪を償うことなのか疑問です。

だって刑務所に入っても被害者は何にも得をしません。
仮に子供を殺されたとして、子供が帰ってくるわけでもなく
民事の賠償金を取れるわけでもありません。

衣食住は保障され、やることといったら日々の作業くらい。
それも決してつらいものではありません。規則正しい生活をするだけ。
最近は囚人に配慮した豪華な刑務所まで出てくる始末です。
それで数年経ったら『もう罪は償った』といえるのでしょうか?
そんなことに時間をかけるなら、カンボジアで地雷処理をさせるとか
死刑囚からは臓器を摘出してドナーに回すとか、
私が被害者や遺族ならそっちの方がよっぽどうれしいです。

罪を償うとはどういうことなんでしょうか?

A 回答 (5件)

私もよく考えるのですが、とても哲学的な問いで、難しい問題ですよね。


私は、「罪を償う」とは、刑期の長さや、刑の重さよりもまず、加害者が心から反省し、謝罪することだと思います。そして、自ら世の中に役立つ仕事をしたい、と思い、実践することではないでしょうか。

オーストラリアでは、犯罪者は、何らかの理由で生きがいをなくし、自暴自棄になって、犯罪を犯してしまった人に、森林火災を消火する消防士をさせて更生させるそうです。消防士になった人は、「人を助けるということは、こんなにすばらしい気持ちになれるのか」と、心から改心するそうです。そして、一生人を助ける仕事をしたい、と思うそうです。
まあ、こういった更生ができるのは犯罪者の中の一部でしょうが、ここまで行けば、ある程度罪を償ったと言えるのではないでしょうか。

問題なのは、そういう気持ちになれず、嫌々刑期を終えて出てきた人でしょう。「また、あそこに戻るのは嫌だから」という理由で、犯罪を犯すのを思いとどまる人も、真の意味で、償ったとは思いません。

質問者さんが言うように、カンボジアで地雷処理をするとか、死刑囚からは臓器を摘出してドナーに回すとか、強制でさせるのではなく、そういったことを犯罪者が自らしたい、と思わなければ、償いとは言えないと思います。

こちらが被害者で、たとえば家族を殺された、とすると、私も極刑を望むと思います。が、死刑が執行されたあと、言いようの無いやりきれなさが残ると思います。特に、反省や謝罪の言葉もなく死刑になってしまった場合、一生悔しくてたまらない、負けたような気持ちですごさなくてはいけないような気がして、たぶん、やりきれなくなります。怒りのやり場がなくなってしまい、自分も壊れてしまうかも知れません。

相手を憎む遺族感情は、絶対に無くならないとは思うけれど、死刑になるにしても、なぜそんな犯罪を起こしてしまったのか釈明し、心から改心してくれたほうが、救われる気がします。

日本の刑務所で、そのような更生ができるかどうか、わかりませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
『本当に反省するかどうか』これが重要なのですが
心の中のことなので本人以外にはわかりません。
証明もできません。

でしたらせめて社会に貢献してほしいと思いました。

お礼日時:2007/06/23 05:43

罪を償うという点を個人に限定してしまうと本質が見えなくなってしまいます。



現代社会は因果関係が複雑にからんでおり、個人の責に帰するほど簡単ではないのです。
たとえば、個人ではなく組織が人を殺したらどうですか?故意ではないものの、某自動車会社の設計ミスによる死者とか、某エレベータ事故など、個人の責任では言い切れないものもあり、このような場合は、そもそも刑に服すことなどできませんし、罪を償うといっても金銭的なものしかありません。

また、法律というのは平等・公平が原則です。もし個人的な犯罪を個人の肉体で払うような刑罰にするならば、それ以外の問題解決も個人の肉体で払うことが原則になります。
たとえば、金銭的な負債を、金銭的に払えない場合は、肉体で払うことになります。臓器を取り出してお金を工面してから、それでも足りない分が自己破産分で免責ということになります。

人類は歴史的な経験から、個人の肉体で、刑罰やそれ以外の責任を果たすということがとてもデメリットが大きくなるのだと学んできたのです。
そのため、現在の法律ではほとんどの国で肉体で払う刑罰を最小限にしています。死刑を廃止し事実上、刑務所などによる拘束と市民権の剥奪以外の肉体的な罰をやめてしまっている国もたくさんあります。死刑廃止論者が、死刑を野蛮であると主張するのは、このような歴史的な積み重ねの上にたってのことです。

確かに被害者感情を考えれば、納得のいかないことも多く、過去には被害者を裁判官にして、刑罰を決めていた国、時代がありました。
しかしこれも現代では、デメリットが大きすぎるとして、ほとんどの国が採用していません。

結局、社会の公正、秩序という点に力点をおくと、どうしても肉体で払う刑罰は重すぎるということになってしまうのです。
また、社会秩序という点からみれば、むしろ刑罰を科すより更生に重点を置いたほうが効果があります。
日本では江戸時代には人足寄せ場などの政策もあり、これが江戸の治安に果たした役割は大きいといわれていますし、現代でも初犯は執行猶予をつけて収監せず、保護司をつけて更生を図ります。
これが日本の犯罪率を押し下げていることに、もう少し注目されてもいいのではないでしょうか。

罪を償うこと。それは自分の犯したこと、やったことを本当に理解することだと思います。
それが出来て初めて、#4さんのいう、被害者への償いが出来るのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
そういった意味では刑の厳罰化、被害者の裁判参加など
日本は逆行しているのかもしれませんね。

>臓器を取り出してお金を工面してから、それでも足りない分が
>自己破産分で免責ということになります。
民事と刑事は別なので、公平じゃなくても問題ないと思うのですが。

