心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。
哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。
そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。
これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。
No.1
- 回答日時:
>心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。
「心」については確かに哲学が着目した命題ではありますが、哲学は「解明」を旨としてテーゼしたのであって「説明」を目的としたのではないと思います。
最近「○○の立場で・・・」とおっしゃる方が多くて困るのですがこの「立場」のないものが「哲学」することであるため「哲学の立場で説明すること」というのは不可能かと思います。「科学」についても同様かと。
>哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、
「科学理論」とおっしゃいますが{科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。}とおっしゃっているではありませんか?
「内包」とはどのようなものを指しておられるのか?
>哲学するとはどのように思考展開していくのか
これは「哲学」とはなにか?という意味ですか?
この回答への補足
早速のご回答(補足要求)ありがとうございます。
1「説明」について
心という現象(これが存在するかどうかも問題ですが)の法則性について推論すること、として使用しております。
2「立場」について
論ずる際に、その立場を明らかにしないで論ずることは出来ないと考えております。例えば、「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。この立場に立つということは、その立場に見合う論理展開の方法があると思うのですが。さらに、心に関する哲学のジャンルだけをとっても、「心身二元論」、「論理的行動主義」、「観念論」、「唯物論」、「機能主義」・・・と際限となくあります。
3「内包」について
「心について哲学する」ということを、「心の概念分析をすることである」とした場合、心についての概念を「理解」するためには「経験的知識」が必要とされます。この「経験的知識」は「科学」によって得られる知識である、ということです。
4哲学の思考展開について
哲学も科学も説明は「理論」によります。2項で述べたように、哲学と科学はその理論の展開の仕方が異なるのではないかと考えております。科学では、「仮定」、「実験」により推論を進めることにより「論理性」が担保されています。
哲学では「概念分析」だけです。しかし、その概念は科学の知識をも根拠としております。
ここまでくると、私は「自己矛盾」に陥ってしまいます。哲学と科学はその説明の方法(論理の進め方)に違いがあるはずだ。でも、その違いがよく判らない。というところにです。
------------------------------
以上、補足させていただきます。つたない説明のために、多くの理解困難な内容を提供していることをお詫び申し上げ、再度ご教示をお願いします。
No.2
- 回答日時:
「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付きませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていらっしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。
テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
(0)観察をする。
(1)仮説を立てる。
(2)仮説から演繹される予想を立てる。
(3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
(4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確かめる。
(5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
(5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しいのかもしれない。
ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の体をなしていない。
(0)(1)(2)(3)(4)まででもまだ中途半端。
(0)(1)(2)(4)(5b)というのは、しばしば勘違いの誤謬を含む。
(0)(1)(2)(3)(4)(5a)となれば、これは立派な「科学」で、失敗報告という論文が書けます。既にある理論に対立する理論を構築し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。
(0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊びレベル。この場合(1)は「一応の仮説」として提言されるべきで、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するなり、(2)のバリエーションを作るなりして一層深い研究を進めるべきです。
かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというのよりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いたしません。)
