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硫黄島から、沖縄の地上戦に至るまでの流れを説明していただきたいのですが、ネットで調べましたが文章が難しくわかりません。硫黄島で最後のあたりアメリカ軍が日本軍人をみつけても殺さず、捕虜にしましたよね?壕を見つけては、「出てきなさい」と声をかけて。あれはなぜですか?そしてその頃にはもう沖縄の地上戦ははじまっていたのですか?
また沖縄の後に、長崎に原爆は落とされていたのですか?無知で申し訳ありませんが教えてください

A 回答 (2件)

日にちを調べて並べて見れば一目瞭然と思いますが。



硫黄島戦闘開始2月19日
米軍が制圧3月17日
(散発的抵抗は3月26日まで続く)

沖縄戦開始3月26日
戦闘終了6月23日

広島原爆投下8月6日
長崎原爆投下8月9日

終戦 8月15日

戦争とは相手の攻撃力を奪うのが目的であり、殺すことが最終の目的ではありません。
ある程度の勝敗が付いたら、殺しても意味がありません。
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>硫黄島で最後のあたりアメリカ軍が日本軍人をみつけても殺さず、捕虜にしましたよね?壕を見つけては、「出てきなさい」と声をかけて。

あれはなぜですか?

確かに、硫黄島に先立つサイパンの戦いでも、また硫黄島の後の沖縄戦でも、そしてこれらと並行して戦われたフィリピンの戦いでも、アメリカ軍は壕(洞窟)に潜む日本軍兵士の死にものぐるいの頑強な抵抗に手を焼き、壕に手榴弾を投げ込んだり火炎放射器で壕内を焼き尽くすなどして、徹底的に日本兵を掃討する作戦を取っていました。

なぜ硫黄島でだけアメリカ軍は生き残った日本兵をなるべく殺さず捕虜にしたのか。それに関しては、戦前のロサンゼルス・オリンピックの馬術で金メダルを獲得した日本陸軍の西竹一中佐(バロン西)の存在が大きかったと考えられます。

ロサンゼルス・オリンピックの金メダリストである西中佐が、硫黄島守備隊の戦車隊長を務めている事を知ったアメリカ軍は、「捕虜としてではなく英雄として迎えるから出て来て欲しい」とスピーカーで呼びかけますが、西中佐は姿を現さず乱戦の中で戦死します。

これは私の想像をまじえての考えですが、乱戦の中に消息を絶った西中佐を探し求めて、もしくは最期の状況を知る者がいるのではないかと、アメリカ軍は戦闘が終結した後になるべく日本兵を生かして捕虜にしたのだと思います。


参考URL Takeichi Nishi (Baron Nishi)
http://ww2db.com/person_bio.php?person_id=368
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