私は法学史には詳しくないので、なぜ肉体で払う刑罰のデメリットが
大きいのかは知りません。でも最近は再犯率も高いですし、
更生を目的したシステムが現代に合わなくなってきたのではないかと
思います。

お礼日時:2007/06/23 05:58

罪を償うことは二つあると思います。


一つは社会に対して償う。
 これは刑法なんかで罰を受け懲役や罰金なんかで償うことです。
 なので罰金は被害者には支払われず、国に収めると思います。
 懲役なんかは、その期間で罪を悔い改めて同じ過ちを犯さないように改心して社会に復帰させてもらうと言う事だと思います。
 この社会に償うことが全ての罪に償ったと勘違いをしている方が大勢いるのではないでしょうか。
もう一つは被害者に対して償うことです。
 これは社会に償った後に金銭的や心情的に償わなければならないと思います。
 これは難しいですね。刑法で罰せられたのと違いきっちりとした数字がでないので、被害者の心情に委ねられます。いくら多額の金額を支払ったとしても「たくさんのお金を払ってやったんだからこれでいいだろう」なんて言えば被害者は絶対に許さないと思いますし、また支払った金額が少なくとも、その人が出来る範囲で精一杯のことをして心から謝罪をすれば被害者も罪を償ったと理解してくれると思います。
二番目の罪の償いの方が重要だと思いますが、一番目は強制的に執行されます。二番目の方でしっかりと罪を償わないので被害者は刑法の罰を重くするよう訴えるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
確かにそれは思います。民事賠償して罪が軽くなることはあっても
賠償しないで罪が重くなることはあまりないと聞きます。普通逆だろと。

ただ一度に払えない場合もありますから、分割にするとか、
そこらへんは協議でもして決めることになるんですかね。

お礼日時:2007/06/23 05:47

#1の方のおっしゃるように「自由の束縛」はかなりキツイです!



現在は行刑も変わり、かなり自由に外部との交通もできるようになったようですが…

自分の経験では皆と工場にいるうちは苦になりませんが、一人、舎房に帰ってなにげに寂寥感に襲われることがしばしばありました。

残された家族を思い、涙で枕を濡らす…

なんてのもあるのじゃないでしょうか?

自分の場合は被害者もいないような微罪(俗に言う小便刑)で1年4ヶ月の服役でしたが、重大事件では刑期も長くなり、被害者感情を逡巡してそれなりに反省し、罪を償うという効果は期待はできるでしょう。

3食保障とはいっても「最低限」のもので、衣服はボロボロ、住居は夏は暖房、冬は冷房で冬の免業日は苦痛でした。

普段の生活からは比較のしようがないほどレベルダウンした毎日は「ある程度」の更生は期待できるでしょう…

刑務所にもよりけりですけど♪
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
確かに私は経験したことがないので実際はどうかはわかりません。
しかし外国人犯罪者が『日本の刑務所は天国』といってるのを
聞くと疑わしくなります。もしかしたら日本人にだけつらいのかも
しれません。

お礼日時:2007/06/23 05:40

法律に従って刑罰を受けることではないでしょうか?



最低限の生活をすることは基本的人権として認められているので衣食住が保証されるのは不思議ではないですよね。
しかし、刑務所に入っていると自由を奪われます。経済活動の自由、言論の自由、身体の自由は保障されるべきものなので、これを奪われるということは人間にとってつらいものなのではないですか?
数年間毎日おりの中ではそれはつらいことです。外の世界のようにある程度好きなことができて、好きな人と話すことができて、食べたい物を食べて…このように過ごすわけではありません。私は刑務所に入ったことはないですが、とても辛いことだと思います。

>そんなことに時間をかけるなら、カンボジアで地雷処理をさせるとか
死刑囚からは臓器を摘出してドナーに回すとか、
私が被害者や遺族ならそっちの方がよっぽどうれしいです。

それはあなたが被害者だったらの話です。もしあなたが加害者だったならどうでしょうか?もし刑務所に入ってから間違いに気づいて反省したとしても強制的に自分の内臓を人にあげたり、死と隣り合わせの場所に送られることを素直に受け入れられますか?
被害者にも人権があり、それを侵害した加害者の人権を刑務所で拘束することはできます。しかし、被害者側の感情のままに加害者をどのように扱ってもいいかといえばそれはおかしいのではないでしょうか?
同じ罪を犯しても被害者の感情によって償いが変わるのであればとんでもないことです。
加害者にも人権があります。

罪を償うというのは被害者が得をするためのものではないと思います。
加害者の自由を奪いつつ更生の機会を与える、罪の重さによって自由を奪われる度合いが異なります。日本には自由を絶対的に奪う死刑という制度がありますし。

なにも被害者の感情に合わせて償うのではなく、社会的に罰を与えるのです。そのための法律と裁判所です。社会のルールを破ったものに制裁を加えるのが罪を償わせるということではないでしょうか?

この回答への補足

私が言いたいのは『犯罪者が能動的に何かやるのではなく、
受動的に拘束されるだけで罪を償ったといえるのか』ということです。
もちろんほとんどの罰は受動的なのですが。

反省してもとおっしゃりますが『反省すれば罪が許されるのか?
やはり何らかの行動が必要なのではないか?』と思ってしますわけです。
地雷の話は一例です。社会に何かプラスになることをすべきでないかと。
臓器の話も死刑が執行された後の話です。どっかの国が同じようなこと
やってますが。

極端な例を言えば刑期を勤めても、全く反省してない場合もあるわけです。
それでも罪を償ったことになるのでしょうか?
あ~、書いてたらまた頭がこんがらがってきました。

とりあえず主観で決めてはいけないというのは全くその通りだと思います。
やはり客観的に、ルールに当てはめて裁くことは必要ですよね。

補足日時:2007/06/07 01:59
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/23 05:38

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