「心」というテーマは、現在その手法を著しく拡大しつつある認知科学の対象分野であり、心理実験・官能検査等のほかに、生理・解剖・病理、また仮説に基づいて人工知能を構成し、実際の「心」と比較して違いを探る、というアプローチもあります。
一方、内省的な「心」の検討は、もともと主観的なものですから、大体が我流用語のこんがらがった寝言のような代物になってしまいがち。このため全てが(2)のレベルにまで洗練できるとは限りません。でも(ムカシの哲学者の寝言などほっといて)認知科学的観点との矛盾のチェック(3)を怠らず、かつ認知科学のカバーしていない領域をこそ(0)(1)していくことこそが「科学でない哲学」の部分の使命と言えるんじゃないでしょうか。
私の使用している「科学哲学」は、哲学的諸問題を科学との関係で論じていく、という程度のもので、明確な定義を持ち合わせておりません。
さて、明快なアドバイスありがとうございました。特に、認知科学に対する哲学の使命を示唆していただいたことに感謝申し上げます。そもそも私の疑問は「心の科学は可能か」(土屋 俊 認知科学選書)からきています。ここでは哲学的問題を科学として論じようとしています。そこで、私は、哲学と科学の論じ方(説明の仕方)に違いがあるのかに疑問をもったわけです。
勉強の視点が出来たように思います。ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
概念というものは、飛躍的なイメージのようなものである場合が結構あると思います。
そのイメージは極めて個人的であったり、地域や集団が持っているものであったりすると思います。なぜ、そのような概念を持つに至ったのか、イメージの発生源を解明したり、根拠を解明する作業が哲学ではないかと思います。そういうところは科学とは違うと言えるのではないでしょうか。何か間違っていましたらご指摘下さい。概念と哲学という見地からのアドバイスありがとうございました。
哲学で求めている「概念」は、私は、「真理」ではないかと思います。そういう意味での根拠を明確にする作業が哲学ではないか、という意見には同意できます。
No.4
- 回答日時:
なるほどたしかに、そのような御関心をお持ちならば、哲学・科学の立場や見方のちがいには自覚的になる必要がありますね。
ご研究の足場固めとして不可欠の作業でしょう。Satonohukurouさんの言われる「科学哲学」が、論理実証主義のものか批判的合理主義のものか、あるいはネオプラグマティズムのものか、はたまた新科学哲学の流れに属するものか、それによって少々変わってくるでしょうが、おおまかなところで考えを述べます。
まずは「そもそも科学に心を捉えられるのか」という問いを立てれば、もうそれだけで「科学ではない哲学の問い」になりうるでしょう。具体的に言うと、心理学の批判的検証とか。
心理学って、あれよと言う間に「エセ科学」に転落する危険を常に抱えています。純粋に自然科学的手法に徹すれば人間の多様な心的内容をとらえきれない、かといってその多様な心的内容を組み入れようとすると、論理的法則性や一貫性が危機にさらされる。そのどちらも十全にという心理学は、はっきり言って無理でしょう。現実には、そのどちらを重視するかでさまざまな「○○心理学」が分立しています。
また、心理学にありがちな問題点は、観察対象の客観性の純粋さと対象観察する主観の純粋さへの反省がしばしば不十分であるか、あるいはまったくなされていないことにもあります。例えば、2ページ後ろの質問No.39578「人間にとって物語とは何か」で私が書いたものがあるのですが、「発達心理学」は近代的虚構としての子どもを実体化した上で対象としており、しかも「発達」の基準となる「大人」とは何かをまったく問うていません。近代という時代の産物を、最初から色眼鏡をかけて眺めているのです。
心というものは、優れて文化的なものであり、時代や地域によって左右されます。物理的対象物とはちがいます。そこで敢えて一貫した法則性を貫こうとすれば、歴史や文化の展開をも法則化せよという無茶な課題にまで答えねばなりません。ヘーゲルやマルクスの歴史哲学なんか、もう破綻しちゃってます。何とか同意できそうな歴史法則はというと、せいぜい「歴史は繰り返す History tells us nothing.」てなくらいなもんです。
ということで、心理学を初めとする「心の科学」の成立基盤を問い、それによって何が見え、何が見失われるかを検証する作業を経て、ではどのように「心」というものに取り組んでいくか…という手順で考えを進められてはいかがかと思います。
serpent-owl さん 私は、country-owl です。よろしくお願いします。
さて、心に関する科学としての「心理学」に対するご批判は、全く同意見です。私が呼んだ哲学関係の参考図書でもほとんどが批判的なものでした。
やはり、「心の科学」の成立基盤をはっきりと捉えておかないと、だめでしょうね。貴重なアドバイスありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
えーと。
ご質問を理解していないかもしれないですが、とりあえず…。或る条件の基では、必ず、或る結果が起こることを証明すして、原因と結果をつなぎあわせていくのが、一般的な科学の手法だと思います。
下で、
--3「内包」について
「心について哲学する」ということを、「心の概念分析をすることである」とした場合、心についての概念を「理解」するためには「経験的知識」が必要とされます。この「経験的知識」は「科学」によって得られる知識である、ということです--
と書かれていますが、そういった事例もおそらくあるでしょう。しかし、逆に、科学が哲学を根拠にして成立しているのも事実です。
例として、「悲しい」という感情を考えてみます。
科学では、或る条件が与えれると、心に「悲しい」という結果が生じると考えるとします。
A→「悲しい」のメカニズムの解明ということになります。
しかし、Aが脳内の働きであれ、直接的な外部からの刺激であれ、
条件と結果が必ず対応する、という根拠はあるのか?
そもそも「悲しい」とは何か?
Aによって「悲しい」が引き起こされるのか、それとも、
この場合、A=「悲しい」と言ってしまえるのか?
「悲しい」という心を理解しているのも、また、心ではないのか?
など、(非常に基本的な例でしたが)哲学的な疑問点が生じます。
しかし、上述した、「科学」も一つの立場に過ぎません。
行動主義的な科学では、Aによって、身体にどういう結果が生じるのか(涙が出るとか、脳波とか、脳内物質とか、)いう結果を重んじるでしょう。とか、考えると、科学にも、哲学的な根拠があることになります。
ところで、僕も「立場」という言葉で、はぐらかされた論文は、好きではありませんが、研究の際、方法論は、何かしら必要になると考えます。この方法論が、科学においても、同一ではないでしょう。
--哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。--
とご質問にありますが、しかし、思考展開そのものも哲学になるので、唯一の回答というものはないと思います。
と、書いてきましたが、stomachmanさんのご意見と、同じようなものになってきたことに、今気が付きました。^^;
結論として…。科学と哲学は、はっきりとした区別はないと思います。ただし、科学は、なるべく主観を排した客観的法則を重んじる傾向があるような気がします。心を科学で扱う場合、この客観と主観の問題が、(物理的な現象では、無頓着で居られたのに)、浮上して、さらに、科学と哲学の区別も、はっきりしなくなる、と思います。が、変な説明ですね(-_-;)
ところで、僕が、読んだ中で、哲学からの科学批判という意味でおもしろかったのは、メルロ・ポンティの『行動の構造』です。科学分野では、複雑系関連の図書がおもしろいと思います。
以上です。
ありがとうございます。結論として、科学と哲学には明確な区別がないのでは、ということでしたが、それでは困ります。と申しますのは、「学」はそれぞれ成立根拠があるはずです。したがって区別の出来ない「学」は「学」として成立していないものといわざるを得ないからです。
メルロ・ポンティは、現象学の立場から心について論じている哲学者として承知しておりました。ご紹介いただいた「行動の構造」さっそく読ませていただきます。ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
はたして科学と哲学という区分で良いかどうか自信はありませんがまとめてみたい
とおもいます。
さきのsupersonicさまが言ってられた[悲しい]という感情に便乗します。
もし科学であればまさにいわれたような(涙が出るとか、脳波とか、脳内物質とか、)
の時空における存在を判定して前後の因果関連,というより「A ならばB」という
条件法の成立を目指すものだと思います。
論理学で考えれば科学の対象は時空における「Aがある」という一般命題を基本
単位としています。この方式で行くと「悲しみ」の時空における存在,すなわち脳内部
の化学式とか電機反応とかその他の記述によって、「ある意識が悲しんでいる」が
普遍的に真なる命題であるための厳密な定義が必要となります。
こうした科学的方法に対して哲学的方法は言葉の単位である命題を分析します。
「悲しい」とは哲学的方法では「いまのわたしはよくない」という命題の表現とみ
ます。単純な形でこの命題は「Aはわるい」に区分されます。
ご存知とは思いますが「Aがある」や「AはBである」の類の命題は一般命題といって
前提として定義された公理系のもとに厳密な体系が展開されます。
これに対して「Aはよい、わるい」といった価値命題はまだその定義は一般的に
確立していません。価値命題は普遍的性格を持ち得ず,主観世界の中でしか
真偽判定できないと考えられるからです。
では価値命題はいかなる論理性も持ち得ないのかというと次のようなモデルが
あります。「Aはよい」は「わたし」なる意識によって判定されるわけですが、ここには
関連性があっていまひとつ可能命題が必要となります。
ここでいう可能命題「Aであるはずだ」とか「Aかもしれない」は確率や様相論理で
いうところの普遍的可能性とは異なりあくまで主観レベルでの「信じる」という部類の
命題を指します。
たとえば対象命題Gを「彼をゲットする」だとすると、VGの真理値1は「彼をゲットする
はよい」を表し「彼をゲットできそうだ」は可能命題ですからPGで表します。
そしてこの二つの命題がそれを判定しいる「わたし」の存在価値VS「いまのわたし
はよいとかわるいとか・・・」を定義して(VG∧PG)⊃VSと記述できます。
これを真理表の一覧にしてみると・・・
1、1、1{彼は好みのタイプ、かつゲットできそうだ、ならばわたしはうれしい}
1、0、0{彼は好みのタイプ、かつゲットできそうにない、ならばわたしは悲しい}
0、1、0{彼は好みじゃない、かつ関係を迫ってきてもうれしくない}
0、0、1{彼は好みじゃない、かつ関係を持たないならばそれに越したことはない}
意識のユニットVSは→1なるポテンシャルをもっているようです。
たとえ彼が好みだったとしても、どうしてもゲットできそうにないなら、男なんてみな
けだものよ、とか考えてVGの真理値を変換します。結果VS=1を導出しようとする
わけですね。以上のような感情論理学もモデルのひとつですね。
satonohukurouさまはめそめそ女はお好みですか?
では・・・。
丁寧な回答ありがとうございました。
科学と哲学の違いを「論理学」から説明していただきました。
当然、論理学は勉強したのですが、苦手な科目でした。
でも、理解しやすい例示です。
そうですね、価値命題の論理性について理解しておくことがポイントですね。
いまどき、めそめそとするナイーブな女性が存在しているとは、是非お近づきになりたいものです。
こんな不謹慎な考えは、命題分析の対象になるでしょうか。
No.7
- 回答日時:
>いまどき、めそめそとするナイーブな女性が存在しているとは、是非お近づきになりたいものです。
>こんな不謹慎な考えは、命題分析の対象になるでしょうか。
意識が他者を前提とできるのはやはり「~したい」「~すべきだ」という価値をあら
わす命題表現が知覚対象に適応できるか否かにかかっているかとおもいます。
他者を因果の束で解釈できたとしたら相手はロボットみたいなものだからめそめそ
してようがしていまいが、あなたはただ規定の解釈をするに留まるということに過
ぎないでしょう。
めそめそ女は一般に他者の言うことに従う傾向があると判断できるでしょう。
自己否定が強ければ自己の判断自身が否定傾向にあるわけですから、そ
れは他者(ここではあなた)の言うがままになりやすいのではと判断できます。
そこであなたが、めそめそのわたしを相手にした場合、先の真理表の1、4行目の可能性
PGの任意設定権を手に入れたわけです。あとはVGの確認、すなわち(わたし)が
あなたのタイプか否か判定できれば良いというわけです。
自由意志は言ってみれば
・やりたいことができる
・やりたくないことはやらない
の二つから成り立ちますから、あなたは不謹慎という自由意志の名のもとに
VS→1のポテンシャルを実現されようとしているわけです。
No.8
- 回答日時:
自然科学の領域では、拠って立つ基盤である実証主義が、ほとんどの場合「素朴実在論」の域を出ていないのではないでしょうか。
もちろん、量子論などまで行くとそうでもないのですが、まず大抵の場合には「あるがままに」見ようとする対象を「そのようにあるもの」と考えて差し支えない。だから反省の必要も認めないのでしょう。ですが「心」が相手ではやはりこれは困るのです。観察できると信じ、観察していると思っている「心」なるものが、本当に見えているとおりのものであるか、そこから話を始めなくては。にもかかわらず、経験的科学としての心理学は、患者であれ普通の人であれ、症例・事例を収集して土台を固めようとはしますが、それ以上問うことはしません。科学が拠って立つ「実証主義」の限界に囚われているからではないでしょうか。(だいたい「理性」と「狂気」の区別自体、近代の発見物であり捏造物です。)
少し具体的に見ましょう。例えばフロイト派の流れを汲む心理学者なのに、ヌケヌケと「人間の本能は壊れている」などとのたまう方がおられます。冗談じゃありません。「種」にそなわった書き換え困難な本能が、たかだか数万年の時間で「壊れ」るはずがありません。最初から「本能」を捉えそこなっているから、壊れているように「見えて」しまうだけです。
ありがちな話として、昨今の母親による幼児虐待を指して「母性本能の崩壊」などとワケ知り顔の識者が言ってたりします。しかしここで、「母性愛」を「本能」と捉えることには問題があります。それは必ずしも本能とは言えないということが、「実証的に」示せるからです。
実は、母親「だけが」子育てに携わるようになったのは、百年にも満たないごく最近のことです。それ以前は多世代家族ぐるみ、地域ぐるみで子育てするものでした(「実証的な」データがあります)。それが、家と生産の場を切り離す近代的労働形態の一般化、および核家族化の進行とともに「主に母親」の仕事になった。この過程で「母性愛」が母親必須にして不可欠の美徳としてクローズアップされてきたわけです。さらにはこれが、客観的な事実としての時間の長さをはるかに超えて古いものと観念され、ついには「本能」にまで格上げされてしまった。一つの「イデオロギー」なのです。もちろん、「母性本能なんて、もともとない」とまでは言えません。存在はするでしょう。が、それをはるかに超えて大きく重いものに肥大して、近代的母親の肩にのしかかっているということです。
現代の母親は、頼りになる先輩ママや同じ悩みを持つ同輩ママと交流を持てない場合は特に、たった一人で「母性愛」なる神話に耐えなければなりません。この苦しみが「虐待」という現れ方に結びついたとしても不思議ではないでしょう。
つまりここで、「母性本能」なるものは、生物として持つ「核」のような部分よりも、むしろ近代の社会構造に由来していると言えるわけです。むしろ「文化的なもの」なのです。こういうものなのに、ユングに至っては「グレートマザー」などと称して実体化しさえする。まったくナンセンスです。観察対象を「見えているとおりのものだ」と思い込んでいるからこういうことになる。
ではどうするか。
一つには、素朴実証主義の実証主義による乗り越えが考えられます。前の書き込みに挙げた「子ども論」ですが、その出発点をなしたフィリップ・アリエスの論考は、実は何ら哲学書ではありません。純然たる歴史書です。アリエスは、近代以前から近代に至るまでの共同体と「幼いもの」との関係を、一つ一つ事実を挙げて示しています。そしてその全体が「子どもは近代に至って初めて発見された」という結論を浮き彫りにします。すなわち、彼はここで、「ありのままの事実」を「ありのままのように見えているもの」にブチ当てることで、これを解体しています。実証主義の実証主義による乗り越えが、ここに示されているように感じます。
フーコーの「知の考古学」も同種の手法であろうと思われます。直接的には正統派歴史哲学が強調する歴史の連続性や普遍性に対抗する論理ですが、そこには「記述できる歴史は穴だらけ」であって、言い換えれば、記述された歴史に真の歴史の姿はないという示唆があります。むしろアナール学派(アリエスを含む)のような、日常生活史としての「心の歴史」に示されるような「不連続」の泡沫に注目しようとする。そしてそこに、思いがけない生産性が見出されたりします。
あるいはまた、別の手法として、最初から「身体」という地平で「心」を捉えるのもアリでしょう。これはメルロ=ポンティあたりが出発点で、日本では市川浩さんが代表的な論者です。もちろん、デカルト以来の心身問題を、いわばテコにして生まれてきた考え方になります。すなわち、心と肉体は截然と区別すべきものではなく、身体は心が外界と関わる媒体であると同時に、外界環境を心に映し出す鏡でもある、というような。
すると、この身体論という心の捉え方にギブスンの「アフォーダンス論」をアダプト(接続)すると面白いかもしれません。『心の科学は可能か』をお読みなら、あるいはご存知と思います。環境世界の意味と価値は、必ずしも「意識へのあらわれ」という形で主観に帰せられるものではなく、環境世界の側に属してもいる。その意味と価値を直接的に感応することを通じて、心もまた規定されてくる。…これは、「我」をそれ自体として切り出しておいて、その全体性を見失ったままに扱うのではなく、最初から「我」と「環境」を一体のものとして考える可能性を開く論点でありうるものと考えます。
と、前回書いた「心の科学の成立基盤を問う、そして改めてどう考えるか」という点を少し具体化してみました。けれど、どうにもまとまりません。勉強不足のせいでしょう、問題が絡み合った迷路のように見えます。もう少し時間をください。そして、もしよろしければ、なにがしかの示唆も。
No.9
- 回答日時:
邪悪な名を持つ一般人哲学者serpent-owlさんの思索を辿っているうちに、真理を求めて酔歩するおっさんmori0309氏が何度も発せられている「自由と実在」に関する一連の強烈な質問を思い出してしまいました。
そもそも「心」ってあるんでしょうか。いや、いきなり、全ては神経伝達物質や神経ネットワークや電気パルスに還元できる、という話をしているんじゃありませんよ。
知覚や運動のための機構、認知の機構、記憶の機構、こういった(病的な例を除く)動物にも共通のメカニズム、これは「心」の一部なのか?環境とのインタラクションに於いてのみ「心」が意味を持つという観点ではYESでなくてはならんでしょう。でも「感情」「本能」「意識」そして一番問題の「意思」に比べたら「格が違う」という捉え方がどうも普通のように思われます。そしてこの格の高いところに注目したがるのが哲学の傾向のようです。しかしstomachmanの感覚としては、このようないわゆる「高次の機能」なるものほど、人工知能を構成しようという時には比較的簡単な課題に思えます。さらには、自分の行動を見ていると環境からのインプットに半自動的に応答しているに過ぎないようにも感じます。
mori0309氏の本能に関する質問に対して書きましたが、小さな昆虫の行動にすらヒトは「意思」を読みとってしまいます。あらゆる所にパターンを、アナロジーを、啓示を見いだしてしまうという、いわば「帰納本能」をヒトは持っているようです。児童虐待の数例を挙げて母親全般の本能を論じちゃうような愚を犯すのも、僅か一例の偶然の観察をもとにして本質的な物理法則を発見しちゃうのも、「帰納本能」をでっち上げちゃうのも、もとは同じメカニズムであるように思われます。要するに「要するに」と言いたくなる性向そのものこそヒトの認識能力・学習能力の泉源であり、哲学の原動力であると思うんです。哲学の本質は法則の抽出、言い換えれば思考の節約にあると思うんですよ。(「哲学とは?」に関するだいぶ古い質問に対するstomachmanの回答もご参照下さい。)ところが「高次機能」に関しては個人差がかなりあるのではないか。具体的すぎて説明できないような「個人的経験の経過」が感情や行動に繋がっていくんじゃないか。
ですから、「心」を科学できるかどうか以前に、「心」(言葉・概念としての「心」ではなく実体としての「心」)の、特に高次機能の部分を哲学の対象にするという発想は極めて危うい。実体があるのか幻想なのか、そこから始めなくてはならない。言い換えれば、従来ある「心」に関する先入主・学説・用語・言語表現を一切捨て去って観察を始めるのでなくてはならんように思うんです。(この点、おそらくserpent-owlさんの仰ってることと多少近いと思うんですが。)昔、米国でやたらめったらやっていた行動主義心理学も、この問題から逃れる一つの(姑息な)方向ではあると思いますが、現在行われている認知科学(中にはスカタンも混じっていますが)においては「測定可能な実体」であるような「心の低次の一部」を対象にするという現実的なアプローチが取られているように思います。それでも「物体形状のイメージ」や「quolia」という主観的経験を主題化することにある程度成功している。一方で、分割脳患者の研究(「二つの脳と一つの心」ミネルヴァ書房 1980)や、乖離性同一性障害(へびくん、げんき~?)、重度の分裂病などを見ると、高次の意味での「心」がひとりに一つずつあるわけではなさそうで、せいぜい「0個以上ある」としか言えないように思います。
なんだかとりとめのない、自己矛盾すら含んだ作文になっちゃいましたが、アドバイスとしては、あんまり「高次」の話から手を付けない方がよさそうだぞ、という詰まらない結論になるんです。とほほ。
No.10
- 回答日時:
ふくろう叔父さまから具体的なサンプルについてご提示があったようでございます
ので関連して言及したくなりましてございます。
>現代の母親は、頼りになる先輩ママや同じ悩みを持つ・・・。この苦しみが「虐待」
>という現れ方に結びついたとしても不思議ではないでしょう。
先の論理式から言ってこの現象を考慮しますに・・・。
(1)酒鬼薔薇事件
(2)バスジャック事件
(3)お受験事件
この辺の社会現象は、ほぼ共通なパターンを持つと解釈できます。
ことによると世紀末一家惨殺も同様かと・・・。
意識ユニットVSは計測可能な側面として自己否定肯定、他者否定肯定の四つ
の面をもちます。この辺の構造はエリックバーンの交流分析に類似してます。
すなわち、自分が否定傾向に犯された場合、意識は環境との関連でファイト
オアフライト反応の選択状態に置かれます。
簡単に言ってしまうと,「おまえそこどけよ!」との環境要請に対してどう対処する
かといえば・・・。
A「ごめんなさ~い、気がつかないわたしってなんてバカなんでしょう」
B「なんだてめえ、やぶから棒に失礼じゃないか」
てなわけです。
いずれを選択するかはユニットに対して自分の力量を推し量って対抗可能と判断
した場合はBを選択します。
実際に対戦者とやりあってうまく勝ちを収めるか相手との妥協点合意が成立すれ
ばよいわけでございますね。
しかしながら正面の闘争を回避してAを選ばざるを得ないようなユニットにおいて
敗北の記憶はVS=0、俗に言うトラウマとして温存されます。
ポテンシャルが満たされない状態は不安定な状況です。
この状況で「このうらみ、ほかのやつに晴らしてやる」のごとく代理対戦者を求めて
しまいます。この場合代理者は弱者でなければなりません。
対戦の構造はケースバイケースでまちまちです。
(1)は多分経済的な比較における不満が子供に対する過剰な軋轢となって、こん
どはその子供が病的な虐待にはけ口を見出した。
(2)は腕力における劣等意識および本人自身が持っていた自己への過剰期待。
(3)はやはり地域社会において自己に与えすぎた過剰な教育レベル意識。
もし自分を振り返って伴侶も家もなく仕事もままならず、かといって腕力にある程度
自信があって他人なんてどうでも良いというレベルの倫理観の持ち主である場合・・・。
面と向かっては経済的に成功するとか伴侶を得るのもテクニックが必要で
す、これはひとつの力量ですね。
幼児虐待は現実処理能力の未熟な母親の代理対戦者、もともとVSポテンシャ
ルのありきたりの現象・・・というのは如何?
【対応】
実験・・・幼児虐待に悩む主婦を収集して本来の対戦者を確認させる。
「おまえは赤ん坊を泣かしてはならない」「立派な母親でなければならない」
「母親として育てる義務がある」「他人より優雅な生活をしなければならない」
そのうえではけ口として社会的問題のない「さんどばっくうさぎさん」などを
あたえてストレス発散(クレヨンしんちゃん提供)・・・。
事例研究がながくなりましたので結論。
(幼児虐待問題に対して・・・)
・科学的方法
過去の実証主義に基づきフラクタル現象学の見地から一般理論を導いて
日常生活史として検討する。
・哲学的方法
幼児虐待に悩んでる母親を集めてクレヨンしんちゃんの方法で統計を取る。
※邪悪なふくろう叔父さま、ちょっと言及しちゃいました、ごめんなさい。
あとで点数上げます。
里のふくろう叔父さまへ あなたのめそめそ女
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